第40話:大会の知らせ、それぞれの影
昼を少し過ぎた頃、俺たちはギルドへ向かっていた。
石畳は昼の熱をまだ残し、風に混じって露店の焼いた肉の匂いが漂う。
本当なら昨日のうちに出ていたはずだが、あの宴のせいでリュカが二日酔いだ。
「肉の匂い〜……うぇ、頭痛ぇ……」
「自業自得でしょ」
シアが呆れ顔で言う。
俺は肩をすくめながら扉を押した。重い樫の扉が軋み、昼光と酒場の薄闇が入れ替わる。
ギルドの中はいつになくざわついていた。
張り出された掲示板の前には人だかり、
中央のテーブルでは冒険者たちが口々に同じ話題をしている。
「……なんだ、妙に騒がしいな?」
「おう新人! 知らねぇのか? 剣闘大会だよ!」
背後から聞こえた声に振り向くと、見覚えのある傭兵が酒杯を掲げて笑った。
今日は酒で上機嫌らしい。
「優勝者には金貨百枚! しかも主催はアドリアン公爵様だとよ!見ろこの賞金!さすが太っ腹だぜ!!」
――“剣闘大会”。
ざわめきの中心に、期待と欲の匂いが濃く渦巻く。
掲示板の前には大きな木札が掲げられていた。
磨かれた板の上で金文字が昼光を跳ね返し、群衆の目を刺す。
『アルセリクス剣闘大会
優勝賞金:金貨50枚
準優勝:金貨30枚
主催:公爵アドリアン』
金貨百枚。
耳に入った瞬間、リュカの目がギラリと光った。
「マジで!? ねぇコール、出よう! 出ようよ!」
たしかに、金貨五十は大金だ。
頬の内側を噛みながら木札を見ていると――背筋に視線を感じた。
背後から、低い声がした。
「……冴えねぇ顔してるじゃねぇか」
振り返ると支部長が立っていた。
逆光の縁取りに白髪が淡く光る。昼の光を背にして、ニヤリと笑う。
「何だ、寝不足か?」
「……まぁ、そんなとこだ」
「だろうな。顔に“夜更かしの影”が出てるぜ」
皮肉交じりに笑いながら、支部長は懐から一枚の紙を取り出した。
紙縁の金箔が呼吸に合わせてかすかに瞬く。
大会の公式告知書。金箔の縁取り、アドリアン家の紋章入り。
「この大会、ただの見世物じゃねぇ。
公爵様が“街の再興”と“民の娯楽”を名目に開いたらしい。
だが、裏じゃ別の噂もある」
「……噂?」
「ああ。最近、王族関係の馬車が襲われたって話、聞いたろ?
それで公爵様が“信頼できる者”を探してるってな。
表向きは祭りでも、裏では”選んでるのさ”」
(馬車……あれか。…こりゃ、思ってたより大物だったな)
喉の奥がわずかに乾く。酒の匂いが急に遠のき、金属の冷たい匂いだけが鼻に残った。
支部長はグラスを軽く回した。
薄琥珀の揺らぎが瞳に映り、探るような光だけが沈まず残る。
声の調子は軽いが、その奥には探るような鋭さがあった。
「もっとも、公にはそんなこと誰も言っちゃいねぇ。
“護衛を探す”なんて触れ回ったら、またどこから毒が回るか分からねぇからな」
「そんな話を、来たばかりの新人にわざわざ話す理由は?」
「ッハッハッハ、言ったろ? 俺はそいつの顔を見りゃわかるのさ」
この男に悪気はなかったのだろう、だが次の言葉は流せなかった。
胸のどこか、縫い痕のような場所に指を入れられた感覚が走る。
「それに“影を背負った奴”を、公爵は嫌いじゃねぇらしい――おめぇさんにお似合いだと思うがな」
その言葉に――空気が、音もなく変わった。
ランプの炎が糸のように細くなり、周囲の喧噪が布の裏側へ吸い込まれていく。
金属のこすれる音。
腰の剣にかけた俺の指先が、静かに柄を押し上げる。
皮革の鳴きが、やけに大きく耳に刺さった。
支部長の笑いが、喉の奥で止まる。
周囲のざわめきも、いつの間にか遠のいていた。
視界の輪郭がわずかに暗く沈み、中心だけが研ぎ澄まされる。
「……今、なんて言った?」
ギルドの灯が、わずかに揺れた。
胸の奥で、何かが弾けた。
忘れたはずの声と、冷たい指先の感触が一瞬、滲み出す。
「……その言い方、二度とするな」
声が、自分でも驚くほど低く落ちていた。
「マジでだ。次にそれを口にした瞬間、問答無用であんたの首が落ちる」
支部長が一歩だけ引いた。
張りつめた空気が肌を刺し、背中を汗が伝う。
木床が乾いた音で鳴り、誰かの息を呑む気配が揺れた。
