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無明の彼方  作者: MIROKU
終わりなき戦い
7/29

忘れえぬ女性


   **


 夜闇に浮かぶ女は、蝶に似た羽根を持っていた。頭部には触角も蠢いている。

 一糸まとわぬ裸身と、長く滑らかな白い髪が月光に映える。

 女は妖しくも艶めかしい魔性だ。

「七郎……」

 月ノ輪という少女は七郎の背に隠れた。

「月ノ輪様、お下がりください」

 七郎は手にした妙法村正を抜きつつ、魔性を見上げた。

 魔性を見据える七郎に恐れも迷いもない。

 捨身必滅、一打必倒。

 ただ最高の一手を放つだけだ。

 月ノ輪を守るために……



 七郎は昔の夢を見た。

 彼は京の内裏で数ヶ月過ごしたことがある。その時の夢だ。

(月ノ輪様……)

 あの少女は今はどうしているのか。七郎は昔日を思った。少女だった月ノ輪も今では妙齢だろう。

 また内裏では数年前に女帝が退位していた。その女帝は徳川家の血を引いている。



 江戸城の敷地内にある道場。

 江戸城御庭番や風魔忍びは、ここで練武する。

 今日は七郎と國松の二人だけがいた。七郎は國松に呼び出されたのだ。

「久しぶりに見せてもらおう、無刀取りを」

 稽古袴姿の國松。全身から覇気が満ちている。

 かつては七郎の父の又右衛門、そして小野次郎右衛門忠明から兵法を学んだ國松。

 その兵法の腕は七郎以上だ。國松でなければ風魔を統率できない。

 信長に似た容貌の國松は、強大なる統率者でもある。

「は」

 稽古袴姿の七郎は短く応えた。

 それが開始の合図だ。

 道場中央で対峙していた二人は踏みこんだ。

 國松の右拳が七郎を襲う。

 七郎は素早く國松の左手側に回りこむ。

 七郎の右足が國松の左かかとを払う。

 が、浅い。

「ふ」

 國松が右足で膝蹴りを放つ。七郎は、それを踏みこみながらあえて受けた。

 左脇腹に苦痛を感じつつ、七郎は左手で國松の右手首をつかんだ。

 身を回しつつ、腰のあたりを國松の腹部に叩きつけるようにして技をしかける。

 國松の体は反転して、道場の床に背中から落ちた。

 後世の柔道における体落だ。七郎はそれを左手一本でしかけた。

 いや、跳腰や内股の要素も混じっている。

 大技、小技、力技、軽技、早技――

 それらの統合が神技と呼ばれるのだ。

「……どうやら腐っておらんようだな。失った右腕に、はるかに勝るものを得ているようだ」

 受け身を取った國松は、不敵な笑みで立ち上がった。七郎の無気力な顔も今は闘志に満ちていた。

 ずいぶんと荒っぽい稽古だが、彼らは刀を握った浪人を相手にしている。

 荒々しい浪人を相手にしてきたことが稽古に現れていた。

「但馬の説いた剣禅一如は遠いな……」

 國松も、七郎も苦笑した。

 沢庵禅師と又右衛門の説いた剣禅一如の境地は、二人には果てしなき彼方に思われた。

 だからこそ生涯を懸けて目指すのだ。

 それこそが武の深奥なのだから。



 別室にて二人は茶を飲みながら話す。

「最近は浪人も組織化されてますな」

 七郎は茶を飲み茶菓子をほおばる。平時の七郎は花より団子だ。

「策を練って押し込みをしている。手強い」

 國松も茶を飲んだ。苦い顔だ。

 慶安の変を経て、浪人に対する意識は変わりつつある。

 が、それでも由比正雪の理想には遠いだろう。救済されている浪人は僅かしかいない。

 また、行き当たりばったりの押し込み強盗はほとんどなくなった。

 代わりに計画化された強盗が目立った。以前の浪人らとは性質も違う。情の欠片もない彼らは、女子どもまで殺して金品は全て奪う。

 七郎にいわせれば彼らは飢えた化物だ。満ち足りることを知らず、ただひたすらに悪を為す救いなき存在だ。

(人界は餓鬼、畜生、修羅の混じる地獄よな)

 七郎はそう思う。仏法の説く六道、その真実を垣間見た心地がする。

「さて、このような話ばかりではつまらぬ。さっそくだが、お前に会いたいという者がおる」

「はて、どなたですかな」

「ふふふ、女だ」

 國松は含み笑いした。七郎は青ざめた。彼は女難の恐ろしさを身を以て知っていた。

「入るがよい」

 國松が促すと部屋の襖が開いた。

 そこには妙齢の女性が座していた。

 美しく、そして知らない女だ。

 いや、七郎は彼女を知っている――

「七郎、久しぶりじゃな!」

 妙齢の女性は七郎を見つめて明るく笑った。それは感涙をこらえているようでもあった。

「月ノ輪様……」

 七郎の隻眼が潤んだ。彼は昔日を目の当たりにしていた。

 あの月ノ輪が、美しく成長していたことは感動だった。

「泣く男は嫌いじゃ」

 月ノ輪はキッパリ言った。そういう性格は変わっていないようだ。



 七郎は月ノ輪と共に江戸城を出た。

 少し離れて、月ノ輪のお供である二人の女がついてくる。

(何かあったら大変だな……)

 七郎は楽しげな月ノ輪の隣で内心震えていた。

 内裏の奥深くで生活していた月ノ輪には、江戸の活気あふれる市中が珍しい。

 もしも月ノ輪に何かあれば(七郎が手を出しても)、市中引き回しの末に打首、獄門(さらし首)だろう。

「お、茶屋があるぞ。あそこで一休みしよう!」

 月ノ輪が指さしたのは、七郎馴染みのおまつの茶屋だ。

 七郎はわざと足早に通り過ぎようとしたが、月ノ輪は気づいてしまったようだ。

「あら、いらっしゃい……?」

 七郎を出迎えた、おまつは目を丸くしていた。

「はあ?」

 出てきたおゆりも七郎と月ノ輪を交互に眺めて、目を細めた。

「誰この綺麗な人?」

 おゆりは七郎を刺すように見つめた。

「誰じゃ、この可愛い娘は?」

 月ノ輪もまた七郎を刺殺せんばかりに見つめた。

 二人から殺気に似た気配を浴びせられて、七郎は震え上がった。

「ふん!」

 月ノ輪は右手で七郎の左頬を平手打ちした。

「おりやあ!」

 おゆりは左手で七郎の右頬を平手打ちした。

「我が名は月ノ輪、おぬし可愛いのう。まるで妹みたいじゃ」

「私は、おゆりよ! わあー、綺麗なあねさんだー!」

 月ノ輪とおゆりは意気投合した。

 敵の敵は味方、そんな心理が働いている。

 二人の共通の敵は七郎だ――

「な、なんで……?」

 両頬を赤く腫らした七郎は呆然と、助けを求めるようにおまつを見た。

「どういうこと?」

 普段は慈母観音にも等しいおまつだが、今は般若のような怖い顔をしていた。

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