第13話:雨中の帰路
甲板の中央には、幅広の木製テーブルが据えられていた。
その周りを影たちが慌ただしく動き、鍋から湯気を立ちのぼらせ、次々と料理を並べていく。
香ばしい肉と野菜の匂いが甲板を満たした。
「座れ、遠慮はいらん」
椅子を引くと、子供たちは最初こそ不安そうに互いを見たが、ナムだけはすごい勢いで椅子に座った。
「椅子取りゲームじゃないんだぞ?」
「イストリーム?」
「…ないのか?」
ナムが席につくと他の子達も大人しくテーブルに着いた。
そしてその前には次々と料理が並べられ、皆すぐに食いつき始めた。
一口のスープを口にした途端、表情がほどけ、船を漕ぐみたいに慌ただしくスプーンを動かす。
「ゆっくり食え、のど詰まらせんなよ」
そう声をかけながらも、誰もが空腹に勝てず、器を抱えて夢中になっている。
そんな中、金毛——警戒心を崩さない猫耳の少女は、椅子にも座らず腕を組んで立っていた。
鋭い視線を、ゲールが消えた船内の方へ向けている。
近づこうと一歩を踏み出すが、その前にウィンスキーが無言で立ちはだかり、首を振った。
少女は鼻を鳴らし、渋々その場に留まる。
テーブルの端では、大柄な男が黙って皿の肉を口に運んでいた。
視線は時折、向かい側に座る俺に向けられる。
…敵意はない…が、油断もしていない、そんな感じだ。
その眼差しは「お前を測っている」とでも言っているように感じる。
分かりやすいやつ…俺は嫌いじゃねぇよ。
「味はどうだ?」
問いかけると、わずかに間を置いてから短く返ってくる。
「……悪くない」
それだけ言って、また口を閉ざす。
ふむ…。
余計な言葉を重ねる気はさらさらないらしい。
金毛の反抗娘は、まだ席につかない。
腕を組み、船内の扉を睨み続けている。
その耳は、ぴくぴくと動いて中を探っているのだろう。
(……ま、そう簡単にはいかねぇよな)
視界の隅で影たちが急いでおかわりを運ぶ。空腹の子供たちは再び手を伸ばし、皿は瞬く間に軽くなっていった。
食料が尽きるのが先みたいだな。
「……お前」
低い声が俺を呼んだ。
なんかムカつくし…丁度いいから自己紹介でもしておこう。
「お前じゃない。この船、イルクアスターの船長、コールだ。」
短い沈黙の後、大柄な男は背筋を正し、深く息を吐く。
そして低く響く声で言った。
「…シガだ。灰狼の一族。長老、森牙『シルヴァク』の息子にして、戦士『シラヴァ』の弟」
その名乗りは、誇りと責務の重みを帯びていた。
測るようだった視線は、その瞬間、同じ戦士を見る眼へと変わる。
「お前の戦いの腕は……本物だった。あの護衛を迷いな−−」
「ナム! アオイヌ?、ゾォク!」
場の空気をぶった切るように、ナムが両手を広げて割り込んできた。
当たり前のように満面の笑みで、スープの口元を汚したまま。
「おいナム……青犬族ってなんだ?!」
「?……ワカナイ!」
シガの口元がわずかに動いた。
笑ったのか、呆れたのか……たぶん、どっちもだ。
少なくとも、この場の空気はほんの少しだけ柔らかくなった。
それから腹一杯になった子供たちはあっさりなつき、今はポロ、トロ、ノロ達が遊んでいる。
食後、甲板に皆を集め、甲板の上の段から俺は静かに告げた。
「よく聞けお前ら!……今から俺がお前らを故郷まで返す! それでいいな?」
子供たちは息を呑み、次いで歓声を上げる。
シガは短く頷き、金毛は黙ってこちらを見ていたが、その目はまだ硬い。
そのまま舵を握り、レバーを引く。
船体が微かに揺れ、甲板の木材がきしむ音とともに浮き上がった。
