第47話:朝の静けさ、忍び寄る影
朝の光がアドリアン邸の白壁を照らしていた。
霧がまだ薄く残る丘の上、鳥の声が澄んで響く。
昨日までの喧騒が嘘のように、空気は柔らかい。
厨房では、二人のメイドが忙しなく動き回っていた。
「セラ、ミルクを…って?!それ焦げるよ!!」
「うそっ!? ああもう、火が強い!」
「はぁ、ここは私がやるから……。ほら、テーブル拭いてきて。お嬢様がもうすぐ起きます」
青髪のアイリスは手際よくティーポットを並べ、
オレンジ髪のセラはパン籠を抱えて右往左往している。
食堂には焼き立ての香りが満ち、外の光がテーブルの銀食器に反射してきらめいた。
「ねぇアイリス、エレナ様って朝食どれくらい召し上がるのかしら?」
「半分は残されます。戦いの翌日はいつもそう」
「へぇ〜そうなの?」
「あなたも少しは見習ってください」
「……ふぇっ!?」
セラの悲鳴に、使用人控えの小間使いが笑い声を上げる。
ほんの少し前まで戦場のようだった屋敷も、
今は穏やかな“朝”の空気に包まれていた。
そのとき、廊下の奥で足音がした。
メイドたちが動きを止める。
鎧の留め具の音――エレナが戻ってきたのだ。
扉を開けた瞬間、彼女の赤髪が朝の光に揺れた。
「おはようございます、公爵閣下」
執務室では、アドリアンとリュリシアがすでに待っていた。
机の上には昨夜の報告書と、封を切らぬ文書が積まれている。
「おはよう、エレナ」
リュリシアが立ち上がり、微笑みを向けた。
「昨日はお疲れ様、昨日の怪我は?」
「かすり傷だけです。……結果の報告を」
エレナは膝をつき、淡々と告げた。
「形式上は私の勝利となりました。
ですが実際には…私は剣を奪われました――敗北です」
静寂が落ちる。
リュリシアが小さく息を呑む。
アドリアンは瞼を閉じ、深く息を吐いた。
「……なるほど。 その判断で良い」
「はい…」
「では、どう見る。 あの男――“アーク”を」
「生きるための剣です。 ですがやはりあの剣には誇りも規律もありません。
ああいう者を護衛に置くのは危険です」
アドリアンは軽く笑った。
「信念や誇りを持つ者は尊い。だが誇りだけで生き残れるほど、
今の世は甘くないだろう…」
エレナは言葉を詰まらせる。
リュリシアは二人を見比べ、少しだけ俯いた。
あの砂の上の光景――倒れても立ち上がる姿が、まだ胸に焼きついていた。
「……お父様。 私、あの人……少しだけ、怖かったです」
「怖い?」
「はい。恐怖とは違う…どこか脆そうなそんな怖さです」
リュリシアは俯き、その姿をまぶたに受けべながら言葉を続けた。
「でも……どこか、安心もしました。 なぜか分かりませんけど…」
アドリアンは微笑んだ。
「なら、それでいい。お前には母上の目がある。 この先、誰を側に置くか――お前が選びなさい」
リュリシアは頷いた。
その時――扉が二度、静かに叩かれた。
「入りなさい」
エレナが声を掛ける。
入ってきたのは、メイド服の女。
青い髪に同じ制服、同じ姿勢。
だが空気が違う。
笑みもなく、声の温度が冷たい。
「……失礼いたします。 例の一行、アークを名乗る者たちは、
今朝方、宿を出発しました。 行き先は特定できておりません」
まるで感情を削ぎ落としたような、氷の報告。。
アドリアンは静かに頷く。
「分かった。 下がりなさい」
「失礼いたします」
一礼し、音もなく退室する。
扉が閉まると、温度が少し下がったように感じた。
リュリシアはその背を見送りながら首を傾げる。
「……あの子、少し顔色が悪かったわね。 お腹でも痛いのかしら」
エレナが一瞬だけ眉を寄せたが、何も言わない。
アドリアンは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……そうかもしれんな。 誰にでも、朝は重いものだ」
リュリシアは不思議そうに首をかしげ、
光の中に戻っていく父と騎士の背を追った。
屋敷の外では、メイドたちの明るい笑い声が再び響いていた。
その音が、どこか遠くに聞こえるほど、部屋の空気は静かだった。
ーーーーーーーーーーーー屋敷の外
屋敷を出る頃には、霧はすっかり晴れていた。
街の屋根に陽光が差し込み、石畳が白く光る。
昨日の喧騒が嘘のように、穏やかな風が吹いていた。
(……)
アーク――いや、コール。
あの男の名を思い出すたびに、胸の奥が微かにざらつく。
あの一撃、あの視線。
正規の剣ではない。だが、確かに“生きる”ための刃。
(あの戦い方、理解はできないが…)
思考を遮るように、通りの鐘が鳴った。
エレナは背筋を伸ばし、マントの留め具を整える。
通りを行き交う人々の中で、その姿はまるでひときわ冷ややかな刃のようだった。
宿の前に立つと、すでに戸口は開け放たれていた。
中からはパンを焼く香りと、女将の明るい声が聞こえる。
「……すまない。昨日こちらに泊まっていた、一行について伺いたいのだが」
エレナが扉を軽く叩くと、奥から丸顔の女将が顔を出した。
「あらまぁ、騎士様!あの若い人たちなら、朝早くに出ましたよ」
「行き先は?」
「さぁねぇ……“ちょっと買い出しに行く”って。荷物も残していったから、きっと戻りますよ」
(買い出し……?)
