第153話:逆流の咆哮
夜が明けても、胸の奥に残っていた。
リネアの「結婚したい」という真っ直ぐすぎる言葉も、
それを受け止めた自分の返答も。
誰が悪いわけでも……いや、俺なんだろうが。
ただ、胸の奥がまだ静かに疼いていた。
(……言わせちまったな)
甲板に出ると、冷たい空気が肺に入った。
下を見ると、
リネア、リュカ、シアが並んで座ったまま寝落ちしていた。
寄り添って、安心して――涙の跡もない。
(……そうか……うちの奴らは強いな)
そう呟いて息を吐いた時。
「……おはよう、“コール”」
振り向くと、リネアが目をこすりながら立っていた。
「おはよう……ナイル、じゃないのか?」
呼び方の違いが胸に刺さる。
けれど嫌じゃなかった。
リネアは照れくさそうに微笑む。
「今日から……こう呼ぶ。
だって、あなたは“今”……コールだから」
その言葉が、夜の余韻よりも深く響いた。
「……あぁ。分かった……リネア」
そう返すと、リネアは安心したように息を吐いた。
小さく笑ったその顔は、
“ナイルの頃の記憶の少女”じゃなくて、
今目の前にいる、少し自信に満ちた笑顔のリネアだった。
リネアが軽く髪を耳にかけた、その瞬間だった。
(……風の向きが違う?)
夜明けの空を裂くように、
遠くの雲が風と“逆方向”へ流れていた。
ほんの些細な違和感。
でも、これはおそらく――。
「さっさと出て行けってことか?」
いつもは横に、
空島の外縁をぐるっと回る“輪っかの風”。
だが今日は――
それに逆らって、
雲の巻きに逆らうように風が動いている。
(……嫌な感じだ)
そのとき、上空から何かが急降下してきた。
「だ、だんなぁあああああ!!」
ハッリが空から転がり落ちる勢いで着地し、
肩で息をして叫んだ。
「旦那! 空の流れが……逆だ!!
風がまったく回ってねぇ!!」
「逆?」
「あぁ! ありゃ完全に“逆走”だ!!
俺は雲の流れだけでその日の風が当てられるんだが……
生まれてから一回もねぇぞ、あんなの!!」
焦ってるというより、
“空の住民としての本能で驚いてる”顔だった。
俺は島の外、下に広がる雲の海を見下ろす。
どっちともつかない、不気味な逆流。
気温も気圧も、わずかに軋むみたいに揺れている。
リネアが俺の腕を掴んだ。
「コール……これ、ただ事じゃないよね?」
リュカとシアも寄ってくる。
「あたしも、なんかざわざわする……」
「風の“癖”がいつもと違う?……不安定ですね」
ハッリが顔をしかめたまま言う。
「旦那……正直、原因わかんねぇ。
でもこれ、長居するのはやべぇやつだ。
流れが乱れすぎてる。
飛ぶ者も船もひっくり返るぞ!」
(……だったら)
「すぐ出すぞ。おめぇも来るか? グラナシルを拝みに」
「あ、あぁ! 当たり前だ!!」
俺は三人へ向き直った。
「お前ら……今回は降りたほうが安全だ。
下手すりゃ落ちるかもしれん……」
「降りません!」
「置いていくんなら怒るぞ?」
「危険……なおさら一緒に行く」
三人が一斉に答えると、見張り台からネラも降りてきた。
「妹を守るのは……私の役目だ」
全員が即答だった。
(……こいつら、肝が据わってるな)
「ッたく……分かったよ」
俺は大声で叫んだ。
「野郎ども!!
ロープ持って来い!! 全員、命綱で甲板に固定だ!!
揺れるぞ!!」
「「「ッザ(敬礼)」」」
影たちが一斉に走り、太いロープを甲板に巡らせる。
風が、さっきより強くなってきた。
ざわ……ざわ……
雲の層が、逆に巻き上がるようにうねる。
(こんな逆流……明らかに自然じゃねぇ)
ハッリが俺の隣に走ってくる。
「旦那、マジで気ぃつけてくれ!
空の流れが二重になってる!
一歩間違えたら“巻き込まれる”ぞ!」
「分かってる。全員しがみついとけよ!」
イルクアスターの帆が降りる。
風をはらみ、淡く光る。
「行くぞ!! 雲へ突っ込む!!」
船は、空の異変の中心へ向かって
きしみながら進んでいった。
ーーーーー
雲へ突っ込んだ瞬間だった。
風が――全部、下へ落ちた。
押すでも吹くでもない。
“叩き落とす”みたいな風だ。
「っ……マズい!」
甲板を踏んだ体が一瞬ふわりと浮き、
次の瞬間、雲の底へ沈められるように船が傾いた。
甲板で数人が滑る音。
だが、誰も声は上げない。影どもは悲鳴すらない。
「リネア! もっと身を低くしろ!」
「うん……!」
ネラはリネアをかばい手すりにつかまり、
俺の近くでリュカとシアも飛ばされないよう必死で堪えている。
「おい! 何だよこれ!? 嵐どころじゃねぇ!!」
「コール様!? これ大丈夫ですか!?」
「知らん!」
「「ええ!?」」
(風の……逆流……!?)
