第133話:揺れる距離
板で補修されたイルクアスターは、
まるで何事もなかったかのように空を進んでいた。
帆はいつものように風をはらみ、
影たちは規則正しく持ち場を動いている。
――だが、“いつもどおりではない”ものがあった。
「…リネア?」
「なに?…」
「操縦しにくいから、少し離れてくれないか?」
「ここがいい…邪魔?」
「いや…そこまで」
「なら…ここがいい…」
どこに行っても、すぐそばにいる。
風を浴びるときも、
食糧の確認に行くときも、
工具を整えるときも――
視界の端には、必ずリネアがいた。
「リネア、そんなにくっつくな。作業しにくい」
「……だって……置いていかれたら困るから……」
「置いてかねぇよ」
ため息をつくと、
リネアはにへ、と少し笑う。
(……俺がナイルの時もこうだったが……いや……もっと……近いな……)
その様子を、甲板の陰からじっと見ている影があった。
シアだ。
抱えたモップの柄が、ぎゅっとしなる。
(……なんで……そんな近く……
私だって……抱きつく時はあるけど……
いつもコール様の仕事の邪魔にならないように、
一歩引いて……見てるのに……)
胸の奥がきゅっと締まった。
全てはコールのため……“気をつかう”ことが当たり前だった彼女は、
コールが操縦しているときも、必ず一歩下がる。
コールに甘えるときも、
子どもをあやすように頭を撫でられ……、
それが今はそれが嬉しいような、寂しいような気がして――
(リネアは……本当に気持ちのまま……真ん中に入っていく……
ずるい……)
そんな胸の奥の揺れに、リュカが後ろから気づいた。
「……シア……目が笑ってねぇぞ」
「なにが〜……!」
「あぁ…いや、完全に据わってる」
「……っ……!」
シアはモップを抱え込んで、そっと顔をそむけた。
甲板中央では、コールが刃の確認をしていた。
リネアは隣で膝をつき、少し身を乗り出して覗き込む。
「コール……その剣……危なくない……?」
「危ねぇよ。刃物だぞ」
「じゃあ……もっと離してやって……」
「お前が離れろ」
そんなやり取りさえ、楽しげに響いた。
(……いいな……
なんでも言えて……
近くにいられて……
抱きついても怒られない……
私なんて、考えすぎて、いつも一歩後ろなのに……)
胸がちくりと痛む。
その時、リネアがコールの袖をつまんだ。
「……コール……」
「なんだ」
「……私、ちゃんと役に立つから……
だから……そばにいても……いい?」
コールは少しだけ驚いたように目を細め、
彼女の頭を軽く撫でた。
「勝手にしろ」
「うん!」
その光景を見て、
シアの心臓は、どくん、と跳ねた。
(……反則……そんなの……あんなの見せられたら……
私だって……コール様のそばに……)
風はいつもどおり、
船の揺れもいつもどおり。
けれど――
イルクアスターの空気だけは、
静かに、でも確かに変わり始めていた。
ーーーーー
舵を握り、隣のウィンスキーが地図を広げコールに見せている。
コールはコンパスを手に取り、
針の揺れをじっと覗き込んでいた。
「……ふむ。風のせいで東にずれてるな……」
そこへ、するりとリネアが近づく。
ほとんど迷いのない足取りで、
コールの真横に並び、同じように身を乗り出す。
「どれ……?」
リネアの顔は近い。
覗き込むというより、
コールに重なるようにして針を見ていた。
コールは特に気にも留めず、
針を軽く指先で弾きながら説明を続ける。
「ほら、この角度……」
「ほんとだ……ふわふわ動いてる……」
――シアは、その様子を少し離れたところで見ていた。
表情は優しい。
でも、胸の奥では別のものがぐつりと沈む。
(いい子だってわかってる……悪気もないのもわかってる……、
でも……)
リネアの肩がコールに触れそうな距離。
覗き込む角度も、距離感も、
全部、“シアは絶対にやらない距離の詰め方”だった。
(……ちょっとは……遠慮……ないのかな?)
