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無明の彼方  作者: MIROKU
終わりなき戦い
8/29

思索



 日も暮れかけた。

「しばらく江戸におるぞ」

 月ノ輪は七郎に言った。京の内裏からやってきた彼女は、しばらく江戸に滞在するという。

「江戸は楽しいところじゃ……」

 月ノ輪は微笑した。

 茶屋の看板娘おゆりとは、すでに姉妹のように親しくなっていた。

「七郎は果報者じゃ、慈母観音がついておるのだから」

「はあ」

 月ノ輪がいうには、茶屋のおまつは慈母観音に違いないという。すなわち生き仏だ。

「そ、それに、この月ノ輪もついておるのだからな」

「……それにしても、なぜ月ノ輪様が江戸にいらっしゃったのですか?」

 七郎は、それが気になる。

 公務を退いた月ノ輪とて、決して身軽でなければ暇でもないはずだ。

 それでも月ノ輪が江戸に来た理由は――

「――ふん!」

 月ノ輪は下から拳を突き上げた。鋭い一撃が七郎のみぞおちに突き刺さる。

「どおおおお……!」

 七郎は左手でみぞおちをおさえて、両膝ついた。

「私の勝手じゃ!」

 月ノ輪は機嫌悪そうに、ツンツンした様子で背を見せた。

 江戸城への帰路につく月ノ輪の側へ、お供の女二人(内裏で身辺警護にあたっているという)が慌てて駆け寄った。

 二人は気の毒そうに七郎に振り返っていた。

「お、俺が何をした……?」

 七郎はフラフラ立ち上がり、自分の長屋へと戻っていった。

 長屋の自室に入ると、畳の上に突っ伏した。ひどく疲れてしまった。

(まさか月ノ輪様がなあ)

 月ノ輪と再会して、不思議な気分がした。

 七郎が内裏で生活していた時、月ノ輪は十歳にもなっていなかった。

 あれから年月が流れ、月ノ輪は美しく成長していた。

 彼女が江戸にやってきた理由が七郎会いたしとは、まさか夢にも思わない。

 ただただ、ドキドキしてしまう。英雄、色を好む。七郎もまた美人が側にいると、落ち着かなくなってしまう。

「さて、どうするか……」

 七郎は気を取り直して、長屋の自室で瞑想を始めた。

 脳裏には遭遇した魔性が思い返される。二度も遭遇しながら命を拾っているのは、天祐というものか。

 あるいは、逃してしまったことが惜しい。あのような魔性が、江戸の夜に蠢いているとは。

(どうすればよい?)

 瞑想する七郎の眉がしかめられた。

 かつての体力は、今の七郎からは失われていた。

 浪人の刀は重かった。刀を左手一本で扱う体力は、すでにない。

 ならば、どうするか。小太刀の所持は町民にも認められている。

 しかし七郎は小太刀は好まない。人を殺す武器を所持して、無刀取りとは父や恩師に笑われかねない。

 無手にて刀を握った対手を制する、それゆえに無刀取りというのだ。

 しかし魔性相手に無手で挑むのは愚かという他ない。

(……あれだ!)

 七郎は数年前に自作した杖を思い出した。

 それは、しなやかな竹の枝を数本まとめて束ね、紐を隙間なく巻きつけた上から、黒漆を塗って固めたものだ。

 一見すれば馬に当てる鞭のようだが、これで打たれると痛みが筋肉の奥にまでジーンと走る。

 隻眼の七郎の視力を補い、更に不逞浪士相手にも効果を発揮する。

 魔性との戦いにも効果ありだろう。後世に失伝された「十兵衛杖」かもしれない。

(左手一本で何ができる……?)

 七郎の瞑想は続く。昼は國松相手に左手一本で体落をしかけた。

 技はかかったが浅かった。稽古だったことを考慮しても、いささか強引すぎた。國松にも手心があっただろう。

 七郎はさほど体格に優れない。自分より体が大きく、力が強い対手が苦手だった。

(丸橋……)

 七郎は瞑想したまま苦笑した。

 由比正雪の右腕、槍の遣い手の丸橋忠弥は良き好敵手だった。

 丸橋とは幾度も手合わせしたものだ。そして最後には命がけの真剣勝負に臨んだ。

(お前との手合わせも役に立ちそうだな……)

 今の七郎には、命のやり取りに及んだ丸橋ですらが懐かしく思われた。

 七郎は左の隻眼を開いた。すでに夜だった。灯りのない部屋は暗く、静寂に満ちていた。ついつい瞑想が長くなってしまったようだ。

 七郎は布団を敷き、眠ろうとした。

 すると部屋の隅に気配を感じた。

 部屋の隅には女が背を向けて座していた。

「ふお」

 七郎は叫び出しそうになるのをこらえ、布団に潜りこんだ。

 七郎が借りている一室は激安価格だ。いわくつきの物件なのだ。

(お、おんまかきゃろにきゃそわか……)

 七郎は十一面観音の真言を唱えた。十一面観音は修羅道に在る者を救いあげ、全ての災いを取り除くという。

 今の七郎を導くのは、あるいは十一面観音であるかもしれぬ。修羅道一直線だった七郎は、いつしか人との争いの渦から脱していたのだから。

 ――なでなで

 七郎は自分の頭を撫でる柔らかな手を感じた。

 部屋の隅に背を向けて座していた女の手だろう。

 生ある者ではないが、七郎の味方である。

(久々だな……)

 七郎の恐怖も和らいできた。この部屋にいる女の霊は、七郎にとって味方だ。

 月ノ輪との再会が喜ばしい反面、江戸に魔性の噂が流れていることが不安だった。

 夜闇に浮かぶ巨大な蜘蛛の巣。

 夜空を飛翔する蝶のような羽根を持つ女。

 解体しようとすると怪異が起きる古い武家屋敷……

 それらを思いながら、七郎は眠りについた。

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