決意
翌日、おまつの茶屋の店先に麗しい人がある。
「――七郎!」
その女性は隻眼隻腕の男が茶屋に近づいてくるや、嬉しそうに手を振った。
女性は月ノ輪であった。
「お早いですな」
七郎は苦笑した。長屋の自室でダラダラ過ごしていた七郎は、月ノ輪の護衛の女性が迎えに来たので、やむなく出てきたのだ。
「しっかりしてください」
「何やってんですか、まったく」
月ノ輪の護衛の女性二人にこわい顔をされて、七郎は冷や汗をかいた。
ほとんど初対面だというのに、ずいぶんな扱いだ。
そして二人の女性は、茶屋の奥に上がって茶を飲んでいた。
「あら、いらっしゃっい」
おまつが七郎を出迎えた。いつもと同じく慈母観音のような雰囲気だ。後光が差しているような錯覚すらある。
「座ったら?」
「う、うむ」
おまつに促されて、七郎は床几の月ノ輪の隣に腰かけた。
「ふふっ」
月ノ輪が微笑した。僅かに頬を染めて。その様子に七郎の胸が高鳴った。
「あーら、いらっしゃっーい」
おゆりが無表情で茶を運んできた。怒りの鋒先は七郎に向いていた。
「あねさん、おはよう!」
「うむ、おゆりもおはよう」
おゆりと月ノ輪は仲よさげだ。昨日、会ったばかりとは思えない。少し年齢の離れた姉妹のようでもある。
「い、いつもの」
七郎はおゆりに注文するが、軽く聞き流されてしまった。
「では団子を頼もう」
「はーい」
微笑ましい月ノ輪とおゆり。無視されているのも忘れて七郎もつられて微笑した。
「七郎にも団子を分けてやるからな」
「は、それはありがたい」
月ノ輪と七郎は顔を見合わせ笑った。二人は同時に昔日を思い出したのだ。
二人が出会ったのは京の内裏だ。
内裏に魔物が現れるというので、かの高名な沢庵禅師が招かれた。
その沢庵禅師につき従っていたのが、隻眼の七郎――
柳生十兵衛三厳だった。
「ずいぶん仲がいいのね〜」
「な、なにをいうのだ、おゆり? だ、誰がこんな男なんか……」
おゆりと月ノ輪が騒ぐ一方で、七郎の心は暗く沈む。
月ノ輪は忘れえぬ女性であった。
だが、もう一人いた。
それは月ノ輪と強く結びつき、七郎の記憶から忘れることはできなかった。
内裏に現れた人知を越えた魔性。
魔性は女たちの悲しみから生まれたという。
――この世に人間がある限り…… 我が身は不滅……
妙法村正に斬られて消えていく魔性の声が、七郎の魂に刻まれている。それは決して消えぬ恐怖の記憶だ。
「おい、どうした七郎?」
「ちょっと、どうしたのよ?」
「なんだい、おむかえがきたのかい」
月ノ輪、おゆり、おまつが七郎を心配そうに見つめていた。
「あ、いや、なんでもない」
そう言って力ない笑みを返す七郎。
その時だ、彼は強烈な殺気を感じた。
「む?」
七郎は通りへ振り返った。江戸城にほど近い大通りは、道行く人であふれていた。
「今のは……」
いつの間にか七郎は険しい顔で通りを眺めていた。
月ノ輪、おゆり、おまつが思わず目をみはった。普段とは、まるで別人だ。
(いる…………)
七郎は直感で、道行く人々の中に魔性の蜘蛛女がいることを察知した。
幼い頃の兵法修行で右目を失った七郎は、五感を越えた感覚に優れている。
いわば第六感だ。それが倒すべき敵が近いことを告げていた。
「どうしたのじゃ七郎、こわい顔して」
「あ、月ノ輪様申し訳ありませぬ」
「どうしたんだい、あんた…… 戦にでも出るのかい」
おまつは心配そうな顔をする。おまつの女の勘は冴えている。さすがは年の功だ。
「か、かっこいいー! いつもそういう顔してよー!」
と、おゆりは年相応の反応をしたので七郎は苦笑した。
月ノ輪(とお供の二人)を連れて七郎は江戸を巡った。
小舟に乗り、水路を活用して散策を楽しむ。月ノ輪にとって江戸の町は全て刺激と興奮に満ちていた。
(やれやれ)
七郎は胸を撫で下ろす思いだ。お供の二人もこわい顔だ。なにしろ月ノ輪に何かあれば、七郎はただではすまぬのだから。
江戸観光を終えて月ノ輪らと別れ、夕暮れに七郎は自室の長屋に戻ってきた。
しばし瞑想した。月ノ輪は明日も江戸の案内を頼んできたが、はたして七郎に明日はあるのか。
(やつはくるか)
七郎は夜になっても瞑想を続けていた。日も落ち、夜の闇があたりを支配していた。喧騒に満ちた長屋一帯は早くも寝静まっている。
七郎は身支度を整えた。左手一本で器用に黒装束を身にまとう。
顔は般若の面で隠し、長屋の外に出た。昼日中は女房衆や子どもたちの声が満ちた長屋も、夜になれば不気味なほどに静まり返っていた。
七郎は帯に自作の杖を挿しこみ、夜の中を早足で歩き出した。
何処に行くあてもない。ただ彼は待っているのだ。魔性の蜘蛛女の出現を。
女難をイヤというほど体験した七郎は、女の悪しき一面を――
執念深さを知っている。二度までも七郎に煮え湯を飲まされた蜘蛛女だ、必ずや七郎を狙ってくる。朝は様子見であろう。
(さあこい)
般若面の七郎は小走りに駆けた。
自身の命を餌にして、魔性を釣り上げる作戦だ。
命のやり取りになるだろうが、七郎はやる。
それがおまつを守り、おゆりを守り、月ノ輪を守り――
江戸を守ることにもつながるのだ。