第137話:釣り糸が結ぶ距離
海の音が静かにひびいている。
甲板ではシャドーズたちが並んで座り、
それぞれ同じ形の釣り竿を海に垂らしていた。
私はその横で、影の一人に
釣りを教わっていた。
「えっと……こう?」
影は無言で首をかしげ、
私の手首を軽く押して角度を直す。
「……むずかしいよ……」
でも、教えてくれる手つきは優しい。
すこしナイルに似てる気がした。
(……シアにも、見せたいな)
さっき、シアが甲板へ出てきたのに
すぐにコールを見て逃げたのを思い出す。
胸が痛くなる。
(本当は…シアとも、仲良くなりたい…)
コールがナイルだった時のことがあるから
気まずさもあるし、シアが不安になる気持ちも分かる。
でもだから――
自分から歩きたいと思った。
勇気を振り絞って、
私は小さなバケツを持ってシアの元へ向かった。
深呼吸をして…。
(大丈夫、大丈夫……)
拳をぎゅっと握り――
「……シア。
一緒に……釣り、しない?」
沈黙。
しばらくして、小さな声が返る。
「……今は……いい、です」
胸の中が少しきつくなった。
(そっか……でも)
「わ、わたし……シアと仲良く――」
「無理です」
食い気味に返された。
揺れる空気が刺さるほど痛い。
「……わたし、今……誰とも話せません」
震える声。
拒絶。
けれどそれが、
私じゃなくてもきっと誰に対しても同じなんだと分かる。
(……それでも、痛いな…)
「……ごめんなさい…
邪魔、しました…」
私は頭を下げて、
そっと離れた。
一瞬シアは見てくれた気がしたけど、何も言わなかった。
甲板の端へ戻る道、
胸の奥がざわざわして、
海風が少しだけ冷たかった。
そのとき――
「……断られたか」
声音は静かで、揺れない。
振り向くと、ネラが立っていた。
風で揺れる黒髪。
里では見せなかった……優しい顔のお姉ちゃん。
「お姉ちゃん…」
「シア……あの子は、まだ泣いたばかりだ。
お前が悪いわけではない」
私の頭を撫でて、竿を持っている。
「……行こう。釣りを続けるぞ」
「……でも……シアが……」
「いい。今は近づけば逆にこじれる」
ネラははっきりと言い切る。
その冷静さが、
なんだか胸にしみた。
「……それに」
ネラはふっと目を伏せる。
「お前が“歩いた”という事実を、あの子は後で必ず思い返す。
時間を置けば……その一歩は、きっと届く」
「うん…」
ーーーー
「わ!? すごい重い!……お姉ちゃん助けて!?」
リネアの隣に座って、ネラはその様子を見守りながら自分も釣り糸を垂らしていた。
しかし、無の境地に入りすぎてまったく気づいていない。
「…もう少し…ここか…」
ネラは釣りにドハマりしていた…。
「お、お姉ちゃん?……ッあ!?」
プツン
釣り竿の糸が切れて、リネアは後ろに倒れた‥。
その時――涙の跡が残る目で、
シアがこちらをちらっと見ていた。
強がるように袖で目を拭いながら。
「……釣り……下手なんですよ、リネアさん……」
シアは鼻をすする。
「糸の結び方、分かりますか?」
「ううん…わからない…」
「なら竿かして、結んであげます」
「シア…ありがとう!」
シャドーズたちは
まるでこの瞬間を待っていたみたいに
竿をもう一本持ってきて、リネアの隣にセットした。
シアが少しだけ笑った。
「……ほんと、不思議な船ですよね……」
海風が柔らかく吹き、
距離がほんの少し縮まった。
ぎこちないけれど――
それでも、前よりはずっと近かった。
ーーーー
潮風に揺れる甲板を見下ろしながら、
俺は舵のそばで腕を組んでいた。
リネアとシアが並んで釣りをしている。
距離はまだぎこちないが……最初よりずっと自然だ。
(……よくやったな、リネア)
そんなふうに眺めていると――
「へぇ、うまくやってるじゃん?」
背後からひょいと顔を出してきたのはリュカだった。
「……お前は釣りに行かないのか?」
「釣り嫌いなんだよ。
じっとしてて面白くないし、待つのも性に合わねぇ」
「たしかにな……」
俺は少しだけ笑い、
海面のきらめきを見た。
「潜るけど、来るか?」
「お?釣りよりは楽しそうだな!」
リュカは耳をぴくっと立てて、
まるで待ってましたと言わんばかりにニヤッとした。
「よし、行くか」
「おう!」
舵から離れ、
陽の差す青い海へ向かって歩き出した。
ーーーーー
海面は陽光を反射して揺れ、
深い蒼がどこまでも広がっていた。
「お、飛び込むのか? 楽しみだな!」
リュカはもうワクワクした顔で、
髪を後ろでまとめる。
「お前、釣りのときより明らかに生き生きしてねぇか?」
「当たり前だろ。海だぞ?
