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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第30話 震える戦場、森の声


夜明け前、丘陵に薄い霧が漂っていた。

湿った草の匂いの中、獣族たちの軍列が静かに並ぶ。

槍の穂先が風を裂き、鎧の金具がかすかに鳴った。

遠くの空はまだ白んでいない。


熊族の前列が地を踏み鳴らし、土煙が上がる。

その後ろに狼族、さらに両翼を猫族が囲む。

どの顔にも緊張はあったが、恐れはない。


丘の裏、空は静まり返り、船の影も見えない。

イルクアスターはそこに隠されている。

ただ、誰もその姿を目にしてはいなかった。


「空の牙はまだ眠らせろ」

灰狼の長シラヴァが低く命じた。


「左の熊の声を待て! 一声で全軍、突撃だ!」


霧の奥、谷の向こうで閃光が走る。

熊族が補給列を焼き払い、咆哮を上げた。

直後……一声。


音というより、空気そのものが震えた。

風が止み、草の葉がわずかに震える。

人間の耳には届かないその響きが、獣たちの骨を打つように伝わる。

大地が応えるように唸り、丘の上の戦士たちが一斉に顔を上げた。


「来た! 我ら猫族の姿を、他の者共にも見せつけよ!」

レアナが戦旗を振り下ろす。


「行け! 全軍、吠えろ!」


シラヴァの合図で獣族は一斉に動き始めた――開戦だ。


熊族が左から押し込み、

猫族と狼族が中央から駆け下りる。

右翼の森では、灰狼たちが影のように走り、見張り台を狙った。


霧が裂け、朝日が地平を染める。

王都の城壁が姿を現したその瞬間、

獣族の怒号が天地を揺らした。


ーーーーー


丘の裏――。


戦場の音はまだ届かない。

風が枝を揺らし、湿った木の匂いが漂っていた。


「よし、もう少し右だ!」


俺は影たちに指示を飛ばしながら、木槌を振る。


木を組み、縄を締め、杭を打ち込む。

森の一角に、異様な形の巨体が姿を現していた。


「……ねぇコール、これ何作ってるの?」

シェアラが呆れたように呟く。

彼女の手には短剣、周囲を警戒する目は鋭い。


俺は木槌を止めずに答えた。

「っへへ、面白いもんだよ」


影たちが一斉に縄を引き、木が軋みを上げた。

曲げた幹のしなりと、縄のうなりが重なる。


その時だった。

シェアラの耳がぴくりと動く。

「……っ! 一声!」


彼女が振り返る。

遠くの空気が震え、木々の葉がざわめく。

人の耳には聞こえないその響きが、彼女には届いたらしい。


音は聞こえなかったが、俺の皮膚にもわずかに電流のような感覚が走る。


「来たか!?」

俺は木槌を放り出し、縄を締める影たちを見渡した。

「全員急げ! 急いで仕上げろ!」


影たちが応えるように、一斉に敬礼し、慌ただしく速度を上げる。

木と縄の軋み、影のざわめき。

森の奥で着々と何かが進んでいた。


ーーーーー戦場。


城壁まではまだ遠い。

人間の迎撃部隊が前に出て、盾と槍の壁を作っていた。

霧の切れ間を狙って、魔導の光が走る。

獣たちの足が、そこで鈍った。


その時……二声が鳴った。

……重い響きが丘に落ちる。


そして左で押し込んでいた熊族が、焦げた匂いをまとって中央へ退いてきた。


