第152話:同じ場所に立つ
二人が外へ出て行ってから、
工房の中は妙に広く感じた。
ネラはノッタに手を引かれて何かの布を触っていて、
リュカは例の焼き菓子をもう一個もらってご機嫌、
シアは子どもたちに囲まれて困りながら笑っている。
私は少し離れた壁にもたれて、それを眺めていた。
その時。
「――あっ! 指輪だ!」
ノッタが突然、私の左手を掴んできた。
「……えっ……な、なに……?」
「それ! 指輪!
ねぇ、もしかして……結婚するの!? お姉ちゃん!」
「え!? ……違っ――!」
心臓が跳ねた。
その声に反応して、
リュカとシアもすぐ横に来る。
「ノッタ、それは違くて―」
「それはね、リネアさんの“大事な思い出”で―」
ふたりは慌てて説明しようとして、
私の顔を一瞬見て、言葉を止めた。
その理由は分かっている。
この指輪は、
ナイル――記憶を失ってた頃の彼が私に渡したもの。
リュカとシアにとっての青い髪飾り、
それと同じ“証”だ。
だから二人は、
指輪の意味を全部知っている。
ただ、ノッタは首を傾げて言う。
「でも、指輪は“結婚の合図”だよ?
まだ式前でも、相手が決まったら見せ合うの」
「これは……その……昔の、ね……!」
言いながら胸が少し熱くなる。
(昔のナイルとの……生活の証)
今も指に残っているのは、
“恋”じゃなくて“あの頃の距離”の記憶。
リュカが気まずそうに笑った。
「ノッタ、これはね……ちょっと特別なんだよ」
「リネアと……昔のコールの話だから」
「へぇー? 昔のコール?」
ノッタは無邪気に笑っていた。
その笑顔に救われつつ、
同時に胸の奥でなにかがざわつくのを感じた。
(……昔の)
ーーーー
それからしばらくしても二人が戻らないので、私達は外に出てきた。
「コールとハッリ、まだ戻んないね」
「探しに行こっか」
「うん」
草の匂いが強くなる。
その中に――乾いた音が混じっていた。
バンッ!
「ぐっ……! ちょ、コール、それっ――!」
「前足が流れてんだ。戻せ、ハッリ」
(……え)
丘の上で、
ハッリが息を切らし、
ナイルが淡々と指導していた。
その姿を見た瞬間――
胸に刺すような感覚が走った。
(あ……)
私の中で、
ナイルの背中が一瞬重なった。
――衛兵団で他の人達に教えてたときのナイル。
優しくて、強くて、真っ直ぐで。
でも、どこか遠くて。
それが、今“コール”と呼ばれている彼の横顔と重なる。
(……そっか)
胸が少しだけ締めつけられる。
(私は……あの頃の距離を、
まだ手放せてないんだ)
リュカとシアは黙っていたが、
視線だけが私に向いていた。
二人とも分かっている。
これは嫉妬じゃなくて“過去の痛み”だと。
ーーーー
丘の上での訓練は、だんだん本気に近づいていった。
ハッリが汗を飛ばしながら踏ん張り、
ナイルは淡々と、だけどどこか優しく支えている。
その時だった。
「ねぇ、リネア!」
ノッタが勢いよく私の腕を掴んだ。
「さっき思ったんだけどさ――
お姉ちゃんたちって……三人ともコールのこと好きなの?」
「っ……!」
空気が一瞬で固まった。
リュカがむせ、シアが手を滑らせて布を落とし、
私は息を止めたまま固まる。
「ちょ、ノッタ!?」
「な、なそんな急に……!」
けどノッタは全く悪気がない。
「だってさ、指輪も髪飾りも大事そうでしょ?
それに三人とも、コールが見えると顔が違うもん」
真っ直ぐな目で、当然のように言った。
「島じゃね、三人が一人の人好きになったら大騒ぎだよ。
だって……誰が結婚するの?って話になるから!」
「「「…………」」」
私たち三人は同時に言葉を失った。
リュカもシアも、私の指輪の意味を知っている。
それぞれが、それぞれの形で大事にしている証。
でもノッタはそんな事情を知らない。
だからこそ――容赦なく核心を突いてくる。
「ねぇ、本当はどうなの?
