第103話:夢が示す未来と、迷い
暗闇。
何もない、気配すらない空間。
そこで――世界が突然、赤く染まった。
目の前に広がったのは、燃えている街だった。
寺院の祈りの間。
子供たちが遊んでいた広場。
市場の匂い。
全部が――燃えている。
そして、その中心に“それ”がいた。
巨大な黒炎の人影。
形だけは人に似ているのに、
存在そのものが悲鳴を上げるような、あまりに異質な炎。
「……厄災……?」
口にした瞬間、景色が跳ねた。
街だけじゃない。
国が、森が、山が、大陸が――
全部、炎に呑まれていく。
空が赤い。
大地が黒い。
生き物の影が、どこにもない。
これは“今”ではなかった。
(そんな……)
理解するより早く、世界は音もなく崩れ――
次の瞬間、まったく別の光景が広がった。
「…?」
夕焼けの街道。
どこだか分からない。
けれど、胸が温かくなるような風が吹いていた。
「あれも食べてみたいな! ほら見て、すごく美味しそうよ!」
隣で手を引く少女がいた。
自分と変わらない年頃の、金髪の女の子。
瞳は陽だまりみたいに明るくて、
声は鈴みたいに透明で――
(……誰……?)
なのに、すぐに胸の奥が答えた。
「ルミナ! 早く早く!」
(とも……だち……?)
未来の光景だと分かった。
理由もなく、確信できた。
(きっと……この子と仲良くなれる……)
少女は笑って、
屋台の串焼きを二本、無邪気に掲げてくる。
「ほらルミナ、こっちこっち!」
(……名前、呼ばれた……?)
嬉しくて、くすぐったくて――
思わず手を伸ばした。
ふれた瞬間。
光景が、ゆっくりと溶けた。
ぼんやりとした光の霧の中に、ひとりの女性が立っていた。
白でも金でも銀でもない。
光を吸い込むような髪。
教本の挿絵とも大聖堂の彫像とも違う。
なのに、見た瞬間に心が震えた。
(……女神アーリア……?)
知らないはずなのに、
一目で“そうだ”と分かった。
女神は悲しそうに微笑んだ。
「ルミナ…」
呼ばれただけで胸が痛む。
「……ごめんなさい」
その言葉は、祈りのように静かで、
涙みたいに脆かった。
「コールにあなたを攫わせたのは……私です」
(っ……)
胸が凍った。
でも女神アーリアは続ける。
まるで耐えるように。
「彼を、恨まないで。
彼は……あなたを救うために動いただけ。
でも……『選ばせる時間』が、もうなかったのです」
「どう、して……?」
声は出ていないのに、問いが浮かび、
女神はまっすぐこちらを見る。
その瞳には――底のない悲しみと、決意と、優しさが全部あった。
「あなたの未来が……分かってしまったから」
アーリアの姿が光に細かく崩れ始める。
「ルミナ……どうか……生きて……」
手を伸ばすより早く、
光が世界を覆い――
――目が覚めた。
息が苦しい。胸が熱い。涙が頬を伝う。
夢だった、とは思えなかった。
ただの幻とは思えない。
確かに“見せられた”感覚だけが残っていた。
大陸を焼き尽くす厄災。
笑う金髪の少女――“リュリシア”。
そして女神アーリアの「ごめんなさい」。
(……どう、したら……)
震える指先を胸に当てる。
夢の光景が全部重すぎて、
呼吸の仕方すら思い出せなかった。
(……コールは……)
その名を思った瞬間、
胸の奥が、痛いほど熱くなった。
その名を思った瞬間、胸が締めつけられる。
そこへ――
カタン……
小さな足音。
振り向くと、
“黒い影”が立っていた。
丸い体。
黄色い瞳だけが、ぽうっと灯っている。
(……っ!?……)
怖いわけじゃない。
けれど、あまりに“異質で”、“静かで”。
現実感が追いつかなくて、声が出なかった。
影の船員は、しばらくこちらを見つめて――ゆっくり、胸元のポーチを探る。
「(ごそ、ごそ……。)」
そして、
小さく畳まれた白い布――ハンカチを差し出してきた。
言葉はない。
声も出せない。
ただ静かに、そっと。
その優しさに胸がきしむ。
「……あ、ありがとう……」
声が震えて、自分でも驚いた。
影の船員は小さく頷いたように見えた。
そして――扉へ向かう。
振り返って、
もう一度だけこちらを見てから、
ぺこり、と頭を下げて出ていった。
扉が閉じると、
急に静けさが押し寄せる。
ハンカチを握りしめる手が震える。
胸の奥には、夢の重さがまだこびりついている。
(……わたし、どうしたら……)
涙を拭っても、
答えは生まれない。
そのとき。
ギィ――
扉がゆっくり開いた。
逆光の中、
黒い外套を羽織った男が、片手をポケットに突っ込んだまま立っていた。
見た途端、胸が跳ねた。
声を出すより先に――
その男が低く言う。
「……起きてたか」
コールだった。
夢の残滓が、一気に現実へと引き戻される。
胸が熱くなる。
でも言葉は出ない。
(……どうして……あなたの顔を見ると……)
理由の分からない涙が、
また、こぼれそうになった。
ルミナの顔を見て、コールが最初に言った言葉はこれだった。
「……先に言っとくぞ」
足も止めず、壁に背を預けたまま腕を組む。
「謝る気はねぇ……。
恨みたきゃ、勝手に恨め」
