第134話:壊れた言葉
夜の甲板は冷たく、
星の光だけが静かに船を照らしていた。
シアはしばらく黙ったまま、
風に髪を揺らしていた。
その沈黙は気まずさではない。
ただ――痛みと優しさが混じった沈黙。
やがて、シアがぽつりとこぼす。
「……ごめんなさい……
起こしてしまって……」
「起きてねぇよ。大丈夫だ」
「でも……リネアが、いました……」
苦しげな声。
自分を責める声。
俺はシアの方に向きを直して、まっすぐに彼女を見た。
「……シア」
シアが顔を上げる。
その瞳には、焦りと不安が入り混じっていた。
「どうした?…… らしくないぞ?」
シアの目が大きく開く。
「コール様は……リネアを……」
そこで言葉は止まった…。
「…」
「はぁ…」
分かってる……言いたいことは……。
でもだから、なおのこと嘘はつけない。
「リネアは……すこし、特別だな。それは事実だ」
シアの耳が立ち、
すがるような表情で俺の目を見つめる。
「……けど、お前だって俺には特別なんだぞ?」
シアの瞳が揺れ、
夜風にかき消されるほど小さく息を吸った。
「……ほんと……?」
「当たり前だ。
お前がいなくなったら……困る」
子ども扱いではない。
慰めでもない。
俺が感じてる本心を直接言葉にした。
「……コール様……」
「ほら、泣くな。冷えるぞ」
「泣いてない……」
そう言いながら、
シアの声は震えていた。
俺はそっと、シアの頭に手を置いた。
(……この人は……ずるい……
でも……離れられない……
こんな優しさで触れられたら……)
ーーーーー
だが……。
コールが優しく手を置いたことで、
堰が外れたように口を開いてしまう。
「……ねぇ、コール様……」
「ん?」
自分の声が震えてた。
「私たちのこと……どう思ってるの……?」
“私たち”
リュカと自分――
そしてリネアをどう思っているのか、ちゃんと聞きたかった……。
彼は少し目を細めた。
今言った言葉のほんとうの意味を理解している顔。
でも出てくる言葉はちがう……。
「どう、って言われても……大事だよ。全部」
「……それじゃ……わからない……」
首を振った。
ちがう。私が聞きたいのはそんな、誰もきづつけないで済む言葉じゃない。
胸に溜まった重さが止まらない。
「リュカは……家族?
私も……家族?
でもリネアは……違うんでしょ?」
彼は一瞬だけ視線をそらした。
答えを探しているというより、“簡単に言い切れない”そんな感情がそこにある。
「リネアは……あいつだって……」
シアはその沈黙だけで理解してしまった。
「……やっぱり……リネアは……特別なんですね……」
「……ナイルだった頃のことがある。……うまく言葉にはできない……」
苦しいほど正直な答え。
だからこそ、シアの胸に刺さる。
シアは次の言葉を搾り出す。
「……じゃあ……
エレナさんのことは……?」
その言葉に彼は少し身を固くした。
「……な、なんでそこでエレナが出てくる……」
「だって……!
