忘れえぬ女性
**
夜闇に浮かぶ女は、蝶に似た羽根を持っていた。頭部には触角も蠢いている。
一糸まとわぬ裸身と、長く滑らかな白い髪が月光に映える。
女は妖しくも艶めかしい魔性だ。
「七郎……」
月ノ輪という少女は七郎の背に隠れた。
「月ノ輪様、お下がりください」
七郎は手にした妙法村正を抜きつつ、魔性を見上げた。
魔性を見据える七郎に恐れも迷いもない。
捨身必滅、一打必倒。
ただ最高の一手を放つだけだ。
月ノ輪を守るために……
七郎は昔の夢を見た。
彼は京の内裏で数ヶ月過ごしたことがある。その時の夢だ。
(月ノ輪様……)
あの少女は今はどうしているのか。七郎は昔日を思った。少女だった月ノ輪も今では妙齢だろう。
また内裏では数年前に女帝が退位していた。その女帝は徳川家の血を引いている。
江戸城の敷地内にある道場。
江戸城御庭番や風魔忍びは、ここで練武する。
今日は七郎と國松の二人だけがいた。七郎は國松に呼び出されたのだ。
「久しぶりに見せてもらおう、無刀取りを」
稽古袴姿の國松。全身から覇気が満ちている。
かつては七郎の父の又右衛門、そして小野次郎右衛門忠明から兵法を学んだ國松。
その兵法の腕は七郎以上だ。國松でなければ風魔を統率できない。
信長に似た容貌の國松は、強大なる統率者でもある。
「は」
稽古袴姿の七郎は短く応えた。
それが開始の合図だ。
道場中央で対峙していた二人は踏みこんだ。
國松の右拳が七郎を襲う。
七郎は素早く國松の左手側に回りこむ。
七郎の右足が國松の左かかとを払う。
が、浅い。
「ふ」
國松が右足で膝蹴りを放つ。七郎は、それを踏みこみながらあえて受けた。
左脇腹に苦痛を感じつつ、七郎は左手で國松の右手首をつかんだ。
身を回しつつ、腰のあたりを國松の腹部に叩きつけるようにして技をしかける。
國松の体は反転して、道場の床に背中から落ちた。
後世の柔道における体落だ。七郎はそれを左手一本でしかけた。
いや、跳腰や内股の要素も混じっている。
大技、小技、力技、軽技、早技――
それらの統合が神技と呼ばれるのだ。
「……どうやら腐っておらんようだな。失った右腕に、はるかに勝るものを得ているようだ」
受け身を取った國松は、不敵な笑みで立ち上がった。七郎の無気力な顔も今は闘志に満ちていた。
ずいぶんと荒っぽい稽古だが、彼らは刀を握った浪人を相手にしている。
荒々しい浪人を相手にしてきたことが稽古に現れていた。
「但馬の説いた剣禅一如は遠いな……」
國松も、七郎も苦笑した。
沢庵禅師と又右衛門の説いた剣禅一如の境地は、二人には果てしなき彼方に思われた。
だからこそ生涯を懸けて目指すのだ。
それこそが武の深奥なのだから。
別室にて二人は茶を飲みながら話す。
「最近は浪人も組織化されてますな」
七郎は茶を飲み茶菓子をほおばる。平時の七郎は花より団子だ。
「策を練って押し込みをしている。手強い」
國松も茶を飲んだ。苦い顔だ。
慶安の変を経て、浪人に対する意識は変わりつつある。
が、それでも由比正雪の理想には遠いだろう。救済されている浪人は僅かしかいない。
また、行き当たりばったりの押し込み強盗はほとんどなくなった。
代わりに計画化された強盗が目立った。以前の浪人らとは性質も違う。情の欠片もない彼らは、女子どもまで殺して金品は全て奪う。
七郎にいわせれば彼らは飢えた化物だ。満ち足りることを知らず、ただひたすらに悪を為す救いなき存在だ。
(人界は餓鬼、畜生、修羅の混じる地獄よな)
七郎はそう思う。仏法の説く六道、その真実を垣間見た心地がする。
「さて、このような話ばかりではつまらぬ。さっそくだが、お前に会いたいという者がおる」
「はて、どなたですかな」
「ふふふ、女だ」
國松は含み笑いした。七郎は青ざめた。彼は女難の恐ろしさを身を以て知っていた。
「入るがよい」
國松が促すと部屋の襖が開いた。
そこには妙齢の女性が座していた。
美しく、そして知らない女だ。
いや、七郎は彼女を知っている――
「七郎、久しぶりじゃな!」
妙齢の女性は七郎を見つめて明るく笑った。それは感涙をこらえているようでもあった。
「月ノ輪様……」
七郎の隻眼が潤んだ。彼は昔日を目の当たりにしていた。
あの月ノ輪が、美しく成長していたことは感動だった。
「泣く男は嫌いじゃ」
月ノ輪はキッパリ言った。そういう性格は変わっていないようだ。
七郎は月ノ輪と共に江戸城を出た。
少し離れて、月ノ輪のお供である二人の女がついてくる。
(何かあったら大変だな……)
七郎は楽しげな月ノ輪の隣で内心震えていた。
内裏の奥深くで生活していた月ノ輪には、江戸の活気あふれる市中が珍しい。
もしも月ノ輪に何かあれば(七郎が手を出しても)、市中引き回しの末に打首、獄門(さらし首)だろう。
「お、茶屋があるぞ。あそこで一休みしよう!」
月ノ輪が指さしたのは、七郎馴染みのおまつの茶屋だ。
七郎はわざと足早に通り過ぎようとしたが、月ノ輪は気づいてしまったようだ。
「あら、いらっしゃい……?」
七郎を出迎えた、おまつは目を丸くしていた。
「はあ?」
出てきたおゆりも七郎と月ノ輪を交互に眺めて、目を細めた。
「誰この綺麗な人?」
おゆりは七郎を刺すように見つめた。
「誰じゃ、この可愛い娘は?」
月ノ輪もまた七郎を刺殺せんばかりに見つめた。
二人から殺気に似た気配を浴びせられて、七郎は震え上がった。
「ふん!」
月ノ輪は右手で七郎の左頬を平手打ちした。
「おりやあ!」
おゆりは左手で七郎の右頬を平手打ちした。
「我が名は月ノ輪、おぬし可愛いのう。まるで妹みたいじゃ」
「私は、おゆりよ! わあー、綺麗なあねさんだー!」
月ノ輪とおゆりは意気投合した。
敵の敵は味方、そんな心理が働いている。
二人の共通の敵は七郎だ――
「な、なんで……?」
両頬を赤く腫らした七郎は呆然と、助けを求めるようにおまつを見た。
「どういうこと?」
普段は慈母観音にも等しいおまつだが、今は般若のような怖い顔をしていた。