第139話:三日間の音と、変化
――あれから三日が経った。
リュカとシアは、部屋から一度も姿を見せなかった。
廊下に置いた食事は空になって返却される。
気配があるのは分かる。
だが声は聞こえず、姿も見せない。
そして毎晩――
メキッ、メリメリッ……!
骨が軋むような音、肉が伸びるような音、
獣が暴れるような低い唸り声が、夜通し続いた。
(……どうなってるんだ、二人とも)
眠れなかった。
……眠れるわけがなかった。
三日間、俺は甲板の端か船室の前で座り込み、
一睡もできずに耳を澄ませていた。
少しでも意識を落としたら、
二人が何か取り返しのつかない状態になってしまう気がして――
目を閉じることすら怖かった。
視界は霞む。
足元はふらつく。
吐き気すらした。
(クソ……けど、今は……)
四日目の夜の始まり。
海は静まり、月も雲に隠れていた。
その静寂を――
メキ……メリメリッ……!!
凶暴な音が破った。
今までよりも、ずっと近くで。
「……っ!」
心臓が跳ねた。
また……シアとリュカの部屋だ。
続けざまに――
ガアアアアァアアアァッッ!!!
明らかに“シア”の声が混ざった咆哮。
今までで一番大きく、一番苦しそうで、一番獣に近かった。
「シア!!」
体が勝手に走った。
眠気は吹っ飛んだというより、もう体が勝手に動いていた。
階段を駆け降り、廊下を走る。
足がもつれて壁に肩をぶつけても止まらない。
扉へ手を伸ばした瞬間――
ガンッ!!
中から扉が押し返される。
一瞬見えたのは、細い腕……ではなかった。
押し支えているのは――
「……リュカ!? お前か……!!」
扉の隙間から、リュカの声が聞こえる。
「コール! 開けんな!!」
その声は本気だった。
ふざけた色も強がりもなく、ただ必死で。
「中はどうなってる!? シアが――」
「“変わってる途中”だ!! 今日がピークだ!!」
後ろで、シアの咆哮が爆ぜた。
ガルルルルルルルッ!!
バキッ! メキィィッ!!
(……何だ……この音……)
家具が砕け、床が軋み、
何かが巨大化して暴れている音だった。
「開けろ! 中で何が――」
「開けるなって言ってんだろ!!」
リュカは歯を食いしばり、全身で扉を押さえながら叫ぶ。
「シアが……っ
“自分の体と戦ってる最中”なんだよ!!
見られたら余計に暴れる!! もっと苦しむ!!」
「戦ってる……?」
「そうだよ!!
今は――色々、が!……ぐっ!」
ドンッ!!
扉が内側から殴られ、リュカの体が揺れた。
「リュカ!!」
「大丈夫だ!!……シア! 待て!! そこで噛むな!!」
「噛んでるのか……?」
「噛んでる!! 成長期はマジで痛ぇんだよ!!」
扉の向こうの凶暴な音は止まらない。
破壊音、咆哮、軋み、呼吸の荒さ……。
どれも今までの二人とは違う。
その“変化の重さ”が、音だけで分かった。
俺は扉に手を伸ばし――
そして、ゆっくりと下ろした。
「……分かった。任せる」
リュカの声は少し落ちた。
助かったというより、安堵したように。
「だけど、何かあったらすぐに呼べ」
「呼ぶ余裕……あれば、呼ぶ……っ!!
うおっ、こらシア!! そこはやめろ!! 痛ぇって!!」
その夜も――
船の奥から聞こえる咆哮は、朝まで止まらなかった。
俺は廊下に寄りかかり、
眠りたくても眠れずに、ただ耳を澄ませ続けた。
(……無事でいてくれ……二人とも……)
薄暗い廊下で、瞳が自然と閉じるたび、
意識が落ちそうになって何度も壁に頭をぶつけて起こした。
眠ってはいけない。
この三日間、ずっとそう自分に言い聞かせていた。
(頼む……もう少し……まだだ……)
船の揺れの中、
俺は意識が飛びかけながら――
朝を迎えることになった。
気がつけば、廊下の床に背を預けたまま、
半分眠ったような、半分気絶したような格好で座っていた。
三日間、一睡もしていないせいで、
視界はゆらゆら揺れる。
頭もくらくらする。
でも、扉の向こうが静かになったのが分かった。
(……終わった、のか……?)
