第41話:たとえ意地汚くとも
昼を少し回った頃、
街の東端にそびえる円形闘技場――アルセリクス・コロシアムが、
太鼓と歓声のうねりで揺れていた。
白い石壁は陽を受けてまぶしく光り、
門前の通りでは屋台が煙を上げている。
香辛料と焼き肉の匂いが入り混じり、
人々の声が潮のように広がっていた。
ここはアドリアン公爵領の中心都市――エルヴァン。
王都から東へ二日、
“境の都”と呼ばれるこの街は、
戦と商の両方で栄え、常に熱を孕んでいる。
「こりゃ……すげぇな」
「こんなに人がいるんだ」
リュカが人混みを見上げて息を漏らした。
「お祭りの比じゃないですね」
シアも肩を寄せる。
俺は二人の前を歩き、コロシアムの外門へと向かった。
「出場者はこちらの列へ! 登録証をお持ちの方は前へ!」
列には鎧を着た戦士から旅姿の傭兵まで、
ありとあらゆる猛者たちが並んでいる。
それぞれの目が、金貨の報奨よりも“名”を求めていた。
やがて順番が来る。
書記官が羽ペンを走らせ、俺たちの名前を控える。
「登録名と所属を」
「アーク。連れはリュカとシア。ギルドの登録書だ」
「確認しました。お三方、武具の持ち込みは禁止。
全出場者、闘技場備え付けの装備のみ使用を許可します。
控室はそれぞれ別――組は分かれますが、初戦は同日中に行われます」
「別々……か」
「ええ。安全と公平のため。――ご武運を」
手渡された木札には、それぞれ違う数字が刻まれていた。
リュカがちらと俺を見る。
「どっちが先に勝ち残るか、勝負だね」
「……お前ら、張り合うなよ? あと俺は手加減しねえからな」
「ふふ、望むところです。戦場ではこちらも容赦いたしません」
シアが小さく笑った。
門前で短く拳を合わせ、それぞれ案内係に導かれて別の通路へ進む。
石壁に囲まれた通路は、外の喧騒が嘘のように静かだった。
俺が通されたのは西側の控室。
鉄の扉を開けた瞬間、
金属と革の匂いが押し寄せる。
壁際には大小さまざまな防具と武器。
鎖帷子、胸甲、片手剣、槍、盾――
どれも使い込まれた跡があり、
ひとつひとつが、かつての戦いの証のように沈黙していた。
すでに数人の参加者がいた。
腕組みして瞑想する男、
刃を研ぐ女剣士、
祈りを捧げる修道戦士。
言葉はない。
だが空気はすでに火花のように張り詰めていた。
俺は手近な剣を取って軽く振る。
重さは悪くない。柄の感触も馴染む。
(ふむ……使えるな)
その時、鉄格子の奥で太鼓の音が鳴り響いた。
低く、腹に響く音。
合図が鳴った。
「……始まる」
誰に言うでもなく呟き、
俺はゆっくりと剣を納めた。
外では群衆の歓声が渦を巻いている。
だがこの部屋にいる者たちは、
誰一人として笑わなかった。
それぞれの戦いが、すでに始まっていた。
太陽はコロシアムの円天井を貫き、
砂の舞台を金色に染めていた。
太鼓の響きが地を震わせ、
観客の歓声が波のように押し寄せる。
旗が翻り、鳥が空を横切る。
――アルセリクス・コロシアム。
そのすべてが、戦いの熱を孕んで鳴動していた。
上層の貴賓席。
白い大理石の柱の間に、リュリシア・アルトリウスは静かに座っていた。
金糸の垂れ布が風に揺れ、
観客席からの熱気が高みにまで届く。
彼女の隣では、父――アドリアン公爵が立ち上がる。
金縁の外套が翻り、手には装飾の少ない一本の杖。
「民よ、騎士よ、戦士たちよ――」
その声は堂々と、しかしどこか柔らかく響いた。
「このエルヴァンに集った勇者たちに、我が感謝を捧げる。
戦とは流血ではなく、誇りの証である。
その刃が誰かを傷つけぬよう、
この祭典が我らの信を繋ぐ日となるよう、願おう」
公爵の声に合わせて、太鼓が三度鳴る。
歓声が再び天井を震わせ、
開会の合図が高らかに響いた。
リュリシアは拍手の波の中、ふと下を見た。
戦士たちの列が、砂の上を一人ずつ歩いていく。
陽の反射に、幾つもの剣が煌めく。
けれど――その中に、一人だけ、
光を背にしても影を纏う者がいた。
「どこかで……誰?」
他の者たちが歓声に顔を上げる中、