エレナは軽く頷き、礼を述べて宿を後にした。
街路には露店が並び、商人の声があちこちで飛び交っている。
果物の赤、布の青、金属の反射。
すべてが賑やかで、生の匂いに満ちている。
鎧の足音が石畳を打ち、行き交う人の波を割って進む。
子どもたちがエレナを見上げて「騎士だ!」と囁き、
商人たちはそれを遠巻きに見て道を開ける。
日が高くなるにつれ、街の中心――市場の活気はさらに強くなっていた。
エレナは果物を並べる商人に近づく。
「失礼、朝方このあたりで、若い獣族の女を二人連れた黒い外套の男を見かけなかっただろうか?」
「あぁ、見た見た。果物の値段でリュカって女の子に絡まれたな」
「……絡まれた?」
「あの元気な子。笑いながら値切るもんだからこっちが負けたよ」
エレナは小さく息を吐いた。
「で、もう一人の女の子がその後ろで止めてたなぁ。あの子は落ち着いて良い子そうだったな。……それと――」
商人が指を立てる。
「少し離れたところで、男が果物をひとつ手に取って……なんていうか、
“味を見るように”眺めてたんだ。買わなかったけどな」
(離れたところで?…連れ合いではないのか?)
エレナは軽く会釈して歩き出す。
通りを抜けるたびに、風が頬を撫でる。
市場の喧騒の中に、どこか懐かしい空気が混ざっていた。
不思議とその心中にアークが常に浮かび、エレナは違和感を覚えていた。
(…妙な感覚だ)
立ち止まったその時、遠くで鐘が鳴った。
昼を告げる音。
陽が高く昇り、白い街並みの屋根を照らす。
ふと見ると、果物屋の軒先に一羽の白い鳥がとまっていた。
風を受け、羽を揺らしている。
(奴は戻るのだろうか……それとも、もう二度と)
鎧の裾を翻し、エレナは再び歩き出した。
太陽が彼女の背を照らす。
その影は、長く、まっすぐに伸びていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーその頃、コール達は…。
昼の鐘が二つ目を打つころ、俺たちは市場の外れにいた。
香草と肉の匂い、鍋の音、呼び声。
陽射しは強く、どこもかしこも活気で溢れている。
「ねぇコール、こっち安いよ! 三束で銀貨一枚!」
「三束もいらねぇ。持つのは誰だ」
「シアでしょ?」
「当然コール様です」
「当然じゃねぇ!、一応怪我人だぞ!」
「うふふ、冗談です。自分で持ちなさいね?…リュカ?(ギロリ)」
「あ、あはは、わかってるわかってる…」
笑いながら言葉を交わしていたその時、
シアの耳がぴくりと動いた。
その動きは、ごく小さく――だが、明らかに変わった。
「……?」
「どうした」
問いかける俺に、彼女は指先で「し」とだけ合図した。
表情が一瞬で消える。
リュカも気づいたのか、からかいの声を止め、
シアの横顔を覗き込む。
「……何か聞こえた?」
「静かに」
シアは耳を立て、瞳を閉じる。
人の喧騒を押しのけるように、
遠くの一点を探るような動き。
風の流れ、足の擦れる音。
その中で、何かを確かに掴んだのだろう。
「……つけられてます」
「……誰に?」
リュカが低く返す。
「一人。軽い足取り。でも……呼吸が、抑えられてる」
リュカの顔が引き締まる。
彼女も耳を立て、風の音を追うように目を細めた。
「……ほんとだ。距離を保ってるな。……しかも気配を消して」
「獣族ではありません。もっと訓練された感じです」
「……盗賊?、でもこんなうまく隠れる?」
「……わかりません」
俺だけ、まったく何も聞こえない。
市場の声がうるさいくらいなのに、
二人はまるで別の世界を見ているみたいだった。
「……コール様」
「ん?」
「何も聞こえませんね?」
「ああ、俺にはさっぱりだぜ、気配もわかんね」
「なら、そのままで」
次の瞬間、シアが俺の手を取った。
そのまま歩き出す。
リュカもすぐに逆側の腕を引き、
三人で人の波に紛れ込む。
「おい、何――」
「黙って歩いてください、位置を探ります」
声が低く、硬い。
普段の二人の軽口は消えていた。
石畳を踏む音。
人々のざわめきが遠のくように感じる。
(……俺には何も聞こえねぇ。なのに……この静けさは何だ)
シアの手は冷たく、
リュカの指先には、かすかな震え、戦闘前のこいつのクセだ。
三人の影が、露店の影を抜けて、
細い路地の奥へと消えていった。




