アトリエ だれでもドア
子供の頃、わたしはかんしゃくもちだった。とにかく泣いてばかりで、何をするにも大騒ぎになるので、手のかかる園児だった。ひとりじゃ何もできないくせに、先生や母が手伝おうとすると暴れるので、運動会もお遊戯会もすべて台無しになった。同じクラスの保護者から「娘のビデオに杏奈ちゃんの泣き声しか入っていなかった」とクレームが入ったこともあるくらいだ。
わたしは生まれつき耳が聞こえなかった。
言葉の通じないわたしは、よく他の子とけんかになった。先にけしかけてくるのはその子のほうなのに、いつだってわたしが悪いことになった。こらえきれなくなったわたしが、最後にその子をぶったり、押したりしてしまったから。
そのたびに、わたしは母に叱られた。悪いことをした手をはたかれ、両腕をぎゅっとつかまれた。
「わたしは悪くない」
「悪いのはあの子」
「わたしを見て笑ったのよ」
言いたかったけれど、言えなかった。母はものすごくこわい顔をしていたし、ちゃんと説明するだけの言葉をわたしは持っていなかった。それに、わたしは知っていた。わたしを叱ったあと、母がとてもかなしそうな顔になることも。
小学生のわたしは、アイドルグループ、リリーエンジェルに夢中だった。天使の羽のついたカラフルな淡い衣装を身にまとい、踊っている彼女たちを延々と見ていられた。キュートなダンスを真似し、身体をゆらし、飛んだり跳ねたりしながら、わたしは音楽番組の録画を繰り返し見ていた。
学校でも、女の子たちはこぞってリリーエンジェルの真似をした。ブルー、ピンク、パープル、レモン、ミント。それぞれの色が割り当てられ、わたしも一緒になって踊った。
「だめだめ」
「杏奈ちゃんのダンス、へんなの~」
女の子たちが、顔を見合わせて笑っていた。どうやらわたしの動きは、ちぐはぐで、まわりの子たちの動きと全然合っていなかったらしい。他の子には聞こえている音楽が、わたしには聞こえない。幼稚園の時と同じだった。わたしはみんなが普通にできることができなかった。
わたしはダンスをやめてしまった。
女の子たちは、わたしから自然とはなれていった。教室で、わたしはひとりで過ごすことが多かった。自由帳を広げ、リリーエンジェルが踊っているところやエンジェルたちの衣装を描いた。色鉛筆を重ね塗っていくと、ステージさながらエンジェルたちが羽ばたいて見えた。
「上手だね」
何人かの子がわたしの絵をほめてくれた。わたしの描いた絵を欲しがる子もいた。ピンクを描いて。ミントを描いて。ねだられるまま、わたしは絵を描いてあげたけれど、仲の良い友だちはできなかった。
六年生の時、わたしの描いた風景画が絵画コンクールに入賞した。杏奈さんは耳が聞こえないけれど、すばらしい絵を描きました。その学期の通知表にそう書いてあった。うれしくはなかった。
中学校の時、体操着のままプールに飛び込んで溺れた。耳のことで、わたしはプールに入ってはいけなかった。母が学校に呼ばれ、すぐに耳鼻科に連れて行かれた。
「どうして飛び込んだりなんかしたの」
母は怒っていた。プールの授業を見学していたわたしを見て、クラスメイトの口が「ずるい」と動くのを見てしまった。けれど、わたしはだまっていた。
「もっと自分を大切にしないと」
先生は言った。
「山崎さんには障がいがあるけれど、それも君の個性なんだから」
そんな個性ならいらない。いっそ溺れて死んじゃえばよかった。
高校に入ると、クラスの空気は一変した。わたしがのけ者にされることはなかった。学級委員の二宮さんは授業中先生が口頭で言っていたことをノートに書き起こしてくれ、スマホのスクリーンショットで毎回送ってくれた。体育の授業の走り幅跳びでは、陸上部の上野さんが一緒に走ってくれ、飛ぶタイミングを教えてくれた。
わたしは、このクラスに存在することを許されている。中学校と比べれば天と地ほど違う境遇に感謝はしていた。けれど、わたしはクラスメイトの親切を素直に受け入れることができなかった。みんなにとって、いつだってわたしは耳の不自由な生徒で、障がいのある子にやさしくするのが当たり前みたいな空気をどうしてもぬぐいさることができなかった。
