第150話:空の心臓
長老の家を出てしばらく歩くと、
空を渡る風が少しだけ柔らかくなった。
ハッリが前を歩き、俺たちはその後ろについていく。
「……街って言っても、地上とちょっと違うな」
建物は背が低く、丸みを帯びていて、
屋根には“雲よけ”と呼ばれる布がかけられている。
市場のようなものもあったが――金は見当たらない。
「通貨はないのか?」
俺の疑問に、ハッリは肩をすくめた。
「昔はあったらしいが、今はほとんど物々交換だな。
島によっては作れねぇ物も多いし……必要な物を必要な家から融通しあうのが普通だ」
「へぇ……」
リネアが珍しそうに周囲を見渡し、
ネラも露店に並ぶ乾燥果実や布を眺めていた。
と――
「……腹減ったぁ〜」
完全に気が抜けた声を出す奴が一人。
リュカだった。
「お前なぁ……」
「だって! 朝から何も食ってねぇんだぞ!? 腹も減るだろ!」
ハッリは少し呆れた顔をしていたが、
すぐに近くの食堂らしき家に声をかけた。
「すまねぇ、何か分けてもらえるのあるか?」
「ああ、ハッリのとこなら構わんよ。
ほれ、出来たての雲芋の焼き菓子だ。持ってきな」
「助かる」
ハッリは軽く会釈し、
焼きたてらしい温かい菓子を数個受け取って戻ってきた。
「ほら」
「おお!! ありがとー!!」
リュカは尻尾を振りながら噛りつく。
シアは慌てて店の人に頭を下げた。
「あ、あの……お金は……?」
店の主人は笑って手を振る。
「金なんて取らんよ。
ハッリは“運び手”だからな。困ったときはお互い様だ」
シアはさらに混乱した顔でハッリを見る。
「運び手って……そんなに大切なお仕事なんですか?」
ハッリは照れたように頭をかいた。
「まぁ……そうかな。
島と島を行き来できるのは、クランダを扱える“運び手”だけだ。
食い物、道具、薬……全部運び手が運ばなきゃ何も届かねぇ」
「つまり……物流の命ってことか」
「そゆこと。
だから、俺んとこにはちょっとくらい融通してくれる家もあるわけよ」
ハッリの後ろ姿を見て、
俺は思わず小さく頷いた。
(……地上の運び屋とも違う。
島の“生存”そのものを支えてる仕事ってわけか)
リュカは焼き菓子をもう一つ貰いながら、にこにこしていた。
「ハッリ、もしかしてお前……この島じゃ結構すごい?」
「……すごくねぇよ。
ただの運び手だ」
そう言いつつも、
周囲の住民たちが彼に軽く挨拶してくるところを見ると――
(信頼されてるのは本当だな)
街を歩くにつれ、空島の暮らしが少しずつ見えてきた。
通貨も税もない。
ただ、雲と風に囲まれた世界で、互いに助け合って生きている。
だが――
どの顔にも、かすかな影があった。
“あの日”が近づいている影。
ノッタという少女の“運命の刻”。
あの白い竜の影が、
なにもないはずの街の空に薄く張りついているように見えた。
ーーーー
街を抜けると、ハッリが木の香りが漂う工房に案内してくれた。
扉を開けた瞬間、柔らかい風と乾いた木の匂いが流れ出てくる。
「ここが……クランダを作る工房か?」
「ああ。俺たち運び手の命綱だな」
中には布を張ったフレーム、削りかけの木材、
天井から吊るされた細工無しのクランダがいくつも並んでいた。
俺は壁の木片に目をとめる。
(……軽くて硬い。しかもこの触り心地……)
指を滑らせた瞬間、胸の奥がざわついた。
(……イルクアスターに近い……)
偶然で片付けるには気持ち悪すぎるほど、その質感が手に馴染んだ。
(空島の木と俺の船の素材に繋がりがあるのか……?)
考えが深く沈みかけた時、工房の奥から声がした。
「板持ってきたぞ〜! ってお兄ちゃん?」
ぱたぱたと駆けてきたのは、
十歳くらいの小柄な少女だった。
(……あれが)
茶色い髪を後ろで束ね、
腕に木粉をつけて笑っている。
ノッタ。
今日の話で出てきた“あの名前”の少女だ。
ハッリの表情がわずかに曇る。
「ノッタ……」
「どうしたの兄ちゃん? その人達見たことないけど友達?」
弾けるような笑顔。
怯えの欠片もねぇ。
シアとネラも、つられて笑ってしまうほど明るい。
「へぇ〜! なんか変わった服だね!