ゆっくりと大気をつかむように雲を抜け、昇っていく。
「うわぁ……」
子供たちの驚きの声が上がり、あのシガですら目を丸くして周りを見渡していた。
(この顔は何度見ても飽きないもんだな。)
船はそのまま空を滑るように進み、街の灯が遠ざかっていった。
太陽はすっかり落ちて、船は夜空を滑るように進み続ける。
甲板は星々の光と月明かりが煌々と照らしている。
風は冷たく、甲板を歩くと靴底がきしむ音だけが響く。
俺は舵をウィンスキーに任せ、子どもたちの寝床を見に行った。
子どもたちはすでにぐっすりと眠っていたが、獣族の女性はまだ起きており、母のように子供たちの頭を撫で、毛布からはみ出ないよう包んでいた。
俺は手を振って上に戻る。
金毛の反抗娘が船の縁に寄り、じっと下を見下ろしている。
「おいおい、そんなとこにいたら——」
声をかけようと一歩踏み出したとき、月明かりがきらりと反射した。
……刃だ。
「おわ!、ぁぶねぇ……」
振り返った彼女の瞳には、はっきりと敵意が宿っていた。
そのまま、間を置かず踏み込んでくる。
腰の短剣が、俺の脇腹を狙って鋭く突き込まれた。
コートに刃が軽くあたり、金属音が甲板に響く。
……俺の左手が、その手首を掴んでいた。
「ったく……やっぱりな。フコックの奴がナイフがねぇって騒いでたが……どういうつもりだ?」
「……お前なんか、信用できるか」
低く、押し殺した声。だが刃先にこもった力は本気だった。
「そうか……なら一つだけ教えといてやる」
俺は力を込め、短剣ごと反抗娘を押し返した。
「俺を信用しなくてもいいが。おめぇに、あのガキどもが守れるのか?」
睨みつけたまま…その視線の奥に、迷いが揺れているのが見える。
「っま、好きにしろ。降りたきゃ今すぐ降りろ」
何も言わず、俺の言葉を無視して背を向けた。
その影は甲板の闇に溶け、やがて静寂だけが残った。
嫌な予感しかしねぇなぁ……はぁ。
朝方、船を休ませるため地上に停泊していたのだが。
甲板に出るなり、ウィンスキーの慌ただしい手振りと、ボロボロの服のゲールを見て全てを理解した。
…………いねぇ。
昨日、そういや物音がしてたな……
てっきりまたハイポールのやつかと思ったが……違ったようだ。
あのドラ猫娘と、ゲールに預けた銀毛の少女の姿がどこにもない。
好き好んで勝手に見張りをしていたシガに尋ねると、あっさりと「日が昇る前に出ていった」と答えた。
シガは腕を組んだまま、俺の顔をじっと見た。
その眼は何も語らないが、何かを見透かしているような光がある。
「……お前、止めなかったのか」
問いかけると、シガはゆっくりと首を横に振った。
「憎しみにとらわれた奴は、誰の声も届かん」
低く落ち着いた声だった。
「無理に縛れば……余計に牙を剥く」
その言葉は…すでに答えを知っている者の声でもある。
「それに……」
シガは視線を外し、森の奥をちらりと見やった。
「お前は、見捨てられんだろう」
……ちっ、読まれてやがる。
船は今、山間の険しい場所に止まってる。そうそう遠くにはいけねぇはずだが……空模様が悪い……。
ーーーーー
夜明け前。
甲板の端に立ち、雲の切れ間を見上げながら決断した。
背後では子どもたちの寝息が静かに響いている。
この子達はあの人間を信用しきっている……連れて行くにも足手まといだ……。
耳を澄ませば、船の奥——シアの呼吸は弱いままだ……。
(このままじゃ……)
甲板の板がわずかに鳴る。
振り返ると、見張りをしていたシガがこちらを見ている。
目を合わせると、彼は何も言わず、ただ視線を逸らした。