あまりに淡々とした声音。
申し訳なさも、後悔も、一切ない。
ルミナの胸がびくりと震える。
だが彼女は何も言えない。
コールは続けた。
「お前を攫ったのは……そうするしかなかっただけだ。
理由がどうだとか、理解しろとかも言わねぇ」
言葉を吐き捨てるような口調。
まるで、誰よりも自分自身に向かって言っているような。
沈黙。
ルミナはやっと声を絞った。
「……私は……恨みません」
「そうか。勝手にしろ」
それだけ。
情緒も表情も動かさない冷たい返答。
だがそのあと――
ふいに、コールは話題を切り替えるように言った。
「ひとつ聞く。お前、家族は?」
ルミナは一瞬戸惑ってから、静かに答えた。
「……母は“めぐりの儀”で……還りました。
父は……存じません」
コールは短く鼻で笑った。
嘲りではなく、どこか噛み潰すような痛む音。
「……そうか」
その言い方は、まるで何かを確信したようで。
でも――
ルミナには、それが何なのか分からない。
ただ胸だけが、妙に熱くなっていた。
しばらくの沈黙のあと、両手を胸に寄せて、震える声で口を開いた。
「……あなたは、女神に言われたから……
私を、助けたのですか?」
その問いに、
コールの表情がわずかに――本当にわずかにだけ、動いた。
「……なんだそりゃ?」
低く、苛立ったような声。
「アーリア様が……夢の中で……
『コールがあなたを攫ったのは、私のせい』って……
言っていました」
コールは鼻で笑った。
「……アホくせぇ理由だ」
「え……?」
「きっかけは確かにな……」
コールは近くの壁に片手をつき、
正面に立つ。
怒りとも苛立ちともつかない、
どす黒い影が声に滲んでいた。
「俺は、使命だの命令で動くのは大嫌いだ」
ルミナの胸が小さく跳ねた。
「……じゃあ……どうして……?」
コールは答えず、長い沈黙が落ちた。
顔も見ないまま、乱暴に息を吐く。
そして――
「……助けたんじゃねぇよ」
「……え?」
「“助けたい”なんて立派な動機……俺にはねぇんだよ」
コールは視線を外し、
まるで言葉を吐き出すのを嫌がっているみたいに続きを搾り出す。
「お前が…アイツにそっくりだったんだ。瓜二つだ」
その言葉に少し驚いて目を見開く。
「昔……死んだヤツに。
笑い方も、立ち方も、……お前と同じでよ」
言いながら、コールは肩を震わせた。
「だから……見捨てられなかった…それだけだ。
お前のためでも、女神に言われたからでもねぇ。
俺の――ただの勝手だ」
ルミナの胸に、熱いものが広がる。
「……それなら……」
胸の奥を押さえながら、言葉を探す。
「私は……どうしたらいいのでしょう……」
問いというより、独り言のような声だった。
コールはルミナの方を一瞬だけ鋭く睨み、それから視線を外す。
「恨みたきゃ恨めって言ったろ。好きにしろ」
乱暴で無愛想な声。
でも――その奥には、深い痛みがあった。
両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
胸が、うまく呼吸できないほど重い。
「……私……」
コールは黙って見ている。表情は何一つ変わらない。
「わたし……儀式のために、生まれて育てられました。
母のもとに還ることは……怖くありませんでした。
それが“務め”で……“当たり前”で……」
言いかけて、唇が震えた。
「だから……助けられた理由を、どう受け止めればいいのか……
分かりません……」
静かな告白だった。泣き声でも叫びでもない。
ただ、心が剥き出しのまま零れた声。
「もし……儀式が途切れたせいで……街が……
あんなふうになっているのなら……」
さっき夢で見た、燃え落ちる街の光景が、
胸の奥で生々しくよみがえる。
「……私は、どう生きていいのか……分かりません……」
自分の命が惜しいわけじゃない。
“意味”だけ握らされてきた、それすら奪われて、
足場が崩れている。
コールは眉ひとつ動かさず聞いていた。
「……そうか」
短い返事。慰めは一言もない。
だがそのあと、ほんのわずかに視線が落ちた。
「だったら……迷っとけ」
「……え?」
「生き方なんざ、すぐ分かるもんじゃねぇ。
死ぬ理由だけ握らされて育てられたなら、なおさらだ」
そう言いながら、コールは窓に目を向けた。
風が揺れて光が差し込む。
「街のことも、儀式のことも……全部後だ。
まずお前が生きてる。それ以外はどうでもいい」
ルミナの胸が、小さく震えた。
「……どうでも、いい……?」
「ああ。俺からすりゃ全部どうでもいい。
助けた理由も、街がどうなろうがも、祈りも務めも……」
言いかけて、ほんの一拍だけ言葉を切る。
「だが――
お前自身がどうしたいかだけは、どうでもよくねぇ」
言い終えると、また目を逸らす。
その横顔は不器用すぎて、乱暴で、だけどどこか優しかった。
涙をこぼしそうになりながら、胸に手を当てた。
儀式では教わらなかった痛み。
“務め”では説明できない温かさ。
(……分からない……でも……)
心の中に、小さな火が灯った気がした。