ねぇ兄ちゃん、今度この人たちにもクランダ教えてあげれば?」
「ノッタ、やめろって……」
ハッリは焦ってたが、
その声に“怒り”は一欠片もなかった。
(……そりゃ、止めるよな)
ノッタの明るさは、まるで空そのものだ。
この島で“普通の子ども”らしい子ども。
だが――
工房の大人たちは誰も笑ってなかった。
誰もノッタに声をかけなかった。
板を抱えてる少女を見る目が、どれも優しいのに……
どこか、刺すように痛んでいる。
(……なるほどな)
俺の胸に、小さく嫌な重さが落ちる。
ここへ来る途中にも感じた影。
街に漂ってた、あの押し潰したような空気。
(ノッタが“選ばれた”ってだけで……
この島の子どもの未来が、一つ消える……ここの人たちはその重さを理解している……)
ノッタ本人は、まだ知らないのか……わからないのか……。
俺たちの前で無邪気に笑う少女を見ていると、
その事実がやけに残酷に思えた。
「ねぇ兄ちゃん、私この板どこ置けばいい?
次のクランダの骨組みに使うやつでしょ?」
「……そこだ。奥の、いつもの場所」
ハッリの声がほんの少しだけ震えた。
だがノッタは気づかない。
その無邪気さが、逆に大人たちの胸を締めつけているのが分かった。
ノッタは板を置くと、俺の前に戻ってきた。
「ねぇ、名前なんていうの?
下の……他の島の人?」
言いかけた言葉が、自然に修正された。
(下の――って単語、実はもう知ってるのか?)
俺は軽く頷いた。
「コールだ。
こっちは仲間だ」
「ふーん! お兄ちゃんより強そう!」
「おいノッタ……!」
ハッリが焦って肩を掴む。
「お前は皆の手伝いしてろ。変なこと言うな」
「えー? 別にいいじゃん!」
悪気の欠片もない。
ただまっすぐに、俺たち“外の人間”に興味を向けているだけだ。
(……こんな子を、生贄に出す?)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
工房の明るい木の香りの中で、
その笑顔だけが、やけに眩しくて――痛かった。
「ん? あれは──?」
工房の隅。
棚の上に置かれた木箱の中で、何かが“浮いて”いた。
青白い光。
ゆっくり脈を打つように明滅しながら、
拳ほどの小さな石が空中に吊られている。
(……光ってる? いや、“浮いて”んのか)
俺が近づくと、胸の奥がざわついた。
(この感じ……知ってる。間違いなく)
イルクアスターの動力室にある巨大なクリスタル。
あれを、ひと回りどころか百回り小さくしたような――
そんな、いやに懐かしい反応だ。
「それ、ソラル石!」
ノッタが俺の横にぴょこんと来て、胸を張る。
「クランダを作るときに使うんだよ。
これがないと浮かないし、風にも乗れないの!」
「へぇ……浮遊石、か」
「あ、でも触っちゃだめだよ?
勝手に触ると怒られるから!」
ノッタは悪戯っぽく笑ったが、
後ろで作業している大人たちは、笑っていなかった。
(……この反応。やっぱただの石じゃねぇな)
ハッリが気まずそうに近づいてくる。
「ソラル石は、上の島でしか採れねぇ。
手に入れるには……特別な試練が必要なんだ」
俺が振り返ると、ハッリは舌打ちしそうなほど渋い顔をした。
「ああ……自分の足で一番高い島まで行って、
風の裂け目を越えて……
“落ちずに帰ってくる”のが条件だ」
「……危険じゃねぇのか」
「危険だよ。
だから誰でも挑めるわけじゃない。
失敗すると、そのまま……雲の底へ落ちる」
ノッタはそれを“普通のこと”みたいに聞いて、
石を嬉しそうに見ていた。
「ねぇコール、触りたい? 触りたいよね?