珠子ちゃん以外は。
はじめ、わたしは珠子ちゃんも耳が聞こえないのかと思った。わたしは珠子ちゃんがほかの子としゃべっているのを見たことがなかったし、いつだって唇を一文字にきゅっと引き結んでひとりでいたから。
そんな珠子ちゃんが、わたしに話しかけてきたのは、二年生のクラス分けがあって間もなくのことで、ノートに絵を描いていたわたしの席までつかつかとやってきて、いきなり言ったのだ。
「たまこ」
「タマゴ?」
たった今読み取った唇の動きを文字にして、はてなマークをつけてから、もう一度珠子ちゃんの顔を見上げた。
すると、珠子ちゃんはわたしの前の席にうしろ向きに座り、遠慮もなしにわたしのノートにすらすらと書いた。
「珠子」
その時、わたしは目の前の、凛としたかっこいい少女の名前をはじめて知った。珠子ちゃん。木原珠子ちゃん。
「美術部に入らない?」
珠子ちゃんが書いたので、わたしは急に恥ずかしくなって開いていたページを両手でかくした。
珠子ちゃんは、少しだけ乱暴にわたしの手をよけ、「美術部に入らない?」と書いた場所をペンでトントンと二回つついた。
部活なんて入るつもりなかった。どうせみんなに迷惑がかかるし、一年生の時も帰宅部だった。
「どうしてわたしを誘うの?」
「いつも絵を描いているから」
「それに、上手いし」
「わたしが入ったら迷惑だよ」
「どうして?」
「だって、耳が聞こえない」
「絵を描くのに、耳、必要?」
こんなこと言う子、はじめてだった。
珠子ちゃんに誘われるまま美術部に入部してしまった。珠子ちゃんの言ったとおり、美術部は自由で居心地のよい場所だった。珠子ちゃんは、一年生の頃から美術部に所属していたが、部活には気まぐれで来たり来なかったりした。驚いたのは、そのことをとがめる部員が誰もいないということだ。
「学園祭に展示する作品さえ出してくれれば来たいときに来ればいいから」
三年生で部長の松永先輩はそう言って、部活に姿を見せない珠子ちゃんのことを認めていて、責めたり怒ったりもしなかった。
「あの子は天才」
松永先輩はそう言って、去年学園祭に作品が間に合わず、真っ白い画用紙をそのままフレームに飾って出した珠子ちゃんのことを教えてくれた。
「なんてタイトルだったと思う?」
わたしが首をかしげていると、先輩はおかしくて吹き出しそうなのをこらえながら言った。
「それがね、『無』っていうの」
「無よ、無。ほんと、『無』でしかなかったわ」
気まぐれに部室にやってきて、一心不乱に絵を描く珠子ちゃんはかっこよかった。わたしは珠子ちゃんの描く絵が好きだった。どこか悲しそうに見える自画像も、落ち葉舞う散歩道を描いた風景画も、青だけを塗り重ねた抽象画も、わたしには到底描けない世界を珠子ちゃんは持っていた。松永先輩の言う通り、珠子ちゃんは天才なのかもしれなかった。
「美術大学を目指してみない?」
三年生になって、顧問の石原先生に言われた。珠子ちゃんとわたし。好きな絵をもっと勉強してみたかったし、大学に行っても珠子ちゃんと一緒にいられたらいい。
「絶対合格しようね」
わたしたちは手をとりあって約束した。部活の時間以外にも、デッサンをみてもらえることになったわたしは一日の大半を美術室で過ごすようになった。けれど、珠子ちゃんは、相変わらずサボってばかりで、連絡もなしに来ないこともたびたびあった。
きっと珠子ちゃんは、自分は天才だからデッサンなんて練習しなくたって合格できると思っているんだ。お腹の底からふつふつと怒りがわいて、ある日とうとうわたしは爆発した。
「真面目にやらなきゃだめだよ」
「一緒に合格しようって約束したのに」
珠子ちゃんの答えはこうだった。
「わたし、家でやってるから」
「それに、学校じゃあんまり集中できないし」
そのあと珠子ちゃんは何度か部室に姿を見せたけれど、すぐにまた来なくなった。なんとなくぎくしゃくしたまま受験日を迎えた。