三人ともコールのこと、好きなんでしょ?」
「…………!」
胸が一瞬熱くなった。
私は咄嗟に、言い返せなかった。
(……好きかどうかなんて……)
そんな単純な答えじゃない。
けど“否定”できるほど軽い気持ちでもない。
ノッタはさらに追い打ちをかける。
「もしそうなら……島のみんな、びっくりするのにね!
三人とも強くてきれいだから、奪い合いになるかも!」
「奪い合いって……!?」
「ノッタちゃん、それは……!」
リュカとシアは真っ赤になった。
私はと言えば――
胸の奥で何かが、静かに動き始めていた。
(……奪い合い……)
そんなつもりじゃない。
でも、あの指輪の意味を思い出すと……
(……私は)
言葉にならない思いが喉にひっかかっていた。
「――今日はここまでだ」
ナイルの声で訓練が終わる。
ハッリが地面にへたり込み、
ナイルは汗一つかかずにこちらへ歩いてくる。
「お前たち、何して――」
そこまで言ったところで、
三人の顔色を見て足を止めた。
「……なんだ、その空気」
「な、なんでもないです……!」
「なんでもない! ノッタが変なこと言っただけで!」
シアとリュカが同時に叫ぶ。
私は――何も言えなかった。
胸が騒いでいた。
ノッタの言葉が脳裏で繰り返される。
(好きなの?って……違うって言えなくて……
でも……今を認めるのも怖くて……)
ナイルが近づく。
「リネア?」
「……えっ」
「顔、赤いぞ。具合悪いのか?」
その声は、
昔ナイルが私に向けてくれた声と同じだった。
気づいたら、
口が勝手に動いていた。
「……ねぇ、ナイル」
「ん?」
胸の奥が熱くなった。
もう誤魔化せない。
ノッタの言葉が、背中を押した。
(奪い合いになるとかじゃなくて……
そんな単純なことじゃなくて……)
「……私、ナイルと――」
息を吸う。
逃げられない。
逃げたくない。
「……結婚、したい」
言った瞬間、風の音すら止まった。
リュカもシアも固まり、
ノッタは「わーーっ!」と両手で口を押さえた。
ナイルは――
驚いたように目を細めた。
胸がひゅっと掴まれる。
でももう引き返せなかった。
ナイルは少しだけ驚いた表情をしたあと、
いつものように視線をそらさず、正面から向き合ってくれた。
「……リネア」
その声は、拒絶の色を含んでいない。
でも、簡単に頷いてもくれない。
彼は少し考えるように息を吸い、ゆっくり言った。
「……俺は、エレナが好きだ」
胸の奥に落ちていく言葉。
分かっていた。
分かっていたけど、刺さる。
私は笑うことも、泣くこともできなかった。
「……うん。知ってるよ。
だから“無理だ”って言ってくれてもいい」
そう言ったのに――。
ナイルは首を振った。
「違う。
お前の気持ちを否定したいわけじゃない」
その一言で、胸がまた揺れる。
「俺は……お前を大事に思ってる。
ナイルの頃のことも、全部今も続いてる……。
リネアが俺の前で笑ってくれるのは……嬉しい」
その声は優しくて、でも不器用で、
あの頃と同じ“誠実な痛み”を含んでいた。
「だけど――
“式を挙げる”って答えは……今の俺には出せねぇ」
「…………そっか」
分かっていたのに、胸が温かくて、苦しくて。
涙は出なかったけれど、心が少し震えた。
ナイルは続ける。
「ただ……
お前を置いていくつもりも、俺にはない」
私の心に、静かな火がともる。
(置いていく気は……ない)
それだけでじゅうぶんで。
それだけじゃ足りないようで。
どちらも混ざっていた。
「リネア。
今の俺には……“答えを決める場所”がまだねぇ」
「……うん。
私も……今の言葉だけでいいよ」
そう言うと、ナイルはほっとしたように息をついた。
距離は縮まらない。
でも、離れてもいない。
まるで、まだ名前のない形の“約束”みたいに。
ーーー
その日の夜。
空は、地上で見上げるよりずっと近かった。
星はこぼれるみたいに瞬いている。
私はひとり、イルクアスターの甲板に出ていた。
冷たい風が頬を撫でる。
胸の奥はまだ、さっきの言葉の余韻でじんじんしている。
(……言っちゃった……)
「結婚したい」なんて。
