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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第14話:草原の鼓動


薄雲が垂れ込めた空の下、一面に広がるはずの平原は、朝霧の中にぼんやりと沈んでいた。

地面は踏み荒らされ、草のほとんどは倒れて土がむき出しになっている。

西の端には針葉樹の森が黒々と広がり、東には緩やかな丘。

その丘の中腹に、人間の軍勢がずらりと展開していた。


槍を構えた歩兵部隊が幾列にも並び、揃った盾が壁のように連なる。

その背後には弓兵、さらに後方には魔術士と従者たちの陣。

軍旗が掲げられ、風に揺れて鋼の音と共に鳴る。

騎士たちは馬を操って側面を巡回し、全体の威圧感を強めていた。


東の丘から見下ろすように布陣されたその大軍を、西の森の縁……木々の陰に身を潜めた数名の獣人偵察部隊が覗っていた。


「……あれが全部か?」


狼系の若い戦士が、木の幹に片手を置いて言う。


「いや、まだだ。……丘の裏に補給部隊と馬車が控えてる。人間ども……このまま来る気だな」

「数は……五百はくだらねぇな」


別の者がごくりと唾を飲み込んだ。


「こっちは三百もいねえ。しかも灰狼の……」

「っし! 黙れ!」


焦燥を滲ませた声が遮った、ちょうどその時。


背後の茂みがかすかに揺れた。

振り返ると……灰銀のたてがみをなびかせた灰狼族の戦士、シラヴァが姿を現す。


森牙シルヴァクの息子にして、灰狼一族の長兄。

一族の戦士すべてをまとめる統牙〈トウガ〉であり、戦場における“覇牙”と恐れられる男だ。


木の影に立ち、静かに眼下の人間たちを見据えたまま口を開いた。


「……数に怯えて腰を抜かすとは。お前達は本当に獣族の戦士か?」


その言葉に、若い偵察兵たちは言葉を失い、身を縮める。

ただ、彼の声音に侮蔑はなかった。あったのは、同胞としての誇りゆえの苛立ちだ。


「我らは獣族。血が違うと言うのならそれもよかろう。だが恐れに囚われるなら……おまえたちはただの獲物だ。戦士ではない」


凍りついた空気の中、誰かが唇を噛んだ。

だが、何も言えないまま、シラヴァの声が続く。


「灰狼の我が弟……“守牙”が倒れたと聞いた時、俺は誓った。必ずや、この牙を折った者たちに、血で償わせると」


そのまなざしは、丘の上の敵を貫いている。


「……戦支度を整えろ。本隊に伝えよ。陽が天に登る前に、牙は走る。鼓動を合わせろ、“狩り”の始まりだ」


森の奥……次第に響いてくるのは、打ち鳴らされる太鼓の重い音。

それに呼応するように、様々な獣族たちの雄叫びが次々と上がる。


鼓動が加速し、喉奥に眠る本能を呼び起こす。


……“狩り”が始まる。


シラヴァの合図と共に、森から姿を現した獣人たちは陣形を組み、地を蹴って進み始めた。

様々な種族の戦士たちが混在し、それぞれの武具を手に、吼え声を上げて突撃する。

先頭には獣族の最強を誇る灰狼と黒狼の一族、続いて俊敏な猫族が続き、“覇牙”シラヴァがすべてを率いるように走る。


一斉に突撃が始まった。


丘に陣取っていた人間の軍も、すぐにそれに気づき、迎撃の陣形を整える。


「前列、構え! 矢を番えろ、距離を測れ!」


怒号が飛び交い、無数の矢が空を覆うように放たれた。

だが獣人たちのスピードはそれよりも早く、初撃は多く命中し矢が刺さっているが、倒れる者は少ない。


やがて両軍が衝突する。


甲冑がきしみ、槍が肉を突き、鋭い牙と爪が鋼に挑みかかる。

だが……数の差はあまりに大きく……形勢は不利。


肩を砕かれた若き戦士が地面に膝をつく。腕は血に濡れていた。


「っガァ……まだだ!!! 喰らいつけぇッ!!!」


背後の仲間が咆哮する。怒声ではなく、狩りの叫び。