舵輪が腕ごと持っていかれる。
骨がきしむ。舵の軸が悲鳴をあげる。
横から、二つの影が飛び込んできた。
ウィンスキーとハイポールだ。
言葉もなく、音もなく――
ただ“支えろ”という意思だけが動きで伝わる。
二人が舵輪の左右に手をかけ、
俺の体ごと押し返すように踏ん張った。
「……助かる!」
「「……」」
もちろん返事はない。
ただ、舵輪にかかる力がわずかに均衡を取り戻した。
風が甲板を切り裂く。
雲の密度が濃くなり、視界が白に潰れた。
「旦那ぁああああ!!」
風に吹き飛ばされ、命綱を辿ってハッリが転がり、受け身を取る。
「こんな風見たことねぇよ!! 風が下に吹くなんて!!」
「知ってる。だから船が沈むんだよ!……見りゃ分かる!!」
俺たちは船の縁ぎりぎりまで沈められつつあった。
(……完全に追い出す気か? なら――)
「顔、見せろよ……!」
大砲の方へ振り返り、顎をしゃくる。
「野郎ども! ぶちかませ!!」
それだけで、影どもには十分だった。
全員が一瞬で配置につき、
無音のまま大砲の線を引く。
――ドン。
乾いた衝撃が雲を裂く。
火花が奥へ吸い込まれ、その直後――
爆ぜた。
白い霧の中で、雷みたいな光が走った。
……そして。
“咆哮”が返ってきた。
――グォオオオオオオッ
空の底が鳴るみたいな低音。
鼓膜じゃなく、骨が震えた。
「……来るか」
ウィンスキーとハイポールが、
無言のまま舵輪から離れ、俺の背に立つ。
(分かってるな……)
霧が左右に裂けた。
そして――
“目”が開いた。
黄金の光が、雲の奥からこちらを射抜く。
瞳孔が細まり、周囲の気配を吸い込むみたいに揺れる。
雲そのものに穴があいたような、巨大な眼。
リネアの声が震えた。
「あれが……グラナシル……?」
呼ばれた瞬間、
その巨眼がわずかに瞬いた。
まるで――
名前を“理解している”かのように。
(ようやく姿を見せたな……グラナシル……)
次の瞬間。
黄金の瞳が俺を正面から捉えた。
そして。
空そのものが、吠えた。
白い巨大な口が――こちらに迫りくる。
甲板の空気が一瞬で奪われる。
目の前が、白い“空洞”に変わる。
俺は急いで命令を出した。
「全部正面だ! ぶち込め!!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ――
次々と砲弾が前方の大口へと放たれる。
しかし――。
「ッ……!?」
砲弾は空を切るように中へ吸い込まれた。
ただし、奥で光った。間違いなく当たっている。
だが――効いていない。
「まずい!?」
船体が口の中に引きずりこまれた瞬間、
全方向から“風の刃”みたいな逆流がぶつかってきた。
――ドゴッ!!
イルクアスターが軋んだ。
甲板が大きく揺れ、全員が命綱にぶら下がる形になる。
「うわっ!?」
「きゃ――っ!!」
「伏せろ!!」
言った瞬間、船が――
こまのように回転し始めた。
天地も方向も分からない。
空か地上かもわからない。
視界が白と影でぐるぐると混ざる。
(くそ……これ以上はまずい!!
船ごと千切れる!!!)
「クソ、船じゃダメか?!」
俺は舵輪から手を離し、叫んだ。
「――おい!! リュカ! シア! 舵変われ!!」
「えっ!? あ、あたしらかよ!?」
「コール様!! 何をする気ですか!!」
「いいから変われ!!」
体を命綱ごと振り回されながら、
俺は舵輪から身を投げるように離れた。
影二体――ウィンスキーとハイポールが
無言のまま俺の動きに合わせ、
二人を舵へ押し出す。
(あいつらなら……回転中でも角度を読む感覚がある。
なら、船の“維持”は任せるしかねぇ……!)
「ハッリ!!」
逆風に押されながら叫ぶ。
「お前のクランダを貸せ!!」
「えぇ!? 俺のクランダを!?
でもこんな風じゃまともに――!」
「さっさとしろ!!
それともこのまま俺たちと船ごと落ちるか!!?」
「ッ……わ、分かったぁ!!
持ってけ!! 旦那!!」
ハッリが命綱を引きちぎる勢いで
腰に携えていた“クランダ”を外した。
運び手が空を移動するための“羽”。
“空と同調する道具”――そこにはイルクアスターと同じ石が使われている。
ハッリが差し出すと同時に、船が再び大きく傾いた。
(……これしかねぇ)
俺はハッリのクランダを掴む。
リネアが叫ぶ。
「コール!? どこへ行く気なの!!」
「決まってんだろ……」
白い闇の中で、巨大な影がうごめくのが見えた。
黄金の“目”が、また俺を見つける。
「――あいつと話してくる!!」
命綱の留め具を外す。
「「「コール!!!」」」
三人の叫びが重なる。
その声を背中に受けて――
俺は、クランダを背につける。
羽の刺繍が淡く光る。イルクアスターの帆と同じように。
「行くぞ、野郎ども!!」
呼びかけると影が一斉に俺の中へ入り込む。
そうして……融合。
奥底からいびつな力が湧き上がる。
同時に狂気が押し寄せるが……二人いない分、まだ浅い。
「イヒヒヒッ……最高だぜぇぇええええ!!!!」
甲板に、黒い羽の生えた怪物が姿を表した。
そして、船の“怪物”は巨大な風竜――
グラナシルの“喉奥”へと飛び立った。