自分で思い出して、思わず顔を両手で覆う。
「……バカ……だよね」
でも――後悔は、不思議とあまりなかった。
苦しい。
刺さる。
なのに、ちゃんと正面から受け止めてくれた。
(“置いていくつもりはない”って……)
あの言葉を思い出すと、胸の真ん中がじんわり温かくなる。
泣くほどじゃない。
でも、ちょっとだけ、にじむ。
「……ほんと、ずるい。そういうとこ……」
小さくこぼした時だった。
「――あ、いた」
甲板の扉がきぃっと開いて、足音がした。
振り向くと、リュカとシアが並んで立っていた。
「やっぱここだと思った」
「リネア、風、冷たいですよ? 上着こ……」
シアが私の肩に布をかけてくれる。
リュカはいつもの調子で、遠慮なく隣にどすんと座った。
「さっきの、聞こえてたからさ」
「……さっきの?……」
「“結婚したい”ってとこから全部」
「リ、リュカ……!」
思わず抗議の声が出ると、逆に笑われた。
「だって、あたしらすぐそこにいたし。
今さら隠すような話でもないでしょ?」
シアも、困ったように笑う。
「……うん。聞いちゃった。
でも、聞けてよかったって思ってます」
「……なんで?」
「だって」
リュカが星空を見上げながら言う。
「リネアがさ、“ちゃんと勝負した”の見れたから」
「勝負って……」
「言わないで黙ってる方が、あたしはずるいと思う。
あたしもシアも、もうとっくにコールにぶつかってるし」
シアがこくんと頷く。
「うん。“好き”って、もう何回も伝えたもの」
「エレナのこと分かってて、それでもって言ってるし」
ふたりの声は、責める気配なんて微塵もなかった。
むしろ――誇らしそうで、優しくて。
「……私、変なことしちゃったかな」
ぽつりとこぼすと、リュカが即答した。
「全然。むしろかっこよかった」
「かっこ……いい?……」
「うん、かっこよかった」
リュカは真顔で言う。
「あたしさ、ちょっと安心したんだよね」
「……安心?」
「リネアもちゃんと、“今のコール”に言ったから」
胸が、少しだけ跳ねた。
「ナイルの想いだけじゃなくてさ。
“今”好きな人として、ちゃんとぶつかったじゃん」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
シアも、そっと私の手に触れる。
「ねぇ、リネア」
「……なに?」
「あの時、すごく怖かったでしょ」
「…………うん」
「でもさ、それでも言ったのって……
コール様のこと、“今のあなたが”好きだからでしょ?」
その一言で、目の奥が少し熱くなる。
記憶喪失のナイルでもなく。
今ここにいる、ちょっと不器用で、強くて、ずるいコール。
「……うん。そうだね」
やっと、言葉にできた。
リュカが、ふぅ、と息を吐く。
「じゃあさ」
「ん?」
「もう、あたしたちの中で“ナイルとリネア”は
“特別扱い”やめよ」
私は目を瞬かせた。
「それは……どういう……」
「“前に一緒に暮らしてたから”とかさ、
“指輪があるから”とかさ」
リュカは自分の青い髪飾りを指でつまんで、ひらひらさせる。
「あたしにもこれあるし、シアにもあるし。
リネアには指輪がある」
「……うん」
「どれもさ、“それぞれのコールとの距離”の証でしょ?」
シアが苦笑いしながら続ける。
「そうね。どれが一番とか、どれが本命とかじゃなく。
……どれも、ちゃんと大事でいいじゃない?」
私は思わずふたりの顔を見比べた。
「……いいの? それで」
「何が?」
「だって……ナイ……。
コールは……エレナが好きで……きっと勝てないのに……」
すると、リュカはにやっと笑った。
「そりゃそうだろ。それに勝つ気はあんまりないよ」
「……ないんだ」
「だってさ」
リュカは星を指さす。
「コールがエレナ追いかけるの、あたしは嫌じゃない。
あれがコールだし」
シアも小さく笑う。
「うん。あの人が誰も好きじゃなくなる方が……たぶん怖い」
その言葉は、妙に説得力があった。
「でもさ」
リュカがこちらを振り向く。
「あたしたちが“家族”とか“仲間”でいる場所は、
エレナにも奪えないんだよ」
「…………」