受験会場で、わたしは珠子ちゃんの姿をさがしたけれど、見つからなかった。受験番号は一番違いだったけれど、教室が違うのかもしれない。もたもたしていたら、苦手な左方向からの席しか残っていなくて焦った。
教室じゅうの鉛筆の動きが、カリカリとキャンバスを伝わってきて手が震えた。ちらっととなりの学生のキャンバスをのぞくと、すごくうまくて圧倒された。時計の秒針の音が、胸の奥を刺すように響いてくる。人生の中で一番緊張して、どうにかなってしまいそうだった。
負けるものか。
歯を食いしばり、鉛筆を走らせた。
憧れの美大に、わたしは合格した。けれど、掲示板に珠子ちゃんの受験番号はなかった。石原先生に報告に行った。珠子ちゃんの受験番号を見つけることができなかったことも。
「木原さんね、受けられなかったの」
石原先生が言った時、わたしはやっぱり珠子ちゃんはサボったんだと思った。けれど、石原先生は、わたしの肩に両手をおいてそっと首を振った。
「木原さんね、病気だったの」
「今までも入退院を繰り返していてね」
「受験日に体調を合わせることができなかったの」
信じられなかった。珠子ちゃんは病気だった。たった今、先生は確かにそう言った。ずっと習っていた先生の口の動きを見間違うわけがない。そんな大事なこと、どうして珠子ちゃんは教えてくれなかったのだろう。
「言わないでって、言われていたのよ」
「かわいそうと思われたくないって」
「自分の描いた絵を見た人に『難病を抱えた子が描いたんだ』って言われるのが嫌だって」
ああ、同じだ。
珠子ちゃんのことがたまらなく好きだと思った。
入院先を教えてもらい、珠子ちゃんの見舞いに行った。わたしと目が合うと、珠子ちゃんはスケッチブックで顔を隠してしまったけれど、しばらくして横から顔を出した珠子ちゃんは、おどけて舌を出して笑った。
真新しいページを広げ、珠子ちゃんがサインペンを走らせる。一瞬で、桜吹雪が舞い散った。
合格おめでとう。
来年、杏奈を追いかけるよ。
その時は、永遠に来なかったけれど。
美術大学を卒業し、わたしは先生になった。小さなアトリエを開き、『だれでもドア』という名前をつけた。だれでもドアにはいろんな人がやってくる。小さな子供や中高生、大人やシニアの人たち。外国人もいる。今日もこれから小さな生徒さんが仲間入りする予定だ。
ほら、たった今、玄関のベルが鳴ったことを知らせるランプが光った。母親に手をひかれ、小さな男の子が不安そうな表情で黒目をきょろきょろさせている。
男の子の母親からだれでもドアにメールが届いたのは一週間前だ。
「こちらはだれでも受け入れてくれるアトリエだと聞きました。わたしの息子はかんしゃくもちで、いつだって怒って泣いて、暴れてばかりです。幼稚園でもみんなと一緒に行動できず、まわりを困らせてばかりいます。でも、絵を描いているときだけは、時間を忘れてひとこともしゃべらずにただひたすらクレヨンを動かしています。きっと息子は絵が好きなんだと思います。先生、どうか息子に絵を教えてもらえませんか」
「こんにちは」
話しかけると、男の子は母親の背中に隠れてしまった。いきなり知らないところへ連れられて、驚いているのだろう。両耳をふさぎ、いやいやをしている。子供もの頃のわたしみたいだ。
「ごめんなさい。この子、いつもこうなんです」
申し訳なさそうに頭を下げる母親の肩にわたしはそっと手をおいた。
「ちょっと待ってて」
アトリエにもどり、色画用紙の束をつかんだ。一枚一枚、床に並べていく。色とりどりの道はどんどん長くなって、親子が待っている玄関までたどりついた。
あか、あお、みどり、だいだい。男の子がじっと床を見ていた。
手をさしのべると、男の子ははいていた長靴をぬぎ、はだしでそっと画用紙の上を歩き始める。
あか、あお、みどり、だいだい。小さな足がアトリエに続く道を歩いていく。一歩一歩、宝探しでもするように。
母親が、静かに男の子の背中を見守っている。
たどりついた先に、真っ白い画用紙と大好きなクレヨンを見つけ、男の子の顔がぱっと明るくなる。
ほうら、きっともうだいじょうぶ。
ようこそ。アトリエ だれでもドアへ
さあ、何からはじめよう。