「道を開けろ!」

先頭の熊の戦士、長のグルドが肩口に焼け焦げた跡を見せながらシラヴァの元までやってきた。

「奴ら、人間を前に並べて、味方と俺等もろとも……魔術で撃ってきやがった!」


グルドは憎悪を顔に宿しながら急ぎシラヴァに告げる。

「正規じゃねぇ。金で雇った魔導兵だ。数も多い。前の奴らも囮だ……!」


シラヴァは歯を食いしばり、視線を前に向けた。

遠くの丘の向こうで、光が脈打つ。

城壁――そこから放たれる魔導弾が、地を抉っていた。


「あの数の魔導兵か、厄介だな」


レアナが目を鋭くして低く呟く。

「味方ごと前線を焼いても構わないとはね、金に目が眩む者はすぐに集まるというわけか」


「……下種どもが」

シラヴァは短く吐き捨てた。


その間にも、魔導の光が丘を削る。

地鳴りが続き、中央の戦列が押し込まれる。

狼族の若い兵が倒れ、猫族の弓兵が土を蹴って後退する。


「シラヴァ!」

レアナが前に出て叫んだ。

「ここはいったん下げるしかない! これ以上は押し潰されるぞ!」


シラヴァは拳を握ったまま、短く息を吐く。

目の前に広がるのは、焼けた大地と崩れた陣形。

それでもまだ――早い。


「一度前線を下げる!……だがまだコールは呼ばん」

「なに?」

「奴の牙は、最後に取っておく。この程度で空を呼べば、真に必要な時が残らん」


レアナは黙って頷いた。

だが戦場は待ってくれない。


「右が崩れかけてる!」

伝令の狼が駆け込んだ。

「シガ殿の隊、森の縁で包囲を受けた!」


シラヴァの顔が歪む。

「別働隊かッ!」


ーーーーー右翼・森の縁。


霧の中で、血と鉄の匂いが混じった。

剣が弾け、獣の咆哮が木々の間に反響する。


「前を塞ぐな! 左に抜けろ!」

 シガの声が響く。

 だが進む先にも、すでに人間の影。

 槍を構えた兵が道を塞ぎ、後ろからも別働の弓が飛ぶ。


囲まれていた。


灰狼の若い戦士が倒れ、血に濡れた土を掴む。

シガは構え直し、牙を剥いた。


「退くな!……こんなことで、灰狼の誇りを折るな!!」


背中の毛が逆立ち、目が闇に光る。

敵が押し寄せても、その足は一歩も引かない。


「人間どもよ……折れぬ牙が灰狼の証、たとえ群れが散ろうとも、この喉を裂くまでは斬り続けろ!」


戦士たちが吠えた。

シガの鼓舞により、一層に闘志を燃やす。

槍を折られ、盾を砕かれても、なお立ち上がる。

森の影と鉄の光が入り乱れ、火花が雨のように散る。


人間の指揮官が叫んだ。

「止めろ! 奴らは化け物か!」


その時――風が、森を抜けた。

シガの耳が震えた。

空気が変わる。葉がざわめき、闇の奥に光が走る。


「……風? いや、これは」


次の瞬間、大気を切り裂きながら甲高い、音速のような音。

その直後――光の矢が森を貫いた。

人間の背を鎧ごと撃ち抜き、火花を散らす。

続く矢が二の射、三の射。

別働隊の陣が一気に崩れる。


「矢だ!? どこから――ッ」

「この矢は!? エルフだと!? なぜだ!? 条約はどうなった!!」


混乱が広がる。兵が振り向き、指揮が乱れる。

森の奥から再び光の帯が放たれ、人間の陣が沈黙した。


「エルフ……」

シガが呟いた。

風に混じる声が確かに聞こえる。

“森は、恩義を忘れはしない”