扉に耳を寄せる。
もう咆哮も、軋む音も聞こえない。
ただ、ゆっくりとした呼吸の気配だけ。
「……リュカ? シア?」
呼びかけた瞬間――
扉の鍵がカチャッと外れる音がした。
ゆっくりと開いた扉から出てきたのは――
「は?……」
明るい黄色のショートヘアが肩にかかるほど伸び、
猫耳が一回り大きく、毛並みも大人びている。
身長も伸びて、以前は俺の胸のあたりだった視線が、
今はほぼ目線の高さに迫っていた。
肩から腕にかけてしなやかに引き締まり、
脚は長く、猫族特有のバネの強さを感じさせる体つきになっている。
尻尾も太くなり、縞模様がはっきりしていた。
「……コール? お前まさかずっと寝てねぇのか?」
声は少し低く、色っぽい響きになっていたが――
笑ったときの調子は昔のままだ。
「リュカ……お前、その姿……」
「へっへ〜ん。どうだ? つっても、服がぜんっぜん合ってねぇけどな」
見た目は完全に“大人の猫族戦士”そのものだ。
そして背後から――そっと……。
銀色の髪が腰まで伸び、
犬(狼)系の耳は柔らかい毛並みのまま、
一回り大きくなっている。
以前は小柄で守ってやりたくなる印象だったシアが――
今はスラッと背が伸び、
しなやかな筋肉がついた、美しい灰狼族の女性へと変わっていた。
腰の銀の尻尾はふわふわと大きく、
動くたびに柔らかく揺れる。
服は完全にサイズが合わず、
胸元や腰回りを押さえて必死に直している。
「……コール様」
顔立ちは幼さが抜け、
落ち着いた狼族の気品が漂っていたが――
性格の奥にある“控えめなシアらしさ”はそのままだ。
頬を赤くしながら、小さく頭を下げる。
「お、おはようございます……」
(……別人みたいだ……けど、ちゃんとシアだ……)
胸の奥がじわっと温かくなる。
三日間も声が聞けず、姿も見えず、
不安で寝ることもできなかった。
その二人が、無事に立っている。
(……良かった……本当に……)
「……無事でよかった」
シアが、心配そうに一歩近づく。
「コール様……お顔が……」
リュカも眉を寄せて俺を見る。
「おい、マジで寝てねぇ顔だな? 目の下まっくろだし……」
三日間、ずっと耳を澄ませて、
気配に怯えて、
いつ扉が壊れるか、いつ叫び声が途切れるか――
一秒も気を抜けなかった。
シアとリュカが平気だと知って、
全身から力が抜けた。
そして――限界が来た。
「……そっか。なら……よかっ……た……」
自分でも驚くほど、声が弱かった。
次の瞬間。
膝ががくんと抜け、
視界がふっと暗くなる。
「コール!?」「コール様っ!」
リュカとシアの声が重なったが、
もう体は言うことを聞かなかった。
後ろへ――
そのまま、ゆっくりと倒れ込む。
(ああ……終わったんなら……寝ても……いい、か……)
床に背中が触れる前に、
二人の腕が左右から同時に伸びてきた感触だけが、
最後にほんのり温かかった。
意識は、そこで落ちた。
―――――
コールが後ろに崩れ落ちた瞬間――
二人は条件反射で同時に手を伸ばした。
「わっ、シア! そっち持って!」
「持ってる! コール様!」
肩と腰を支えるように抱え込むと、リュカが軽く持ち上げて目を丸くした。
「……え、軽っ!? なにこれ。コールってこんな軽かったか?」
「えっ……そんなに軽いの?」
「やべぇよ。あたしがデカくなったからっての抜きにしても、
ちょっと怖いくらい軽い……。……ほれ!!」
片腕でひょい、と抱え上げ、リュカはシアに投げ渡す。
「うひゃ!?……リュカ〜!! あなたねぇ〜ッ」
シアは慌ててそれを受け取る。
「冗談だって、でも軽くね?」
「まったく……でもホント……コール様ってこんなに軽かったの?」
「こいつ……ほんと限界だったんだな、飯食ってたのかな?」
コールは寝落ちというより、完全に気絶していた。
リュカがシアの隣で歩きながら、コールの頬を覗き込むように見つめてつぶやく。
「……三日も起きてたんだよ。ずっと……」
部屋の前につくと、リュカが扉を押し開けた。
「シア、ベッドここだぜ」
「わかってる」
シアはコールをベッドの上にそっと寝かせた。
思った以上に、ふわっと軽く沈んだ。
リュカは寝かせたばかりのコールをダンベルのように持ち上げる。
「……マジで軽いなぁ。何も食ってねぇのか?」
「リュカ、いい加減にしなさい?……」
「っげ……はい……」
シアは毛布を胸までかけ、
そのまま自然に、コールの髪に指をのばした。
そっと、すっと撫でる。
優しく。
触れた指先が震えているのが分かった。
「……ずっと……私たちのこと心配して……寝なかったんだよね……」
リュカが横で腕を組み、ふっと息を吐いた。
「……あー……やべぇな、これ。
なんつーかさ……いろいろあるけど大事にしてくれてるってことだよな?」
「……そう、そうね」
シアは続けて、もう一度コールの髪を撫でた。
「コール様、ずっとずっと……近くに居てくれたんですもの。
私たちが暴れてる間ずっと……」
「……お前、泣きそうじゃん」
「泣いてない!」
「嘘つけ。耳赤いぞ」
「……っ……うるさい……」
しゅんと耳を倒しながら、でもシアは微笑んだ。
コールの寝息だけが静かに響く。
その音が、三日間張り詰めていた空気をゆっくり溶かしていく。
リュカがベッドの端に腰を下ろして、ぽつりと言った。
「……なぁ、シア」
「なに?」
「あたしら……こんなにデカくなっちまってさ。
なのに、こいつは全然変わらねぇで……」
「うん……」
「なんかさ……結局ずっと守ってもらってばっかって感じじゃねぇ?」
シアはもう一度、そっとコールの前髪を撫でた。
「……だから、これからは……守る番よ」
姉妹は、寄り添って眠るコールを見つめたまま――
静かに、同じ想いで微笑んだ。