しかも潜るんだぞ? 動いてなんぼだ」
「はいはい」
俺も装備を最低限まで外し、
腰の剣だけは抜かずに握った。
この剣は――
水中でも、刃先を向けた方向へ
爆発的な瞬発力で推進できる。
「準備できたか?」
「いつでも行ける!」
リュカは躊躇なく柵に足をかけ、
軽い動きで回転しながら、海へ身を投げた。
しぶきが白く跳ねる。
「……元気だな、ほんと」
俺も剣を握ったまま飛び込む。
海水が全身を包み、
一瞬だけ世界が青の静寂に変わる。
頭を水面から出したとき――
「コール! ここ、ここ!」
すでにリュカは数メートル先で泳ぎながら手を振っていた。
「そんなに離れるな、行くぞ――ほら掴まれ」
「へ?」
俺は片手を差し出し、
リュカが迷いなくそれを掴む。
指が絡むというより、
“相棒として”手を合わせる強い握り。
「じゃあ、しっかり掴んどけよ」
「お、おう?……って、そんな本気の顔すんなよ」
「加速するぞ」
剣先を水中の前方に向け、
心臓の鼓動を落ち着かせ、呼吸を整え――
力を込めた瞬間。
――ドンッ!
海中が弾けるように水が押しのけられ、
俺たちは矢のように前へ射出された。
「っっはは!! はえぇぇ!!」
リュカが叫んでいる声が、
海のなかで泡に溶けながら届く。
まるで空を飛んでいるような速度。
海藻が横に流れ、
魚たちが一斉に散っていく。
水圧が頬に鋭く当たるが――
その分だけ世界が鮮明で、冷たい。
(……いいリフレッシュになるかもしれないな)
甲板での気まずさや、昨日の涙。
あれこれ抱えた陰りが、
海の深さに飲み込まれていくようだった。
「コール! 次、あの岩場行こうぜ!」
指さす先の巨大な磯は、
海底からゆっくりと隆起している影。
「分かった、掴んでろ――行くぞ!」
二人の影は青い海を切り裂き、
その岩場へと流星のように向かっていった――。
海中を滑るように進むと、
巨大な岩場が影を落としている場所へ近づいた。
水面へ顔を出すと、
岩肌がゴツゴツとそびえ、海鳥の鳴き声が聞こえる。
「ついたなー! よしよし……ここなら魚もデカいのいそうじゃねぇか?」
リュカはもう完全にスイッチが入っていて、
海水をぱしゃぱしゃ払いながら周囲を観察していた。
「お前、ほんと遊ぶときの集中力すごいな……」
「魚がでかい=食材がでかい=嬉しい、だろ?」
「いやまぁ、間違っちゃないけどな」
リュカはニヤッと笑って、
ぴしっと指を突きつけてくる。
「よし、勝負だコール!」
「は?」
「どっちがでっけぇのを一本、先に仕留めるか。
魚でも、貝でも、なんでもいい! デカいほうの勝ち!」
「……お前、狩りじゃなくてただの遊びじゃ」
「お? 負けるのが怖ぇんだろ〜?」
挑発。
耳はピンと立ち、尻尾こそ見えないが完全に勝負モード。
(……まぁ気晴らしにはいいか)
「分かった分かった。やればいいんだろ」
「あはは! よし、やるぞ!」
リュカは水に潜ろうとしたが、
その手を俺が掴む。
「ちょっと待て」
「んあ? 何だよ?」
俺は腰のポーチから一つの道具を取り出した。
小型のコンパス。
ゴーグルの忘れ形見だ。
リュカは首をかしげる。
「なにそれ?」
俺は小さく魔力を流す。
針が、俺の持っている本体の方向に向いて止まった。
「離れても位置が分かる。
お前、テンション上がるとすぐどっか行くからな」
「へぇ……すげぇなこれ」
リュカの首にコンパスをかけさせると、
少し照れたように鼻を鳴らす。
「……なんだよ」
「いや……心配されるのも悪くねぇなって思って…」
「別に心配じゃねぇよ。
お前が迷って昼飯食いそびれるだけだからだ」
「そうかよ〜だ……。それじゃやろうぜ、でかいの取ったほうが勝ち!
負けたほうは……なんかあるか?」
「考えてなかったな……」
「じゃあ後で決める! じゃ、いっくぞー!」
「おい、まだ合図――」
リュカはすでに潜っていた。
小さな泡が尾を引き、岩陰へ消えていく。
「……ほんと、落ち着きがねぇな」
苦笑しつつ、
俺も剣を握りなおした。
「よし……勝負、受けて立つか」
海面へ静かに潜り――
青の世界へ身を沈めた。




