第99話:風の外で見る世界
風の抜ける路地に身を滑り込ませ、俺はルミナを地面に降ろした。
すぐに腕を振り払われる。
「離しなさいっ!」
声が思ったよりも大きく響いた。
通りの向こうから人の気配がして、俺は彼女を壁際に押しやった。
「声を落とせ。追手が来る…」
「あなたは何をする気です! 私は——」
「知ってる。儀式だろ…」
俺は短く息を吐いた。
「だがな、それでお前が“風とひとつになる”とか、
“母に還る”とか、そう言葉で飾ったところで――要は、死ぬんだろ…」
ルミナの瞳が揺れる。
「それは……母の意志。巫女としての務めです」
「務め?…」
思わず笑いが漏れた。
「それが“務め”なら、俺はそんなもん何百回でも壊す。
お前が死んで感謝されるような世界なんざ、間違ってる!」
ルミナは一歩、後ずさった。
だが、表情には恐怖よりも困惑が浮かんでいた。
「……あなたは、なぜそんなふうに……」
「お前を…死なせたくねぇからだ」
喉の奥が焼ける。
「…クソ」
言葉の勢いで、思わず拳を握っていた。
ルミナが息を呑み、わずかに肩を落とす。
それでも、まだ首を振る。
「……それでも私は戻らなければ。母が……この国が、そう決めたのです」
「決めたのはお前じゃないだろ」
「……っ」
「それに、お前を救えと俺に言ったのはアーリアだ…」
言葉を落とすと、ルミナの顔がふと固まるのが見えた。
風が路地を抜ける。白布がはためき、埃が舞う。
沈黙が落ちた。
俺は深く息を吸った。
「……わかった。なら、自分の目で確かめてこい」
「確かめて?」
「お前が守ろうとしているものが、本当に“守る価値”があるのか
――それをお前自身に見せろ。
母が作ったというこの仕組みを、外から見て、納得して戻るかどうか決めろ」
ルミナは言葉を失ったように固まる。俺はそっと彼女の手を取って引いた。
「暴れるな。外で騒げば、ここで終わりだ」
彼女は未だ納得していない様子だが、抵抗もできずに俺の後に付いてきた。
風の流れを縫い、二人は祭りの人混みの陰へと滑り出した。
人混みを抜けて、俺たちは裏通りへ出た。
ルミナには白布を脱がせ、簡単な外套を羽織らせる。
髪も隠した。
祭の喧噪に紛れれば、誰も気づかない。
「こんなに人が……」
外套の隙間から見えるルミナの目が、大きく揺れていた。
広場に吊るされた風灯、屋台から上がる湯気、風車の軋む音。
全部が初めての世界らしい。
(……マジか。外、歩いたこともねぇのか?)
驚きというより、ちょっとした苛立ちに近い感覚だった。
この街の中心に祀り上げられていながら、街そのものを知らねぇ。
子どもたちが輪になって布の翼を広げる。
それを見たルミナが小さく息を呑んだ。
「……かわいい……あの子たち、風の精霊みたいで……」
「ただの子どもだ。遊んでるだけだろ」
「遊ぶ……」
その言葉が、ほんとに初耳みたいな顔をするから、思わず眉が動いた。
「……おい、お前。普段なにして生きてんだ?」
「え、えっと……祈りを捧げて……風を聴いて……母の息を……」
「それだけ?」
「……それだけ、です」
完全に箱入りだ。
広場の端を歩いた瞬間、
ルミナの腹が――ぐぅ、と鳴った。
「…………っ!」
ルミナが真っ赤になって腹を押さえる。
俺はため息をつき、近くの屋台へ向かった。
「店主、これを二つ」
「へいよ!」
受け取ったのは、赤い皮の果実に焼き蜜を絡めた串。
ちゃんと“街の匂い”がする食い物だ。
ルミナに一本渡す。
「ほら。食え」
「……でも……巫女が、こんな……」
「巫女じゃねぇ、今はただのルミナだろ…ほら」
ルミナは、恐る恐る果実にかじりついた。
「……あ……あま……い……」
目を見開いて、ほんとに素直に震えている。
たったこれだけで。
「こんなの、初めて……」
「……外、まじで出たことねぇのな、おまえ」
呆れと、なんか…妙なやるせなさが混ざる。