「コールがエレナを選んだとしてもさ。
あたしたち三人が、“コールの隣にいたい”って選ぶ権利は
誰にも奪えないでしょ?」
胸が、静かに震えた。
シアが、少し照れくさそうに言う。
「だから。
今日リネアが“結婚したい”って言ったの、
……とってもうれしかったよ」
「……なんで?」
「だって、これでちゃんと、皆同じ場所に立ったんですもの」
同じ……。
その言葉が、じわっと染みてくる。
「正直……今まで、“ナイルの頃のリネア”が
どこかで一段上にいる気がしてたから」
シアがリュカと視線を交わす。
リュカはわざとらしく肩をすくめる。
「っま、なんつうか……。あたしら、ちょっとだけビビってた」
「……そんな」
「でも今日で、もういいかなって思った」
リュカは笑う。
「結局さ、前のナイルとリネアも、今のコールとリネアも
ぜんぶ同じやつらの話なんだって、やっと腹に落ちたって感じ」
シアも力強く頷いた。
「だから――」
ふたりが、左右から私の手をぎゅっと握る。
「これからも、三人で一緒にコールの隣にいこう」
「エレナに勝つとかじゃなくてね。
“コールの帰る場所”の一部であり続けようぜ」
言葉が、出なかった。
ただ、涙が少しにじんだ。
悔しくて、うれしくて、情けなくて、あたたかくて。
「……ずるいのは……コールだけじゃないんだ……」
絞り出すように言うと、リュカが笑った。
「でしょ?」
シアも、少し涙目で笑う。
「三人とも、けっこうずるいのよ」
「……うん」
私はやっと、素直に笑えた。
「じゃあ、私も……負けないから」
「うん、負けないで」
「誰にも負けない三人でいこう」
三人で並んで、星を見上げる。
空は静かで、風は冷たくて――
それでも肩と指先は、ちゃんと温かかった。
(……たとえ“答え”が決まらなくても)
(この時間だけは、私たちのものでいい)
そう思えた瞬間、
胸の痛みは、少しだけ優しい形に変わっていた。
ーーーー
イルクアスターの見張り台は、星が近かった。
ネラはひとり、肘を置いて下を見ていた。
甲板には三つの影。
リネア、シア、リュカが肩を寄せて座り、静かに星を見上げている。
「……ちゃんと、並んだな」
ぽつりと、誰にも聞こえない声でこぼす。
船に来た日のことを、ネラは思い出していた。
リネアは迷っていた。
ナイルでもコールでもない“間”に立たされて、
どう歩けばいいのか分からない顔をしていた。
シアは優しすぎて、
リュカは強がりで脆く、
みんな自分の想いを抱えすぎていた。
そしてコールは……不器用なくせに、全部抱えようとしていた。
正直、最初は不安だった。
(……この船で、リネア、泣くかもしれないと……思った)
でも今日。
リネアが自分の足で言葉をぶつけた。
シアも、リュカも逃げずに支えた。
三人が同じ場所を選んだ。
(……あれなら、だいじょうぶだ)
胸の奥が、少しだけゆるむ。
ネラはそっと膝を抱える。
「……コール」
静かに名前を呼ぶ。
「お前は……シアも、リュカも……リネアも……全部、大事にしてる……」
呟きは、夜風に溶けた。
シアが一度泣いたとき、コールは逃げずに向き合った。
リュカも、ちゃんと笑わせた。
そして今日、リネアの言葉も受け止めた。
その全部を、分かっている。
近くで見ていたから。
「……あいつは、ずるいが……うそは言わない」
短い言葉だけど、そこには信頼があった。
三人の笑い声が、かすかに上まで届く。
星の光が肩を照らして揺れている。
ネラはゆっくりと息を吸った。
「……よかった」
本音が、こぼれた。
「三人とも……ちゃんと幸せになれそうだな」
リネアだけじゃなく、
シアも、リュカも。
「……なら、もう心配しない」
そう呟いて、ネラは立ち上がる。
風がマントを揺らす。
「……泣いたら、すぐ気づく位置にはいる……だが……」
最後に、それだけ付け加える。
それは脅しじゃない。
でもコールが聞いたら、たぶん少し背筋が伸びる言い方。
ネラは見張り台の縁に手を置き、夜空を見上げた。
相変わらず星は近くて、静かで。
でも心の中だけは、
三人の笑顔のおかげで、ほんの少し暖かかった。




