第138話:海の底と、成長の音
海の底は、昼でも薄暗い。
けれど、獣の目は光を拾う。
岩場の向こう、海藻を押し分け――
(……いた。でっけぇの)
黒光りする巨大な魚。
丸呑みできそうな口。
あれ一本仕留めりゃ、間違いなくコールに勝てる。
肺に空気が残っている。
距離も悪くねぇ。
(よっし、一気にいく!)
指の膜を最大に広げ、推進力を乗せた瞬間――
海の温度が変わった。
背筋に、ひやりとしたものが走る。
(……え?)
本能が警鐘を鳴らした。
“後ろにいる”。
ゆっくり振り返る。
影が揺れた。
岩よりデカい頭。
ギザギザの歯。
開いた口が水を飲むように動く。
(サメ――!!)
デカい。
速い。
今の距離は――悪い。
「っ……!」
魚なんてどうでもよくなり、
細い岩陰へ向かって全力で泳いだ。
サメの影が追ってくる。
海水を裂く音が、背後で震える。
(やべぇやべぇやべぇ!!)
あと少しで岩の隙間――!!
その瞬間、
ふくらはぎに鋭い痛みが走った。
「っ……!! つった……!? なんで今――!」
脚が動かない。
水流に足を取られ、岩場から離れる形で流された。
背後、巨大な影が口を開く。
(食われる……!!)
水中で声にならない悲鳴をあげた、その一瞬――
横から、
“何か”が光の筋となって飛び込んできた。
速い。
海そのものを裂く速度。
(……コール!?)
剣先がサメの腹に突き刺さり、
水が爆ぜるように白い泡が散る。
轟音は水に飲まれて聞こえない。
だが衝撃は海底まで響いた。
サメは横に吹き飛ばされ、
血が薄紫に散って染み広がる。
コールは勢いのままあたしの腕を掴んだ。
(……助かった……!!)
胸が震えて、息が戻る。
いつもは絶対に見せない弱音が、泡になって漏れた。
水面へ――
コールが剣の推進力で引き上げる。
岩場に到達したとき、足はまだ力が入らなかった。
「……は……はぁ……死ぬかと思った……!」
岩場に座らされ、膝に手をついて呼吸を整える。
コールは短く言った。
「足、動くか?」
「……っ、まだつって……クソ、なんで今なんだよ……」
悔しさと怖さで混ざった声になった。
でも、コールは怒らず、ただひとつだけ呟いた。
「無事でよかった」
その一言が、胸の奥に刺さる。
耳が勝手にへにゃっと折れた。
コールは剣を握り直し、海を見下ろす。
「すぐ戻る。
あのサメ、沈む前に回収しねぇといけねぇからな」
「……っ、気をつけろよ」
思わず絞り出した声に、
コールは振り返らず手だけひらっと上げた。
次の瞬間、
青い海へ――鋭い線を引くように飛び込んでいった。
泡が弾ける。
光が揺れる。
残されたリュカは膝を抱えたまま、
ふと唇を噛んだ。
(……やっぱ、コールはすげぇな)
自分ひとりじゃ勝てなかった命の瞬間を、
あいつは一撃でひっくり返す。
胸の奥が燃えるように熱くなる。
(負けたくねぇ……)
怖かったくせに、
それでも悔しさが滲み出る。
海の底へ向かったコールの影が、
遠くで青に溶けていった。
――――少しして
足の痙攣はようやく治まり、
岩場に腰を下ろしたまま海をにらむ。
(……大丈夫かよ、コール)
さっきサメを仕留めた勢いそのまま、
迷いなく海底へ沈んでいった。
水面は静かだ。
ただ風と波の音だけが聞こえる。
(……くそ、落ち着かねぇ)
指先で岩をトントンと叩きながら待っていると――
海の影が、ゆっくり盛り上がった。
「……ん?」
波が裂ける。
巨大な頭。
裂けた腹。
白い歯がギラギラ並んだ、あのサメ。
そしてその後ろから――
片腕でサメの胴を担ぎ、
もう片方で岩肌を掴みながら上がってくる男。
「……おま……マジかよ……」
全身ずぶ濡れのコールが、
息ひとつ乱さずサメを岩場に引きずり上げた。
「回収してきた」
「いや“してきた”じゃねぇよ!!
でっっか!! なにこのサイズ!!」
リュカは思わず近づき、
死体をぺしぺし叩く。
サメの体は岩にのしかかり、
半分以上が水の上に露出していた。
「……これ、乗れんじゃね?」
「乗るな」
「いや乗るだろ!!」
コールの静止より速く、
サメの背にひょいっと飛び乗る。
「はっ……これ最高じゃねぇか!!」
コールは無言で額を押さえた。
「ったく……勝手に落ちるなよ」
「落ちねぇ落ちねぇ。ほら、いけ!! 船まで引っ張れ!!」
興奮して叫ぶと、
コールは一度だけ深くため息をついた。
「……下に行く。しっかり掴んでろ」
「まじで?! おもしれー!!」
コールは海へ飛び込み、
サメの顎をがっちり掴んで剣を前へ突き出す。
次の瞬間――
海面が“爆発”した。
「うおおおおお!!! はっっや!!」
岩場が遠ざかる。
海を切り裂く巨大な水流。
サメが滑るように船へ向かう。
「これやべぇ!!