その表情は止めるでもなく、許すでもなく、ただ「選べ」と言っているようだった。
私は中にいた化物を倒してシアをそっと背負い、甲板の縁に向かう。
足にロープを掛け、夜の森へと身を滑らせた。
この山は村から見えていた大山のはず。急げばシアはまだ……。
「急がないと……」
森は湿り、闇は冷たさを孕み静まり返っている。
背負ったシアの体は驚くほど軽く、その呼吸は浅く熱い。
毛布越しにも伝わる体温が異様に高く、胸の奥がざわつく。
(このままじゃ……死んじゃう)
振り返れば船は見えない。
背後でこちらを見ていたシガの顔が、脳裏にちらつく。
止めることも追うこともせず、ただ黙っていた。
あれはどういう意味だったのかは、わからない……。
考える余裕もなく歩を進める。
落ち葉を踏む足音が、やけに大きく耳に響く。
風は刃物みたく冷たく、森の奥から土と草の匂いが押し寄せてくる。
(人間なんか……)
奥歯を噛みしめ、頭の中で何度も吐き捨てる。
けれど、それと同じ回数だけ、背の弱々しい息が胸を締めつける。
やがて空気がさらに重くなった。
風が止み、代わりに頬に冷たい雫が触れる。
見上げれば雲が低く垂れ込め、雨が降り出す前の匂いが鼻を刺す。
(くそ……)
急ぎたいのに、地面はぬかるみ始め、足が取られる。
何度もよろけ、そのたびにシアの苦しげな吐息が耳に触れる。
「…もう少し……」
自分に言い聞かせるように呟くが、歩幅は確実に狭くなっていた。
雨粒がぽつり、ぽつりと肩を打つ。
冷たいはずの雨が、やけに重く感じる。
(……クソ)
足を止め、空を仰ぐ。
木の枝越しに見えるのは、暗い雲と滲む月の光。
胸の奥から、どうしようもない焦燥がこみ上げてくる。
背のシアが、小さく、かすかに呻いた。
力のない声は、刃物のように鋭く胸を刺す。
「……リュ…カ」
「シア!? 話さないで! あとちょっと! あともう少し! 何個か山を越えれば——」
薄い意識のシアに何度声をかけても、返事は帰ってこない……。
「シア!……」
背中で感じる体温が、どんどん軽く、遠くなっていく気がした。
呼吸は浅く、かすかな声すらももう聞こえない。
「……ごめん……ごめんね……」
——守るって、言ったのに。必ず……あの日、もう……私達だけだから……。
雨が頬を打つ。冷たさよりも胸の奥が焼け付くように痛い。
どうして自分は、こうも無力なんだ。
この手は何のために……牙は、爪は、何のために……。
目の前の景色が滲む。雨のせいじゃない。
言い訳も、逃げ場も、もうなかった……。
ただ……自分のせいで死んでいく家族を抱きしめながら……、
喉の奥で、声にならない叫びが渦巻き続けていた……。
気づけば、空に向かって声を放っていた。
雨が頬を打ち、喉が焼けるように熱い。
耳の奥で、心臓の鼓動と雨音が入り乱れる。
………その時だった。
「バカ猫が……迎えに来たぞ」
その声は、雨の中でも何故かはっきりと届いた。
重く……低く……そして不思議と真っ直ぐに胸の奥へ突き刺さる。
空に浮かぶ黒く大きな影。そこから伸びるロープを片手に、見覚えのある人影がゆっくり歩み寄ってくる。
その姿が、視界の中でじわじわと大きくなる。
私は腕の中のシアを必死に抱きしめていた。
震える指先にまで、雨水が流れ込む。
「……ほら、帰るぞ」
低く、ぶっきらぼうに聞こえる。
けれど、不思議と胸の奥を温かく撫でられるようで、
ずっと張り詰めていた力が少しだけ抜けていく。
もう帰る場所はない……その事実は変わらない。
それでも、この声と手の温もりが、今は確かに“帰り道”だった。




