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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第09話:潮の約束、別れと残響


馬車が軋む音が、まだ静かな朝の街路に響いていた。


「ありがとうございました、コールさん」

「まだ礼を言うには早いぜ」


街に着き、門番はヴァックスの姿を見るなり目を丸くし、驚きのあまり声も出なかったが、すぐに慌てて門を開いた。

その表情には、明らかな安堵の色があった。


「……倉庫まで、あと少しだな」

「ええ、コールさんのおかげです」

「気を抜くなよ」


港を出たあと船を一度森に隠し、早朝に塩を馬車へと積み替えた。

街の門が開くと同時に中へ入り、いままさに納品倉庫の目の前に来たところだ。


だが――お決まりとでもいうか……。


「おやおや、誰かと思えば。消えた小僧がのこのこ戻ってきたか」

「逃げ出したって噂じゃなかったか?」


路地の陰から現れたのは、数日前に因縁をつけてきた“中堅”の連中。

彼らは積荷を見て、意地の悪い笑みを浮かべる。


「ずいぶん大荷物だな……納品には検査がいるんだよ、なぁ?」

「証明書もある。手順どおりに運んでいる」


ヴァックスは以前とは違い、視線を逸らさずまっすぐに答える。


「おうおう、随分と口が回るようになったな……? だがなぁ、ここは俺たちの“縄張り”だ。勝手に通されちゃ困る」


倉庫の門番が様子をうかがいながら一歩引く。

雰囲気はじりじりと険悪になっていく。


舌打ちしたくなる状況だったが、ヴァックスは一歩も引かない。


「どうぞ。検査なら、手順どおり受けます」

「……チッ」


中堅業者たちが舌打ちする。

彼らは“理由”をこじつけてでも、ヴァックスを排除しようとしているのがわかる。

背後のハイポールとウィンスキーを近くに配置していると――


「そこまでだ」


通りの奥から、蹄の音とともに一台の馬車が止まった。

馬車には装飾や文様が描かれ、すぐに身分の高い者なのがわかる。

ゆっくりと扉が開き、一人の男が降りてくる。


瞬間、中堅たちの顔色が変わった。


「……ヴァルドン様……!」


彼らが頭を下げる先に立つのは、街の貴族ヴァルドン・ビャンクック、その人だった。


「くだらん口論で物流を止めるとはな。ここがどこだかわかっているのか?」


低く、だが明瞭な声が通りを支配する。

ダテの貴族ではないようだ。


「この塩は、私の依頼で運ばれたものだ。

検査をしたければすればいい。だが……不当な妨害であれば、覚悟しておけ!」


その言葉に中堅たちは黙りこくり、やがてそそくさと後退っていった。


「……助かりました」


ヴァックスが深く頭を下げると、ヴァルドンは静かに言った。


「顔を上げろ。おまえはもう、頼りない小僧ではない。無事に戻ってきた――それがすべてだ」


塩の確認が済み、証明書と合わせて納品が完了すると、倉庫の管理人が深々と頭を下げる。

ヴァルドンも一言だけ、淡々と告げた。


「今回の件、しかと覚えておこう。……ヴァックス、よくやってくれた」

「はっ……光栄です」


貴族はそれ以上何も言わず、馬車に乗り込んで去っていった。

通りには、もはや邪魔者もいない。


「……終わった」


ヴァックスが息を吐く。

俺はその肩を叩き労うと、ヴァックスは肩の荷が下りたそうな顔をして笑っていた。


「……俺の仕事はここまでだな」

「えっ……あ、はい。コールさん本当にありがとうございました!」


ヴァックスは慌ててバッグから袋を取り出すと、両手で差し出した。


「約束の報酬です……約束どおり売上の――」

「三割でいい」

「え!? ですがそれでは約束と!?」

「一日遅れちまったからな。それに、そのほうが後々うまそうだ」


悪い笑みを浮かべ、ヴァックスを横に見ると、ため息をついたヴァックスは再び笑った。


「コールさんも、なかなかの商売人ですね」

「そうか? 生憎と俺はやりたいことしかやらないだけだ」


受け取った袋の中には、しっかりとした重みがあった。


「十分すぎるな……ありがとな」

「いえ……コールさんがいてくれなかったら、きっと……ありがとうございました!!」

「そうかい。また気が向いたら使われてやるよ」


手短に言って、袋を腰に下げ背を向ける。


「……コールさん、これからは?」

「風の吹くところ……ってやつさ。じゃあな、ヴァックス」


振り返らずに通りを歩きはじめる。

背後で何か言いかけたような気もしたが、それは風に消えていった。


その後、納品を見届けた俺は、念のため離れて待機させていたシャンディと合流し、

彼女が仲間と使っていた宿に向かってみることになった。


足取りは重く、ネックレスを強く握りしめていた。


「そのネックレスはそんなに大事なのか?」

「……はい。幼馴染にもらったものなんです。“俺達が冒険者になった証だ”って」


彼女の声には、かすかな震えと、わずかな期待が混じっていた。


