第135話:不器用
朝日が海面を照らし、
イルクアスターは静かに海上に浮かんでいた。
ここ暫く飛ばせ続けていたから、船を休ませるために。
帆は畳まれ、
船体はゆるく波に揺れる。
シャドーズたちは全員、
同じ形の釣り竿を何処からか取り出し、
一斉に甲板に座って海に糸を垂らしていた。
喋りはしないが、
影の形で“のんびり”を表しているのがわかる。
(……魚釣りかよお前ら……
まぁ、補給にはちょうどいいけどな)
俺は舵の上で地図を見ながら、
彼らの静かな遊びを横目で見ていた。
そこへ――
ギィ……と船室の扉が少し開く。
シアがそっと顔を出した。
昨日泣き続けたせいか、
目元が少し赤い。
(……出てきたか……)
シアはシャドーズの横をゆっくり歩き、外に出てくる。
けれど――
ふと、舵の上の俺と目が合った。
「……」
次の一瞬、
シアはさっと目をそらし、
船首の帆柱の陰に
小動物みたいにすっと隠れた。
まるで俺を避けるように。
(……まぁ、そうなる……よな)
分かってても……、
胸の奥が、きゅっと痛む。
しばらくすると、
リュカも船室から出てきて、
シアの消えた方向を見て眉をひそめた。
そしてそのまま俺のところへ一直線に歩いてきた。
腕組みして、じろっと睨む。
「……なぁコール」
「ん?」
リュカはため息をついた。
「……お前……何した?」
声は怒ってない。
でも“心底心配してる”のが丸わかりの言い方だった。
「なんもしてねぇよ」
「じゃあなんでシアがあんな顔してんだよ」
「……ちょっと……話しただけだ」
「その“ちょっと”が問題なんだろ?」
リュカが珍しく勘繰りをしながら、問い詰めてきた。
だがやっぱりいつもどおり、感情が剥き出しになった。
「昨日シア、部屋でずっと泣いてたんだぞ!
声かけても反応しないし……
“シア、大丈夫?”って言ったら
毛布に顔突っ込んで震えてたしな!!」
言いながら、
リュカは俺に詰め寄り、今にも殴りかかりそうな勢いだ。
「……シアがあんなになるの、見たことねぇよ……
お前が傷つけるわけないのはわかってる……
でも……ほんとに……どうしたんだよ……」
信じる気持ちと、
不安と怒りが全部混じってる声。
正直、俺はどうしたらいいか……考えがどん詰まりを起こしていた……。
だから今は、リュカにさえ『甘え』るしか選択肢がなかった……。
「……降りてきたら、あとで俺の部屋に来てくれ……おまえだけでな」
「……わかった」
リュカは不満そうに、しかし承諾して俯いた。
(なんでこう……はぁ……)
心の中でそう呟き、舵の横から降りる。
そのタイミングで――
リネアが、顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「ナイル! おはよう……今日もいい天気だね……」
その声は無邪気で、
昨夜の重苦しい空気とは対照的だった。
だが俺は、
今この子の笑顔に返すべき言葉を
うまく選ぶことができなかった。
「…………」
声を返す代わりに、
リネアの頭に軽く手を置く。
それだけ。
ほんの一瞬だけ触れて、
そのまま何も言わずに横をすり抜ける。
リネアは
「……あれ……?」
と不安そうに瞬きをしたが――
俺はもう足を止めることができなかった。
(……ごめんな、リネア。
今は……お前に応える余裕がねぇ)
手前の帆柱の前に立つ。
ロープを掴み、
滑車の位置を確認する。
「……はぁ……」
息をひとつ吐き、
ロープを強く握る。
次の瞬間――
ヒュッ!