特別に──」
「ノッタ、やめろ」
ハッリの声が鋭く割り込む。
少女はきょとんと振り返り、首を傾げた。
「なんで?」
「……大人の決まりだ」
短い言葉。
けどその後ろには、いくつもの“恐れ”が貼りついていた。
「ハッリ、ついてこい」
俺はソラル石から目を離し、工房の出口を顎で示した。
「え、どこに──」
「いいから。シア、リュカ、ネラ、リネア。お前らはここで大人しくしてろ」
シアがきょとんとする。
「コール様は……?」
「ちょっと用足しだ。ノッタの相手でもしててやれ」
「うん……分かった」
リネアが胸を張って答えると、
ノッタも「やった!」と笑って、ネラの手を引いていく。
(……まぁ、あいつらなら変なことにはならねぇだろ)
俺はハッリだけを連れて、工房を出た。
外の風はさっきより少し強くなっている。
雲の切れ間から、イルクアスターが降ろしてある草原が見えた。
しばらく無言で歩くと、ハッリが痺れを切らしたように口を開く。
「……どこ行くんだよ、旦那」
「お前に見せたいもんがある」
「見せたいもん?」
「そうだ。さっきの“ソラル石”に似てるやつだ」
ハッリの足が一瞬だけ止まりかけた。
「……似てる?」
「まぁ、見りゃ分かる」
草原に出ると、イルクアスターの木の船体が静かに佇んでいた。
さっきより周りの人影は少ない。
皆それぞれの仕事に戻ったのか、それとも怖くなって家に引っ込んだか。
「乗れ」
甲板上がると、シャドーズが無言で道を開ける。
ハッリは相変わらず、あいつらを見ると微妙な顔をする。
「何度見ても……変な連中だな。息してんのかしてねぇのか分かんねぇ」
「気にすんな。ついてこい」
甲板から船内へ降りる。
木の壁を伝って、ゆるやかに船の奥へ。
ハッリが鼻をひくつかせる。
「……木の匂いはするのに、中は妙に静かだな」
「静かなほうが都合がいいんだよ、ここはな」
一番奥。
分厚い扉の前で足を止める。
扉に手を当てると、低い振動が掌に伝わる。
(……相変わらず、よく動いてやがる)
ゆっくりと扉を引いた。
“今は寝ている”。だから中は、薄暗い。
けど――完全な闇じゃない。
部屋の中央、台座の上に浮かぶ“それ”が、
ぼうっと淡い光を放っていた。
青白く、時々紫を孕んで脈打つ光。
人の身長よりも大きな結晶が、
何にも支えられず宙に浮いている。
その周りを、木の根のような文様が取り巻いていた。
ハッリが息を呑む音が、すぐ横で聞こえた。
「……っ、なんだ、これ……」
「うちの船の心臓だ」
俺は手すりにもたれながら、動力室を見渡す。
「イルクアスターを浮かせてる“核”だな。こいつがあるから、俺たちは空を飛べる」
ハッリは一歩、また一歩と近づく。
ソラル石よりもはるかに大きい。
けれど光の揺らぎ方も、浮き方も――よく似ていた。
「……ソラル石、だ……」
呟きが漏れる。
「いや……違う。けど……同じだ……」
「どっちなんだよ」
「わかんねぇよ……でも、見りゃ分かる。
ソラル石と同じ“息”をしてる。けど、桁が違う……」
ハッリは手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。
「触っていいのか、これ……?」
「お前らの決まりと同じだよ。勝手に触ると怒られる」
「誰に?」
「俺に」
「……だよな」
苦笑しながらも、ハッリの目は結晶から離れない。
台座の周囲の木材には、細かい文様が刻まれていた。
クランダに縫い込まれていた“印”と、どこか似ている。
(やっぱり……繋がってるのか)
空島のクラ・エン。
クランダの布に刺繍された模様。
ソラル石。
そして、イルクアスターの動力核。
全部、同じ“系統”の何かで動いている。
「……ハッリ」
俺は結晶から目を離さないまま口を開いた。
「お前らの伝承だとさ。
空は女神が創って、グラナシルが人を運んだんだろ」
「……ああ」
「だとしたら――この船は」
結晶の光が、ふっと強くなる。
まるで、話を聞いているみたいに。
「この空にとって、“完全な部外者”じゃねぇかもしれねぇ」
ハッリが俺を見る。
「どういう意味だ?」
「分かんねぇ。まだな……だが」
俺の中に僅かな希望が浮かぶ、それはまだ確かなものじゃない……。
「グラナシル……存外話せばわかる相手かもしれねえ……」
自分で言っておきながら、その“希望”がどれだけ薄っぺらいかも分かっている。
それでも――生贄か、島ごと墜ちるか、の二択よりは、まだマシな未来を見つめた。