「……そいつは悪かったな」
彼の声が、わずかに震えていた。
「確かに、相手の素性を軽く口にするもんじゃねぇな。……すまん」
俺は剣から手を離し、吐息をひとつ落とす。
指の節が遅れて痛む。剣先を抜かずに済んだことを、ほんの少しだけ安堵した。
「……気にすんな。俺も少し、寝不足なだけだ」
支部長はそれ以上は何も言わず、背を向けた。
歩幅は乱れないが、踵の返しがいつもより慎重だ。
その足音が遠ざかるまで、俺はただ静かに目を閉じていた。
灯の熱がゆっくり戻り、ざわめきが色を取り戻す。
昨日からチリチリと胸の奥に燻る……嫌な感覚だ……。
ーーーーーーーーー
場面は静かに変わる。
アドリアン・アルトリウス邸――王都東にある公爵家の館。
白い石壁を午後の光が滑り、庭の噴水が細い弧を描く。
リュリシア・アルトリウスは、窓辺で剣を磨いていた。
光を受けて青白くきらめく刃。
だがそれは、ただのの“王剣”ではない。
彼女が持つのは、“ヴァルセリクス”。
薄布で刃を拭うたび、空気がひやりと張り詰める。
父・アドリアンが静かに言った。
「これは王家の象徴だ。……だが、民の前では決して抜くな」
リュリシアは小さく頷いた。
意味は分からなくても、その重みは肌で感じていた。
剣を磨くたび、冷たい金属の光が心の奥に刺さる。
――自分はまだ、この剣を“持つ理由”を知らないのだ。
胸元に落ちる光が、うっすらと波紋を作る。
机の上には、一通の封書。
剣闘大会の開催許可証。
封蝋にはアドリアンの印章。
蝋の香がほのかに甘く、紙は硬く上質だ。
(お父様は言ってた……この大会で“誰かを見つけろ”って)
窓の外では、街の準備が進んでいる。
旗が揺れ、太鼓の音が遠くで鳴っていた。
屋台の骨組みが次々と立ち、子どもたちのはしゃぎ声が風に乗る。
時折その喧騒が、羨ましく思う。
「……ほんとに、そんな人が見つかるのかしら」
呟いた声は、風に消えるほど弱い。
――父が探しているのは、“信用できる護衛”。
でも私が望むのは、“信用”より“理解”だった。
言葉にならない影の重さを、肩でそっと受け止めてくれる誰か。
エレナは騎士として非の打ち所がない。
けれど彼女は、私を遠ざけている。
その理由も……私は知っている。
けれど……。
指先で柄頭を撫で、息をひとつ整える。
誰かが隣に立つということは、ただ守ることじゃない。
“自分の影を見たうえで、なお共に歩むこと”。
そんな人が、本当に存在するのか――リュリシアにはまだ分からなかった。
窓外の旗がまた大きく翻り、陽が少し傾く。
ーーーーギルド帰りの夜
私らは結局、剣闘大会に出ることにした。
その日は宿代を稼ぐため依頼を受け、今は宿へ帰る途中。
石畳に灯りの滲みが点々と落ち、露店の炭は白く息を吐いている。
今はシアと二人で街を歩いている。
コールはいつも戦うときも余裕を持つのに、今日は八つ当たりをするみたいに剣を振るってた。
夜の路地を歩きながら、シアにぽつりと呟いた。
「……なぁ、あんなコール、見たことあるか?」
シアは首を横に振る。
「ないわ……初めてあんな目をしたもの」
沈黙。
街灯の光が二人の影を長く伸ばす。
靴音だけが一定のリズムで続いた。
「いつもふざけてるのに、今日は本気で怒ってた。
……なんか、怖いっていうより、痛そうだったね」
「ええ。……」
風が吹き抜け、ギルドの喧騒が遠ざかる。
遠くの塔の鐘がひとつ鳴り、夜気が澄む。
「……やっぱ、ちょっと怖かったな」
「でも……」
シアが立ち止まり、夜空を見上げた。
「それでも…あの人が何を見てるのか、知りたいと思った」
リュカは苦笑しながら頭をかいた。
「……うん、あたしらは……。まだあいつのこと、ちゃんと知らないんだな」
「ええ……。でもその痛みが私達と同じなら」
シアはそう言ってこっちの目を見た……その奥に写ったのは残された家族……。
コールがいる所が自分たちの帰るところなら……あの人も、きっと私たちを“帰る場所”と思ってくれる日が……。
それから互いに頷いて、足早になって私達の『家』に向かう。
遠くで、祭りの旗が夜風に揺れていた。
剣闘大会の幕が、静かに上がろうとしていた。




