第15話:影、嘲笑う
「な、なんだあれは……っ!!」
兵士たちが振り返る。
その視線の先――丘のすぐ背後の空中に、“それ”は浮かんでいた。
黒煙のような靄に包まれた、ぼんやりと人型をした何か。
ぎらりと光る、赤い“目”。
そして、にたりと裂けるように光る、不気味な“口”。
まるで空間に刻まれた記号のように、顔ではなく、目と口だけが赤く浮かび上がっている。
「ヒャァァァアアアッハハハハハハッ!!!!!」
耳を裂くような狂笑が、戦場に響く。
「こ、こっちを……見てる……ッ!!」
「ば、化物!」
兵士の一人が叫ぶが、誰も動けない。
声を出すことすらできないまま、ただ震える指先を槍に添えるだけ。
「…なんだ……こいつ……」
誰かが震える声で呟いた。
そのとき――馬上の指揮官が前に出て剣を向けた。
「貴様! 何者だッ!」
彼の叫びに、空に浮かぶ“それ”は微動だにしない。
……次の瞬間。
――ヒュン。
影が揺れた、その直後。
「「「「!?」」」」
指揮官の首が、ぽとりと地面に転がった。
胴体はまだ馬に乗ったまま、何もなかったように前を向いている。
兵士たちの脳が状況を理解するより先に、地獄が始まった。
「う、撃て!! 魔術を撃てェェェ!!」
誰かが叫び、後列から放たれる火球と雷撃、更にこれでもかと矢の一斉射。
だが――すべてが、“それ”をすり抜けた。
「えっ……!?」
貫通した魔法が後方の兵に炸裂し、悲鳴があがる。
放たれた攻撃はすべて、味方を切り裂いた。
「ぎゃあああああ! なんで味方が!?」
「ち、違う、効いてない!? 魔術が……効いてない!?」
そのとき、影の姿がすっと浮上する。
空中に静かに舞い上がり……次の瞬間、両肩から黒い砲身が、左右に生え出た。
その砲口が人間の陣を向いた瞬間、誰かが絶叫する。
「伏せろォォォ!!!」
――遅かった。
ドォォォン!! ドォォォォォンッ!!!
黒い砲弾が、うねる軌道で飛び、敵陣に着弾し、炎が上がる。
だがそれだけではない……着弾した場所から“何か”が飛び出る。
それは人の膝ほどの大きさだが……素早く兵士たちの足元を駆け抜けていく。
「な……なにアレ……!?」
「ぐぁ!! 足がッ! う、動けッ助け!!」
それは、まるで鼠のように兵士たちの間を走り抜け、
次々と兵士たちのアキレス腱を正確に切り裂いた。
転倒する兵、転んだところに別の影が飛びかかる。
「やめろっ、やめ……ギャアアアアアア!!」
もはや戦場ではない。
誰もが武器を捨て、逃げ惑うことしかできなかった。
それでも、空の上からは――“それ”が、ゆっくりと見下ろしていた。
赤い目と口が、さらににやけるように、笑う。
「イヒヒ? ヒャッハハハハハ!!!」
その声は、どこからでも聞こえるようで、誰の心にも突き刺さった。
そして、誰一人、立ち向かう者はいなかった――。
戦場から、音が消えた。
逃げ惑う人間たちの悲鳴も、砲撃の轟音も、血と煙の咆哮も、すべて霧が吸い込むように、静寂へと溶けた。
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西の森の陰。茂みの奥に身を伏せていた獣人の一団は、息を呑んだまま、誰一人として言葉を発せなかった。
「……な、なんだ……ありゃ……」
誰かが小さく呻いた。問いというより、恐怖に染まった喉の痙攣にすぎなかった。
彼らは、見たのだ。
あの量の攻撃を食らってなお立ち尽くす影。
魔術を受け流し、兵士の首を刎ね、
最後には……“何か”を喚び出して敵軍を地獄に変えた。
「……あれ、人間じゃ……ない……」
「獣族でも……ない……。なんだあれは……」
肩が震え、耳がぴくぴくと痙攣している若い狼族の兵。
その隣で、猫族の斥候は完全に口を噤んだまま、動かない。
全員が本能で悟っていた。
“あれ”を敵に回してはならない。
戦うという選択肢すら、もはや……なかった。
……やがて。
肩から伸びていた黒い砲身が、煙のように霧散していく。
影の本体が、ゆっくりと地に降り立つ。