その男だけは視線を上げなかった。
「……(あちぃ、早く始まんねえかな)」
背中で全てを語るような静けさ。
熱狂の中に、ひとりだけ冷たい風が立っていた。
「……お父様。あの人……」
「気になるか?」
アドリアンが視線を向ける。
その瞳の奥は読めない。
ただ、微かに口角が上がった。
「見ておくといい、リュリシア。
本当の戦士は、必要な時以外、決して声を上げぬものだ」
彼女は息を呑み、再び下を見つめた。
砂塵が立ち上り、
鐘の音が、ゆっくりと響き渡る。
ーーーーー
「出場者、第七組――アーク!」
鉄格子が上がり、
光が差し込んだ。
砂の匂いが鼻を打つ。
喧騒が壁を震わせ、
胸の鼓動が太鼓の音に重なった。
相手は双剣の傭兵。
筋骨隆々、顔には古い傷。
観客の期待が二人に注がれる。
(……なるほど、経験はそこそこってとこか)
審判役の神官が手を上げる。
静寂。
風が一筋、砂を巻き上げた。
「――始め!」
金属の音が鳴った。
それと同時に俺は声を上げる。
「ちょっと待った!」
審判も相手も、一瞬だけ動きを止める。
だがその目は、すでに次の動きを計算していた。
「……なんだ、命乞いか?」
双剣の傭兵が鼻で笑い、片方の刃を構える。
「いや、お前の後ろ――」
思わず振り向いた傭兵の耳元で、風が鳴った。
次の瞬間、鈍い衝撃音が響く。
ガンッ!
双剣の男が半歩よろめき、砂が舞う。
観客席からざわめきが走る。
笑いと驚きが入り交じり、あちこちで声が飛んだ。
「おいおい、今の何だ!?」
「反則か!?」
「違ぇよ、ちゃんと打撃だ!」
「へへ、丸刃で殴るとはな……!」
審判が慌てて近づくが、男は倒れただけで動けない。
鎧にへこみはあるが、致命傷はない――
貸し出しの武器は刃が丸めてあり、殺傷にならぬよう加工されている。
だが、当たり所が悪ければ昏倒するには十分だった。
俺は構えを解かぬまま、
小さく息を吐いた。
「……言葉に釣られる癖は治しておけよ」
双剣が手から離れ砂に落ちる。
審判が手を挙げた。
「勝者、アーク!」
歓声が爆ぜた。
野次も混じる。
「卑怯だぞ!」「今のは笑えねぇ!」
「いや、見事だ!」「あいつだ! 次はあいつにかけるぞ!」
怒号と笑いが渦を巻く。
俺はその全てに背を向け、剣を納めて戻る。
――その姿を、上層席から見ていた少女がいた。
リュリシア・アルトリウス。
彼女の目がわずかに見開かれる。
(……何……今の?)
父アドリアンがゆっくりと頷く。
「派手さはないが……いい“勘”をしている」
リュリシアは何も言わず、視線を砂の上に戻した。
そこにはもう、男の姿はなかった。
その隣で、護衛のエレナが静かに吐息をもらす。
「……卑しい戦い方です」
その声には冷たさがあった。
「一瞬の隙を作らせ、背後を打つ。
勝つための手段としては理に適っていますが――
“剣士”としての品はありません。
私なら、ああいう者に背を預けることはありません」
アドリアンがちらと目を向ける。
「結果を掴む者ほど、時に品を捨てる。
だが、それを“卑しい”と呼ぶのは、勝者の後ろを知らぬ者の言葉だ」
エレナは姿勢を崩さぬまま、わずかに眉をひそめた。
「承知しております。ですが――あれは“誇りを持つ者の剣”ではありません」
アドリアンは軽く顎を上げ、遠くの砂上を見やった。
「そう思うかね、エレナ。
確かに、あの戦いに“騎士の誇り”はない。
だが――あれには“生き残る者の誇り”がある。
どちらが正しいとは言えまい。
戦場では、誇りの形すら立場で変わるのだよ」
エレナは一瞬だけ言葉を失い、視線を逸らした。
「……それでも、私はお仕えする騎士ですので」
「それもまた一つの道だ」
アドリアンは穏やかに笑う。
「誇りを貫く者と、誇りを捨ててでも立つ者。
どちらも時には必要だ」
リュリシアは黙って二人の会話を聞いていた。
(誇り……)
父の言葉と、エレナの冷たい眼差しの間で、
リュリシアだけが何かに引き寄せられるように、
砂の上の残滓を見つめ続けていた。