そんな思いが、じわっと腹に溜まる。
とうとうシアは歩み寄り、
ふわりと微笑みながら、
しかし声に怒りはのせず“やんわりした刺”を混ぜた。
「……ねぇ、リネア」
「ん?」
「あなたがそれを見ても……わからないでしょ?」
静か。
でも確実に“線”を引く一言だった。
リネアがぱちぱちと瞬きをする。
「……だめ、だった……?」
悪気がない分、その問いがまっすぐ刺さる。
シアはふっと肩をすくめ、笑顔を崩さない。
「だめじゃないのよ。
ただ……コール様、今すごく集中してるの。
……ちょっと離れたほうがいいわよ?」
「邪魔」なんて一言も言っていない。
それなのに、その言葉には
シアらしい“やわらかい制止”があった。
リネアは一瞬迷ったようにコールを見る。
コールは気まずそうな顔をしたあと、視線をウィンスキーの地図に移す。
「……じゃあ……少し後ろで見る……」
リネアは少しだけ下がり、
シアは胸の奥に溜まった息をそっと吐いた。
(……ごめんね……リネア。
嫌いじゃないんだけど……
でも、これはちょっと……無理)
ーーーーー
リネアが一歩下がり、
シアが小さく息をついたその瞬間。
コールは、針を見ているふりをしながら、
ちらりと二人を横目で見た。
(……あぁ……また気を遣って下がったな、シア……
悪いことしたな……)
シアの痛みは、ずっとわかっている。
一歩引いてしまう癖も。
(……あいつは、気立てが良くて、いつも我慢して、控えて、笑って……
ほんと……胸が痛ぇぜ……)
だが、その視線の先にはリネアもいた。
袖をつまんで、
必死に距離を保とうとしている小さな背中。
(……リネアに“同じ距離”は無理だ。
ナイルとして生きた時間が……
あの子を二人のように見るのを邪魔してる……できねぇ……)
リュカとシアは、大切な家族。
守るべき存在。
救うべき子どもたち。
対してリネアは――
“ナイルとしての根っこ”が繋がっている唯一の少女。
それは切っても切れない。
(……シアを傷つけたくねぇ。
でもリネアを突き放すことは……それ以上にできねぇ……
ちくしょう……もっと俺も器用ならいいのによ……)
コールは大きく息を吐き、
コンパスを閉じた。
「……おい、お前ら」
二人ともぴくっと振り返る。
「仲悪ぃわけじゃねぇだろ?」
「ちがいます!」「ちがうよ?」
「ならいい」
コールはそこで、わずかに視線を落として言った。
「……無理すんなよ、シア」
小さく。
誰にも聞こえないように。
けれど、シアには確かに届いた。
「コール様……」
シアは一瞬だけ息を呑んだ。
(コール様……気づいて……る……
こんな気持ち……隠してるつもりなのに……)
そして同じように、
コールはリネアのほうにもそっと視線を向けた。
「……お前も。背中丸めんな。
前にいたきゃ前にいろ。
ただし……落ちんなよ?」
リネアの目に、ぱっと明るさが戻る。
「……うん……!」
シアの胸がちくりと痛む。
だがその痛みの中に、
「わかってくれている」という温もりがあった。
(……コール様……
あなたは……やっぱり……
ずるいほど優しい……)
風が三人の間を抜ける。
誰も泣かない。
誰も言わない。
ただ、それぞれの胸に違う痛みと温かさが渦巻いていた。
ーーーーー
薄暗い船長室。
月光が静かに差し込む。
扉がかすかに開き、
そこからシアの影がそっと覗いた。
「……コール様……?」
囁くような声。
胸の奥が苦しくて、眠れなかった。
そのとき。
ベッドに横たわるコールが、
まぶたをゆっくり開く。
「……シア……?」
気づいていた。
でも――
コールの視線はシアではなく、
自分にしっかり抱きついて眠るリネアに向かった。
(……おい……なんでリネアが……)
軽い驚きと、
“この体勢では動けない”という諦めが同時に走る。
だが、それ以上に――
扉の前で戸惑っているシアの表情が胸に刺さった。
(……来たのか、シア……
……泣きそうな顔してやがる……)
コールはゆっくり息を吐き、
リネアを起こさぬよう腕の位置を慎重にずらす。
しかし、リネアは無意識にぎゅっとしがみついてきた。
「……う……ん……」
寝言のような小さな声。
一瞬、シアの眉が僅かに揺れた。
コールは小さく頷き、
無言でシアに手のひらを向けた。
「(……待ってろ)」
声を出さず、口の動きだけで伝える。
シアは息を呑んで頷き返した。
コールは――
起こさぬように、
ゆっくり、ゆっくりとリネアの腕を外し、
まるで爆弾処理でもするような慎重さでベッドを抜け出した。
(……なんでお前はこう、無防備に潜り込んでくるんだよ……
でも……今はシアが優先だ)
毛布をそっとリネアに掛け直し、
扉の前のシアに静かに近づく。
「……行くぞ」
囁くような声。
シアは目を潤ませながら、
静かに頷いた。
そして二人は音を立てぬよう部屋を出て、
扉をそっと閉めた。