「壁が薄いよ!! 右が破られる!」

「足を止めるな! まだ狩りは終わっていない!」


最前線では、獣人の若き戦士たちが必死に踏みとどまっていたが、

人間側の統率された陣形と武器の性能差が、徐々に差となって現れていく。


中でも狼系の戦士たちは、怒りを胸に沈めたまま、無言で戦っていた。


……“守牙”が討たれた。


人間の急襲から村を守るため、若き灰狼の戦士・シガが命を賭したと聞いたとき、

獣たちの誇りを背負ったその名は、もはや伝説となった。


だが、時として……怒りと悲しみは血となり骨となるが、それでも刃はわずかに鈍る。

その“わずか”が、戦場では命取りとなる。


人間の軍勢が押し寄せ、前列の獣人たちは一歩、また一歩と下がっていく。

盾が砕け、槍が折れ、獣の雄叫びに人の怒号が混じる。


そのときだった。


突如……空から、重低音が響いた。


「……なんだ……?」


誰かが、顔を上げた。


霧の向こうに、黒い影が見える。


それは、船だった。

空を、船が…………空を航行していた。


「飛んで……いる……?」


人間の兵士たちが、手を止めた。

その動揺は、すぐに全軍へと広がる。


そして次の瞬間――


ドオオオオオオンンッ!!!


空から、火の玉が降ってきた。


爆音が大地を揺るがし、地面をえぐるように炸裂する。

兵士が紙くずのように吹き飛び、肉片と装備が空を舞う。


「な、何だ……!?」「獣共の魔術か!?」「こんな……馬鹿な……!」


人間の兵たちの悲鳴が、戦場に響き渡り——


ドオオオオオオンンッ!!!


再度、空から雷鳴のような音が響きわたる。

火柱が立ち、人間の陣の中心を穿つ。

爆炎に包まれた兵たちが断末魔の叫びを上げ、熱と煙が戦場を呑み込んでいく。


人間たちが混乱に包まれる中で、シラヴァはすでに牙を剥いていた。


「好機!……今だ!!! 一気に押しつぶすぞ!!!!!」


だが、その前に、すっと横から赤い影が現れる。


「待ちな、『覇牙』」


声をかけたのは、長い赤毛をなびかせた猫族の女戦士・シェアラ。

俊敏と観察眼に長け、獣族の中でも戦略を担う一角を占める“紅刃こうじん”。


「あれが落ちる場所を見な。狙われてるのは……あっちの丘の上。

こっちには一発も飛んできてない。あれは“人間への攻撃”だ」


混沌とした戦場の中でその瞳は、冷静に火線を読み取っていた。


「このまま突っ込めば巻き込まれる。引き際だよ、覇牙。

それとも……得意の“力押し”で、火の海に飛び込むつもり?」


にやりと笑って、赤毛の尾を揺らすシェアラ。

シラヴァは一瞬だけ目を細め、口元をきつく結んだ。


「……ならば、全軍に告げよ。後退だ。警戒を保ちながら、森へ戻る」


火の粉が再び天から降る中、獣族たちは退く。

だがそれは敗走ではなく、整然とした“狩人の後退”。


息を潜めるようにして草原の陰に姿を消していくその様は、獲物を追う者ではなく、次なる機をうかがう捕食者そのものだった。


戦場に残された人間たちの中には、一瞬の安堵が広がっていた。


「……引いた……のか?」

「た、助かった……!」


誰かが膝をつき、槍を地面に突き刺したまま息を吐く。

砲撃の混乱と獣族の猛襲、そのどちらにも耐えきれなかった心が、ようやく解放されたかのようだった。


だが——


それでも兵たちは、丘の上から視線を外せずにいた。


空に浮かぶ大きな船。

砲撃は止んでいたが、いつ再び火が降るか分からない。

獣族が退いた理由すら、兵たちには理解できていない。


緊張は緩んでいるのに、心のどこかが凍ったまま。


そんな中——


一人の兵士が悲鳴を上げた。



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