「もっとうまいいもんなんていくらでもあるぞ。
飯屋、見世物、風呂、夜市……街ってのはそうできてる」
「……全部……見てみたいです……」
その小さな声に、思わず息が止まった。
さっきまで死ぬ覚悟を口にしてた奴が、こんな顔をする。
しかも”その顔”で…。
(……ふざけんなよ)
胸の奥でだけ悪態をつく。
その顔のまま、“還る”なんて言わせられねぇ。
「ほら、歩け。時間ねぇぞ」
「は、はい!」
ルミナは串を両手で持ったまま、弾むように歩き始めた。
その背を見ながら、俺はつぶやく。
「……ほんと、何も知らねぇで死ぬ気だったのかよ。バカが」
広場を離れ、少し細い通りに入る。
風灯の数が減り、屋台の声も遠くなった。
代わりに、風車の軋む音がやけに近くなる。
ルミナは周囲をきょろきょろ見回し、突然足を止めた。
「……あれは?」
彼女の視線の先にあったのは、風車の下で膝を抱える少女。
年はルミナより少し下か。
薄い布一枚で、風を避けるように震えている。
「寒そう……どうして、あの子……」
ルミナが一歩踏み出そうとした瞬間、
隣の家から婦人が出てきて、少女の腕を掴んだ。
「ッチ!、邪魔だよ!どっかいきな!」
「……ごめんなさい……」
怒られた少女は立ち上がり、ふらつきながら奥へ消える。
婦人は短く祈りの印を結ぶと、風車を撫でて去った。
ルミナはその場に固まっていた。
「……なぜ……責められるのですか?
あの子、ただ寒かっただけなのに……」
俺は肩をすくめる。
「店の前に要られちゃ商売の邪魔だからだな…」
「……そんな」
ルミナは小さく震えた。
さっきまでの弾むような足取りが嘘のように止まる。
(……これだ。
これを見なきゃ、こいつは一生“外”を知らねぇ)
「行くぞ、ルミナ」
「……はい……」
歩きながら、ルミナはずっと袖を握りしめていた。
ーーーーー
少女が神官に連れられて歩いていく。
周囲の空気が変わり、大人たちが深く頭を下げ始めた。
ルミナは震えてなどいなかった。
むしろ逆だ。
白布の袖をそっと持ち上げ、
胸の前で指を組み、静かに目を伏せた。
――“母の息”へ捧げる祈りの型。
こんな場所でも、迷いなく。
それを見た瞬間、
俺の中で何かがざらりと逆立った。
「……おい、何してんだ」
声が荒くなった。
ルミナは小さく瞬きをしてこちらを見る。
「役目を果たす者へ……母の祝福を。
選ばれたのですから……見送らなければ」
あまりにも自然に言う。
俺は歯を食いしばった。
(……ここまで“染められてる”のか、こいつ)
「ふざけるな!!」
つい声を荒らげてしまった。
先程の少女が足を止めて振り返った。
小さな目が、ルミナを見つけて見開かれる。
「……ルミナ……様……?」
その声に、周囲がざわめいた。
「巫女様……?」「ルミナ様が……?」
「おい、頭を下げろ!」
一瞬で空気が変わる。
近くにいた大人たちがひざまずき、祈りを捧げる姿勢を取った。
見張りの母親に手を引かれた別の子どもまで、
ばたばたとルミナの足元へ駆け寄ってくる。
その子は、手に小さな風花の飾りを抱えていた。
「……ルミナさま!
わたし!選ばれなかったけど、この花あげます!」
花を差し出す手が震えている。
でも、顔は無邪気に笑っていた。
「母のところへ行くおねえちゃん……きっと、喜びます!。
“ルミナさまに守られてる”ってみんな言ってるの!」
ルミナは迷いもなく微笑んだ。
「ありがとう。
あなたの想いは……必ず風が運びます」
その言葉に、周囲が一斉に祈りの印を結ぶ。
風が通り抜け、鈴がひとつ鳴った。
……気持ち悪いほど、整った光景。
俺は喉奥で低く吐き捨てる。
(くそ……なんだこれ……
何を“母”だの“還る”だの……
こんな小さな手を捧げて、笑ってるのかよ)
ルミナだけは、何一つ疑っていない。
むしろ誇らしげで、穏やかな顔をしていた。
――その穏やかさが、一番胸に刺さった。