そして……その足元から、ゆらりゆらりと現れる異形の影たち。
ひょうたんのような体型の黒影が、腰を振るようにして笑っている。
目だけが黄色く光る仮面のような小さな影が、地面すれすれを跳ねるように移動する。
頭に奇妙なゴーグルをつけた影が、周囲を見渡すように高く跳び上がり、見張る位置を探している。
筋肉質な影が二体、左右に並び、ゆっくりと腕を回している。
片目に光る印を宿した影が、周りの剣を集め、遊び始める。
それらは皆、異形の形。
だが、明らかに“意志”を持っていた。
そして、“それ”を中心に集い、護るように並び立つ。
「……なんだ、あの連中……」
「……仲間……か……?」
呆然とつぶやく声。
異形の一団は、ゆっくりとこちらに歩き出した。
背後に従う、影の集団。
一歩……もう一歩……。
踏みしめる音すらしないのに、恐怖だけがこちらへ迫ってくる。
「……こちらに、来る……のか……?」
獣人たちのひとりが、かすれた声を漏らした。
「……あいつ、……何者なんだ……?」
誰も答えられない。
だが、“それ”は明確だった。
何の言葉もなく――こちらへ歩き出したのだ。
一歩。もう一歩。
背後に従うのは、名も無き影の群れ。
霧を踏み、静かにこちらへと進軍してくる。
耳がひくりと動いた若い狼族の偵察兵が、息を呑んだ。
「ッ……!」
別の若者が、腰に手を伸ばす……が、すぐにそれをシラヴァの手が止めた。
「剣を抜くな」
その声は、低く、鋭かった。
「……挑発するな。敵か味方か……まだ、定かではない」
若者はこくりと頷き、肩を震わせる。
だがシラヴァの目は、その異形を真っ直ぐに見据えていた。
冷静で、静かで、どこか……野心めいた輝きがあった。
「あれは“化物”じゃない。意志を持っている。理解も通じるはずだ」
ゆっくりと息を吐き、木々の向こうの“それ”に目を細める。
「……そして、あれほどの力があれば」
拳ではなく、顎に手を当てたまま、考えるように呟く。
「……問題は、あの“軍”が、我らに牙を向けるかどうかだが……」
やがて、“それ”は戦場の死屍の間を通り抜け、
無数の影を従えて、確かに森のほうへ進んでくる。
……“救済”なのか。
……あるいは、“滅び”なのか。
若き兵たちは、木の影で息を殺し、迫るその足音をただ見つめていた。
だが、シラヴァの表情は恐怖ではなく、興味と計算に満ちていた。
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草やらなんやらが焦げる匂いが鼻を突いてきた。
「ふぃ〜……疲れた……」
自分でも驚くほど気の抜けた声が出る。
戦場は地獄絵図と化している……少しやりすぎたか?
「でも、まあ……これだけ派手にやっときゃ、しばらく攻めてこねぇだろ」
労働のあとに頬を撫でる風がここちいい。……血生臭さえなければ、だが。
今の戦いで初めて使った影との「融合」の感覚――
肉が焼けるような、内側からこじ開けられるような圧。
血液が沸騰し、自分でも制御が効かない興奮。骨がきしむような感覚……。
誰かの……あるいは自分の……声が、脳裏で笑っていた。
(やりすぎたらヤバいな……)
全身が鉛のように重く、意識の奥に何かが爪を立てているような疲労感。
ただの消耗ではない感覚がある。
ひとつ間違えば、自分も“そっち側”に引きずり込まれるか……弾け飛びそうな感じだった。
……おっかねぇ。おっかねぇが――
(……おもしれぇ)
破壊、支配、狂気。すべてが、あの一瞬に凝縮されていた。
変な中毒性がある……当分は使わないでおこう。
片手を上げると影たちは一斉に集まり付き従う。目の前には、深い森。
……そして、その陰に潜む獣人たちの気配。
「さて。友好的なほうに賭けたいね、俺としては……」
そんな軽口を叩きながら、森へと向かう。
背後ではまだ、地面に倒れ伏した兵士たちの呻きが風に混じっていたが……どっかの誰かが不本意にとどめを刺したらしい。
ドテっと音がして、最後の断末魔のような声が聞こえたが、振り返らないでおこう……。