コール様……あの人のこと……
……気づいてないとでも思ったの……?」
声に熱が混じった。
自分でも止められない。
「好きなんでしょ……エレナさんのこと……?」
「いや……好きって言うか……
綺麗だとは……思うけどな……」
言葉を選んでいる。
本音を避けている。
本当は――“エレナに恋をしている”
でも、この人は言葉にしない……できないのかもしれない。
だけど……その曖昧さに胸がひりついた。
(……ずるい……そんな言い方)
小さく息を吸い、涙をこらえて言う。
「……コール様は……ずるい……」
その言葉は、彼に向けた初めての“拒絶”だった。
「ずるいし……かっこいいし……
好き……です……
でも……いまはその“ずるさ”が……」
言葉が出るたびに胸の奥が刺されるように痛い。
つながる度に痛みは増していく……。
そして……言ってしまった……。
「嫌い……」
瞬間、自身が目を見開いた。
「……っ……わ、わたし……
なに……言って……」
手で口を押さえる。
自分の言葉に自分が驚いている。
そんな事言うつもりもなかった……言いたくもないのに……。
彼の目が開かれ、月に照らされて揺れた。
初めて見る顔……だった……。
甲板に、風だけが吹き抜ける。
涙が溢れた。
夜風に揺れ、初めて“コール様”を正面から拒絶した……。
……自分でもどうしていいかわからず立ち尽くしていた。
ーーーー
シアは静かに涙を流し後ずさる。
「……ごめ……私、こんなこと……」
踵を返して逃げるように船室へ戻ろうとする。
だが――
「シア…」
シアの腕をそっと、しかし掴んだ。
そのまま俺はシアを抱きしめた。
「ごめんな、シア……」
シアの抱える痛みは、すべて理解できるなんて自惚れちゃいない……。
でも、いつも俺のために動いているこの子を苦しめているのは俺だというのは十二分に理解できる……。
「わかってる。全部わかってる。
けどな……やっぱりお前らは俺にとって――“家族”なんだよ」
「…………」
「妹みたいで……下手すりゃ、娘みたいに思えて……
どうしても……そういう目では見れねぇんだ」
シアが腕の中で縮こまるのを感じる。
こわばる小さな体、震えて……どうしようもない思い……、
それがズキズキと心の奥に刺さっていくのがわかる……。
「……家族……妹……
そんな……」
弱く小さな声が中から聞こえ、シアは腕からそっと抜け、
距離を取る。
そして震える指で自分の服の胸もとに触れ――
肩を見せようとする。
「……これでも……ですか……?」
弱く、泣きそうな声。
“女として見てほしい”という
必死の悲鳴だった。
「シアッ――!」
俺はすぐに駆け寄り、
服をそっと引き戻して整えた。
「やめろ……こんなこと……。
そんな真似しなくていい……」
「なんで……?
どうしてダメなの……?
私が……獣族だから……?」
シアの涙がぽろぽろと落ちる。
「ちがう!」
思わず声を張った。
驚いたシアが顔を上げる。
「さっきも言っただろ。
お前は……妹みたいなんだよ……
種族とかの話じゃねぇ。
俺の中で……“守る存在”なんだ」
「……でも……私は……もう大人です……
村でも、一族でも……
もう子ども扱いされる年じゃない……!」
シアは泣きながら訴えるように言った。
震える声には僅かな力がこもっていた……。
「だからって……そういうことじゃねぇんだよ、シア……」
突然のシアの行動で、思考が乱されてペースがなくなった。
(ごめん……シア。
おまえがどれくらい思ってくれてるかはわかるんだ……
だけど、それでも……)
「はぁ……俺の故郷じゃ……
お前くらいの年は……まだ子供なんだ」
「…………」
「ここでは違うのはわかってる。
でも……頭がついてこねぇんだよ。
あの時お前を助けた時のまんま……
“守る対象”のまま固まってんだ……」
シアは唇を噛む。
涙の跡がきらりと光った。
(……私は……女として見てほしいのに……
この人の中では……ずっと……子どものまま……)
「……シア」
震える方にそっと触れた。
乱れた思考を落ち着かせて、ちゃんと伝えないと……。
そうしなきゃ……シアは……。
嘘はだめだ……でも、期待させるのもダメだ……結局嘘になるから……。
だから……事実を言うしかない……。
「俺は……お前を否定したいわけじゃない。
ただ……
“そういう目で見てほしい”って言われても……
どうしたってできねぇんだ」
でもそんな言葉から耳を塞ぐように。
シアは震える声で、
それでも正面から言った。
「……コール様……私は……あなたを……
一人の“男として”好きなんです……」
その告白が、
二人の間に強い風のように吹いた。
俺は一度目を逸らした……。
真っ直ぐできれいな彼女の瞳を見ることはできないから……。
そして――胸の奥が痛むのをはっきりと感じながら、
苦く、しかし真剣に答えた。
「……だからこそ……お前を傷つけたくねぇ。
こういう距離を……俺は守らなきゃいけねぇんだよ」
シアの目から、
静かに涙が落ちた。
「……ずるい……
そんなの……ずるいです……」
シアの頬を涙が伝い落ちる。
シアは嗚咽をこらえながら、
目を背ける俺を見上げた。
その目には、
痛みと焦りと、
“どうしようもない恋”が混ざり合っていた。
「……シア。
お前は……一番おれのことを見てくれてる。
だから……わかるだろ?」
たしかにシアは子供だが、頭が良い……。
獣族の村に帰った時、病み上がりでの状態でも自分とリュカの状況をしっかりと理解して、俺と来ることを願った……。
そんな賢いシアなら……、
分かってくれる……。
……そんな甘い考えが余計に彼女を傷つけた。
「……っ……!」
シアはその手を――
初めて、払った。
勢いよく。
「知りません!!」
パン、と乾いた音が夜に響いた。
シアの目から、新しい涙が溢れる。
「わかるわけない!!