滑車が勢いよく上がり、
俺の体は一気に見張り台へ引き上げられた。
甲板がすっと遠ざかり、
海と空だけの場所に出る。
見張り台に着地した。
ひゅう、と潮風が吹き抜け――
その風に混じるように、微かに衣擦れの音がした。
目を向けると、
柱の影で腰掛ける長身の影があった。
ネラだった。
腕を組んで空を眺め、
まるで石像のように微動だにしない。
俺が上がってきても振り向かず、
ただひと言だけ、低く落とす。
「……おはよう」
その声は、静かでここちいい。
不思議な落ち着きを持っていた。
「……はぁ、おはよ」
俺はため息をついて、見張り台の壁に腰を預け座り込んだ。
そんな俺を横目で、淡々とした表情でネラは観察している。
ネラは俺が生き返って、いなくなった影のゴーグルの代わりに見張り役を買って出てくれている。
「どうした……?」
「なんでもねぇ……風に当たりに来ただけだ……」
「そうか……」
その返事も淡々としている。
だが――ただの相槌ではない。
(知ってんな? こいつ……)
俺は俯き、膝に肘を乗せる。
しばらくして、
ネラがふいに言った。
「覚えているか?」
「……なにをだよ」
ネラはゆっくりと目線をこちらへ向ける。
その瞳は静かで、揺れない。
怒りも情も見えないのに、
妙に重さがあった。
「妹を泣かせたら……ただではおかないと言った時のことだ」
背筋が、静かに冷える。
ネラの声は低く淡々としているのに、
言葉がまるで刃のようだ。
「リネアは泣かせてねぇよ」
「……あぁ。リネアはな」
ここで、ようやくネラが
はっきり俺の目を見た。
その一瞬だけ、冷たい風より鋭い。
「だが……“他の子”を泣かせるのも、感心できない」
胸の奥が鈍く刺さった。
ネラは何も言わず、また空へ視線を戻した。
けれど――
その“沈黙”が言葉より重い。
(……やっぱ……見てたな)
俺がシアを抱きしめて、
泣かせて、
傷つけたところまで。
全部。
潮風が吹くたび、
ネラの黒髪が揺れる。
その横顔は、無表情――
だけど“失望”でも“怒り”でもない。
ただ、事実を確認するような、
静かな姉の表情だった。
「……見てたのか」
「見張り台は……上からよく見える」
当たり前のように返す。
感情はない。
だが、誤魔化しもない。
「あの子は……泣いて、走っていったな」
「……あぁ」
「お前が追わなかったのも……見た」
その言い方は、
「責めている」のではなく、「俺が逃げた」――
ただその事実だけを、指摘している。
だからこそ、胸に刺さる。
ネラは、少しだけ視線を落とした。
「……妹が泣くのも……好きではない」
「わかってる」
「だが、シアが泣くのも……好きではない」
その言葉に、俺は顔を上げた。
ネラは目を細めて海を見たまま続ける。
「……で。どうする?」
言い方は淡泊。
だけどその一言には、
“逃げるな”
“向き合え”
そんな姉としての強さがあった。
俺は息を吸い、吐いた。
「……どうにかするさ」
「そうか」
ネラはそれだけ言い、
またゆっくり空を見上げた。
見張り台の上を、風が抜けていく。
下ではシャドーズたちが変わらず釣り糸を垂らし、
帆柱の影には、今もシアが丸くなっている。
しばし沈黙のあと、
俺はネラの横顔を見て、ぽつりとこぼした。
「俺のことより……」
「?」
「せっかくお前も、故郷のしがらみから抜け出せたのに、
なんでリネアと遊んでやらねぇんだよ?」
ネラの肩が、わずかに揺れた。
睫毛がひくりと震える。
故郷――
ウッドエルフの森。
“忌み子”と呼ばれた妹。
守るために、突き放すしかなかった日々。
その全部が、一瞬で背中に蘇ったようだった。
「リネアはお前と居たがっている。邪魔はしない…」
言葉は淡々としているが、
ほんの僅かに、声の端が硬い。
「都合のいい言い方だな?」
思わずそう返すと、
ネラは目を細めて、小さく息を吐いた。
「……事実だ」
短く、刺すように。
だが、その『事実』の裏側に、
長い時間積もった負い目と、
“今さら何を言えばいいのか分からない”不器用さが滲んでいた。
俺は立ち上がり、見張り台の縁に手をかける。
「それはそれだ。
この船にはリネアを忌み子なんて言うやつは居ない。
だから、“お前もちゃんと向き合って”やれ」
ネラの瞳が、かすかに揺れた。
リネアに向かって、
優しい言葉をかけてやれなかった年月。
守るために、厳しくするしかなかった時間。
その全部が、喉につかえる。
「……余計な、世話だ……」
ぽつりと、視線をそらしながら言う。
それは拒絶の言葉だったが――
ほんの少しだけ、救われたような響きも混じっていた。
「お互い様だ」
そう返して、俺はロープを掴んだ。
潮風がまた吹く。
海は静かで、空は高い。
ネラはその背中を、なにも言わず見送っていた。
妹に向き合えと言われた姉と、
仲間に向き合えと言われた船長。
見張り台には、
ふたりの“不器用さ”だけが、静かに残っていた。