なんだよこのスピード!!
コールもっといけぇ!!」
(……完全に遊んでるな)
コールは内心そう思いながらも、
推進力を落とさずに航路へ向かっていった。
――――
船ではほのぼのと、シャドーズたちは釣りをしていたが、
一斉に同じ方向を見る。
「……なに、あれ……?」
リネアが竿を持ったまま固まっている。
シャドーズたちもピタリと動きを止め、
同じ方向を一斉に向く。
波が真っ二つに割れ――
「おーーーい!!」
サメに乗ったリュカが、
片手をぶんぶん振りながら登場した。
「……リュカ!? 何やってるの!?」
シアは目を丸くして、完全に硬直した。
「サメ……?」
「サメ、だな……」
ネラとリネアも目を丸くしている。
シャドーズたちは無表情だが、
“ざわ…”と空気だけが騒ついた。
「見ろ! でっけぇサメだぞ!! 今日の夕飯豪華だ!!」
リュカは得意げにサメの背の上で胸を張っている。
シャドーズたちは無言でロープとフックを持ってきて、
手際よくサメの頭部へ引っかける。
全員で引っ張ると――
ずるずると巨大なサメが甲板へ引き上げられた。
ドンッ!
サメが甲板に寝転がった衝撃で、
船体がわずかに揺れる。
「おいしょっ……!」
リュカもサメから降りて甲板に足をついた瞬間――
「――っ!?」
崩れるように前のめりになった。
「大丈夫か!?」
ネラがすぐに抱き止める。
「リュカ!?」
シアも心配そうに声を上げた。
「……あれ、おかしいな……足……力入んね……」
リュカは自分の足を見て、
ふと、あることに気づく。
「あっ……(もしかして今日来るのか?)」
ゆっくり顔を上げる。
視線の先、シアと目が合った。
「…………」
「…………」
シア、最初は心配で眉を寄せていたが――
(なるほど……)
という顔をした。
リュカはニヤァァ……と悪戯に笑う。
「なんだよ、心配したか?」
「……してないです」
即答したが、耳が赤い。
その時、海からコールがゆっくり船縁へ上がってきた。
ずぶ濡れになった体から水が滴り落ちる。
「ふぃ〜……大漁大漁」
だが――甲板に落ちる海水に赤色が混じっていた。
「……あれ? ……ナイル、腕……!」
リネアが指差した先、
コールの右腕から血が流れ、
肩から滴り落ちていた。
「ん? あぁ、知らねぇうちに引っかけてたか……」
気楽に言いながら見ようとするが――
「――コール様!!」
一番に駆け寄ったのはシアだった。
気まずさも、昨日の涙も忘れたように、
ただ必死な顔だった。
「血が……! 早く座ってください!!
あの、タオル、薬箱……! リネアさん、取ってきて!!」
「は、はいっ!」
シアはコールの腕をそっと支え、
袖をめくって傷を確認する。
「深くないですけど……ちゃんと処置しないと……」
声が震えていた。
コールはそんなシアの横顔を見つめ、
胸の奥がふっと暖かくなる。
(……いつも一番に心配してくれるんだよな)
昨日のことを思い出し、
ほんの少しだけ切ない温かさが胸に広がった。
「……ありがとな、シア」
そう言って、
コールはシアの頭を優しく撫でた。
「っ……」
シアは一瞬だけ目を丸くし、
そのあと、ほんのり頬を赤くした。
――夜、イルクアスター。
甲板には、巨大なサメの骨だけが残っていた。
月明かりに照らされ、白い骨が風に揺れる。
静かな夜――のはずだった。
その時。
メキ……メキメキ……ッ!
船内の奥から、木が裂けるような、
骨が伸びるような音が響いた。
続いて――
グルルルル……ッ!!
獣が喉を鳴らすみたいな低い咆哮。
「……っ!」
コールは反射的に立ち上がり、
剣を手にその方向へ駆け出した。
廊下の奥、音のする方はリュカとシアの部屋。
扉の向こうから、また――
バキッ! メキィッ!
「リュカ!? シア!!」
コールが扉に手をかけた瞬間――
バン!
扉の隙間からシアの細い腕が伸び、
内側から押し止めた。
「コ、コール様っ……! 平気です!!」
シアの声は震えていたが、
必死に言葉を押し出す。
「開けないでください!!
だ、だいじょうぶですから……!!」
「でも中で――」
「だいじょうぶっ……!
これは……わたしたちの……
“成長の音”なので……!」
「成長?」
また――
メキメキメキッ……!
「グルル……ッ!! いてっぇえエエエエッ!!!」
扉の向こうから、獣の息づかいが響く。
シアは歯を食いしばって扉を押さえ続けた。
「おねがいです……っ
今だけは、絶対……開けないで……!」
その必死な気配に、
コールは剣を下ろすことしかできなかった。
静かな夜の船に、
獣の成長を告げる音だけが――
長く、長く響き続けた。