宿の前まで来たときだった。


「あっ……! あれ……ルース……!」


通りの向こうに見慣れた後ろ姿を見つけたシャンディは小走りに駆け出した。

男――ルースが振り返ると、一瞬の沈黙のあと、驚いたような笑みを見せた。


「シャンディ……!? 生きてたのか……!?」

「うん! ただいま!」

「シャンディ!? よかった〜! 無事だったんだぁ〜……」


シャンディが仲間の二人に囲まれるのを遠目に見届け、俺はその場を静かに離れた。

だが、すぐに後ろから足音が追ってきた。


「……コールさん!」


シャンディだった。息を切らして、俺の前に立つ。


「さっきは……ちゃんと言えなかったから。……本当に、ありがとうございました」

「いいさ……見つかってよかったな」

「はい……でも、あの! またいつか会えますか?」


少し戸惑ったように問いかける彼女に、俺はふっと笑って、

耳元のイヤリングを指さす。


「そうだな……シャンディは冒険者なんだろ? なら……自分の足で探してみな」


それは軽口にも、本気にも聞こえるような言い方だった。


だけどそれだけで十分だ。

彼女は小さく笑って「はい」とうなずいた。


そのまま、駆け足で仲間のもとへ戻っていく姿を見送ったあと――俺は、静かにその場を去った。


――夜。


シャンディは、仲間と泊まることになった部屋の前に立っていた。

扉の隙間から漏れ出る笑い声に、足が止まる。


「ったく、戻ってくるとは思わなかったわ」

「うまく囮になったのにな」

「ま、次はもっと上手く死んでもらわないと」

「なぁ……ほんとに殺すのかよ。そこまでしなくても……」

「なに? 私よりあの子が良いわけ?」

「……それはないけど」

「うふふ、でしょ? ……でもあの子、ほんとバカだったね。あんなネックレス……ルースも、

 あの夜にはすっかり忘れてたし、うふふ」

「うるせぇな……それ以上言うなって」

「あぁん、いやん」


笑い声が一瞬止まり、そしてまたクスクスと続く。


その場に立ち尽くしていたシャンディは、ただ無言だった。

聞いてはいけなかった。わかっていたのに、耳が勝手に離れなかった。


耳の奥が焼けつくように熱い。

胸の奥で何かが潰れて、指先が細かく震える。

逃げたくても、もう逃げる場所なんてどこにもなかった。


胸元にかかっていたネックレスを外し、力なく地面に落とす…。


冒険者になったとき、幼馴染のルースがくれた…記念の品だった…。

いつもそれが、自分の存在を証明してくれていた気がしてた。


「……そっか……ウソだったんだ……」


かすれた声が喉から漏れた。


広場――誰もいない夜の広場。


石畳の上に、ひとり膝をついたシャンディの影が揺れていた。


笑い声がまだ耳の奥に残っている。

信じていた人たちが、自分を「いらない」と笑っていた。


「……どうして……私だけ? ……なんで」


自分が何者だったのかさえ、わからなくなっていく。

あの日ルースがくれたものも、言葉も、優しさも……全部ウソだった。


“足手まとい”、“囮”、“死ねばよかった”。


それらが心の奥底で膨らんで、シャンディという人間そのものを押し流していく。


「……私なんて、最初からいなかったのと同じだったのかな……」


ゆっくりと、腕で自分の体を抱く。

でも、もう温もりなんてどこにもなかった。


怒る力もない。泣く力もない。

ただ、静かに崩れていく。

壊れる音も、もう聞こえない。


「……死んだほうが……よかったんだよね……」


その言葉だけが、今のシャンディにとって“現実”だった。


石畳の冷たさも、夜の風の冷たさも、もう感じない。

世界から切り離されたように、ただ虚ろな目で地面を見つめていた。


そのときだった。


ふと、視線の先に揺れる小さな光が目に入った。


近くにあった水たまりに、ぼんやりと映る自分の顔――その耳元で、イヤリングが月明かりを反射していた。


「……あ……」


胸が、かすかにきしむ。


あれは、別れ際にコールが指さしてくれた――『見つけてみな』と、笑って言ってくれたときの。


あの人は、自分を「使い捨て」なんかにしなかった。

命を懸けて助けてくれた。


何も知らない私なんかを……。


「……っ……ぅぅ……」


崩れた顔を両手で覆う。

涙が止まらなかった。

でも、今度の涙は……ほんの少しだけ暖かかった。


「死んだほうがよかった……なんて……」


呟きながら、シャンディは水たまりに映ったイヤリングに、そっと指をのばした。


それは、たしかにそこにあった。

今の自分に、もう何もないと思っていた。

でも、たったひとつ――あの人がくれた、信じてもいいと思える“光”があった。


暗闇の中に、ほんの小さな芯のように残ったその光を、

シャンディはそっと握りしめた。


まだ、立ち上がることはできない。

でも、心の奥のどこかで、何かがまだ終わっていないと――

何かが、そう言っている気がした。

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