私が知ってるコール様は……
私が見てきたコール様だけ!!」
シアの胸の内が、破れたように叫ぶ。
「ナイルの頃なんて……知らない!!
リネアと暮らしてた時、どんな思いだったのかも……知らない!!
“妹”って思ってるって言われても……
そんなの……!」
シアは握った拳を胸に当て、震えながら続けた。
「唯一知ってるコール様の“過去”なんて……
シャンディさんのことだけ……!!
ほんとのあなたが、どんな風に生きて、笑って、
どれだけ苦しんで……どれだけ悲しんで……
どんな世界で生きてきたかなんて……
私……なにも……!!」
言葉が詰まり、ひくひくと息が乱れる。
「ほんとのコール様のことなんて……
なにもわかってない……!!」
その言葉は、
シアが今まで絶対に言わなかった種類の言葉だった。
「…だから!…」
自分で自分の胸に刃を突き立てるような、
苦しい本音。
シアは唇を噛みしめ、目を閉じた。
「“わかるだろ”なんて……言わないでください……」
シアの言葉が、本当に体に突き刺さったように。
俺の中に入ってきた……。
追い詰めたかったわけじゃない。
でも俺の言葉は……彼女に『頼った』ものだった……。
俺のせいだ……。
シアにとってその一言は――
耐えられないほど残酷だった。
風の音に紛れ、
シアの震える声が落ちた。
「……私は……
あなたの過去なんて知らない……
でも……いまのコール様だけは……
ちゃんと……見てきたつもりだったんです……」
涙がぽたぽた落ちる。
「なのに……
いまの言葉で……
その“つもり”すら……壊れました……」
一歩も動けなかった。
(……こんなふうにシアが泣くなんて……
俺は………)
胸が痛む。
ただ、痛むしかなかった…。
「ッ…」
シアは泣きながら船室へ走り去り、
甲板には俺だけ残された。
止める資格なんて……もう俺にはなかった……。
しばらく俯いたまま、
拳をゆっくり握った。
「……くそ……」
自分への怒りが、
外に漏れた。
(俺は……ほんとに、バカだ……
あんな言い方しかできねぇなんて……
シアの気持ちを……ちゃんと考えてあげなきゃいけないのは、俺だろ?!)
シアが泣いた理由も、
叫んだ言葉も、
全部わかっている。
“自分は何も知らない”
“家族と言われて傷ついた”
“リネアとの差”
“エレナの存在”
全部だ。
全部わかっていながら、
自分が望む、守るためにしか…言葉を選べなかった。
そして…『頼った』……。
(……あいつは……
俺を“男として”見てるんだ……
それがどれだけ苦しい想いか………)
風が髪を揺らす。
長い沈黙のあと、
静かに空を見上げた。
「……なのに……
俺には……あいつが“まだ子ども”にしか見えねぇよ……」
言葉は苦かった。
ひどく苦くて、自分がどうしようもなく乾き切った人間に思えるほど。
(シアが大人なのはわかってる…。
戦えて…人を癒して、料理だって何だってできる。
俺よりずっと真っ直ぐで、ずっと優しい……)
でも。
あいつを初めて見たときの姿が……
頭から離れねぇ……。
リュカと共に鎖に繋がれ、
病におかされ、死を待つだけの少女。
その時感じた
「守らなきゃ」という衝動は、
いまだに消えない。
(……だから……
“女”として向き合うなんて……できねぇんだ……)
ゆっくり息を吐き、
強く瞼を閉じた。
「……ごめんな、シア……
ほんと、俺は……どうしようもねぇ野郎だな……」
夜風が吹く。
誰もいない甲板で、
ひとり、胸に痛みを抱え続けた。
その痛みは
シアの涙を染み込ませた自分への怒り、
深く、重く、静かなものだった。