シガは短く笑った。

「恩に着る。……兄者、こちらは立て直したぞ」


シガは攻勢の咆哮を上げ、その声は何よりも大きく響き渡った。


ーーーーー中央・戦場。


風の流れが変わった。

森の方角から吹き込む熱気が、焦げた空気を押し流す。


「右が持ち直した! 森から援護だ! エルフが立ち上がったぞ!!」

伝令の声に、シラヴァが顔を上げる。

遠くで狼の咆哮が響き、それに呼応するように戦列の士気が蘇る。


「シガ……よく耐えた!」

シラヴァが短く呟いた、その時だった。


丘の裏――森の陰から、重い軋みと、地を踏み鳴らすような音が響いてくる。

地面がわずかに震え、木と縄のきしむ音が続く。


レアナが眉をひそめた。

「……なんだ? この音は?」


森の影が割れ、黒の群れが現れた。

十の影が列をなし、肩に担ぐのは巨大な木製の“神輿”。

その上で縄を操る影の指揮者――コールだった。


「シェアラ!? お前たちここで何を!?」

「やっほう!叔母上、なんか面白そうなもの持ってきたよ!」

「っ……コール!? 貴様、船はどうした!」

レアナに続き、シラヴァが驚きの声を上げる。


「安心しろ!、合図がありゃ動かせるようにしてある! それまでは……楽しい図工の時間だ!」


影たちが一斉に縄を引き、神輿全体が軋みを上げる。

幹を曲げた弦が唸りを上げ、影の腕がそのまま“動力”となっていた。

魔術の光が届かぬ距離、魔導の射程すら及ばぬ森の縁。


「発射ぁああッ!」


コンパウンドボウの仕組みを取り入れた巨大な木弓がうなり、

放たれた巨矢は空を裂いて飛んだ。

杭の先端が魔導兵の陣の中心に突き刺さり、陣幕を粉砕する。


轟音。

遅れて砂煙が上がり、魔導兵たちの光が消えた。


「な、なにっ!? 射程外からだと!?」

人間の指揮官が叫ぶ。

「攻撃術の圏の外だぞ! ありえん! 獣のどもあんな兵器まで隠していたのか!?」


その言葉の先を、二射目がかき消した。

連続で放たれた矢が、光る陣を次々と砕く。

魔法の恩恵を失った前線の兵たちは、ただの人間へと戻る。


「すっご! あたしもこれ欲しい!」

レアナが目を細めて笑った。

「ほう、やるじゃないか……」


「全軍、前へ! 今度は我らが押す番だ!」

シラヴァが吠える。


熊族が轟き、狼族が駆け、猫族が旗を翻す。

魔導の光が止まった戦場に、獣たちの咆哮がこだまする。


丘の上で、影の首領が笑う。

神輿は獣族の進軍に合わせ、えっさほらさと進み、射程を広げる。


「へっ、まだまだ撃てるぜ――装填急げ!」


影たちが敬礼し、再び縄を巻く。

軋みと共に、弦がしなり、巨矢が唸りを上げる。

三射目が放たれ、城壁の外郭に衝突。

石が弾け、砦の尖塔が音を立てて崩れ落ちた。


「三声の準備!」

シラヴァが低く命じた。

「コールよ! 城壁を割るぞ!」


俺は笑って、シラヴァに手を振って答える。

「おうよ、そっちは任せた!」


その瞬間、空気が震えた。

三声――天を貫くような低い咆哮が大地を走り抜ける。


空が割れた。

霧の向こうから、イルクアスターが姿を現す。

艦底から垂れる無数のロープが風に踊り、陽を反射して光る。


シェアラが目を細めて笑う。

「来た!」

「あぁ!」


スカーフを押さえたまま、短く頷く。

ロープが神輿の上に降り、影たちがざわめく。


「シラヴァ!」

俺は振り返り、シラヴァの目を見た。

「頼んだぞ、地上はお前の戦場だ!」

「……貴様もな!、空の牙よ!!」


互いに笑い、言葉はそれだけだった。


影たちもロープを掴む。

縄がぴんと張り、神輿を残して次々に浮き上がっていく。

シェアラが横で軽く肩をすくめた。

「あ! ずるい! 楽しそう!」

「お前も乗るんだよ!」

「もちろん!」


イルクアスターは速度を緩めず、戦場の上を滑る。

その勢いのまま、俺たちは空へと引き上げられた。

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