永遠の輝き
しかし刃は虚しく空を裂いた。
蜘蛛女は素早く飛び退いていた。
七郎必殺の一閃は、蜘蛛女の眼前をかすめたのみだ。
七郎は着地した。同時に蜘蛛女は小さな悲鳴を残して夜空に飛び上がり、そして蜘蛛の巣ともども消えてしまった。
残された七郎は、左手に刀を握ったまま呆然と夜空を見上げていた。
全身全霊の一手を放った反動で、一時的に前後不覚に陥っている。
やがて夜の静寂と場に満ちる血臭が七郎に正気を取り戻させた。
「手強い……!」
七郎は冷や汗を浮かべていた。蜘蛛女を逃がしたことが苦々しい。
しかし、あるいは――
彼は生き延びたから幸運だ。
明日は、おゆりと旅芸人一座の催し物を観に行くのだから。
――翌日、江戸は大雨だった。
「うおおお!」
七郎は傘を握って長屋を飛び出した。
滝のような豪雨だ。風こそ吹いていないが、圧倒的な雨量に傘はたちまち使い物にならなくなった。
「やらねばならぬうっ!」
七郎、我を忘れた。
正確には、おゆりのために自分を捨てた。
連絡手段の乏しい時代だ。伝えたいことは、自分の足で伝えなければならない。
七郎は隻眼隻腕、それでも、おゆりのためにできることはしなければならぬ。
「おおうい!」
七郎は茶屋にたどり着いた。当たり前だが本日は休みだった。江戸の往来を出歩く者は、彼しかいなかった。
「開けてくれー!」
七郎は茶屋の雨戸を叩いた。
「あ、なんだい。今日は休みだよ」
「ば、ばあさん、おゆりに伝えてくれ、今日は無理!って!」
「な、何しに来たのよあんたはー!」
こうして、七郎はおまつの茶屋に拾い上げられた。
彼の必死な思いが天を動かしたかもしれない。
七郎はおまつの茶屋の中で女物の衣服に着替え、丸一日を過ごした。
おまつとしては孫夫婦と過ごすような、そんな穏やかな一日だった。
おゆりとしては七郎の思いが嬉しくもあり、疎ましいというか。女心は永遠の謎だ。
数日後、七郎は染物屋の風磨にやってきた。大旦那で町の顔役でもある國松に呼ばれてのことだ。
「今の江戸をどう思う?」
國松の厳かな面が七郎に向けられた。
七郎も日頃の愛嬌を消して國松と対面する。まるで真剣勝負だ。
「混沌というのは、今の江戸かもしれませぬ」
七郎は町民に扮して江戸の各地を回り、自ら見聞きし、そして体験した。
「ほう」
「全国から武士も集まっておりますし」
参勤交代で江戸には武士が集まっている。大名につき従い江戸入りした武士たち。彼らが仲の良いわけがない。表立った事件はないが、皆が腹に一物隠している。
「浪人も多く、凶賊もおります」
三代将軍家光の改易の嵐によって生じた浪人は、十六万人ともいう。
その余波は未だに続いていた。宿場町発展の労働者として雇われた浪人も多いが、手に職ないまま放浪した浪人も多い。
金を盗み、人を殺し、他者を食い物にしてきた者たち――
一片の情も持ち合わせぬ飢えた化物たちが、江戸を戦々恐々とさせている。
伊賀甲賀の忍びの末裔たる江戸城御庭番と、國松の率いる風魔忍者の末裔らだけでは、江戸の人々を防ぐのが難しくなってきた。
著名な火盗改が設立されるまで、まだ十数年がかかる。
「武士の次男三男を召集したが、奴らは腐っておる」
「でしょうな」
「使えぬ、何が武士だ、何のために生きている」
國松の苦々しい顔が七郎を戦慄させた。國松は大叔父である織田信長に容貌が似ていたために、祖父の家康から遠ざけられていたという噂もある。
國松の正体は三代将軍家光の弟、大納言忠長だ。切腹を命じられて果てたとされているが、秘密裡に生かされ、江戸の治安を守るために風魔忍者の末裔を率いて戦っていた。
奇しくも今の表情は兄である家光にそっくりだった。
武士とは何か、家光は武断政治によって答えを求めていたようにすら思う。
「人外の魔性、奴は小生が討ち果たしまする」
七郎の左の隻眼が細められた。
彼の闘志に火が点いたのだ。
倒すべき敵を倒すために、大いなる存在によって生かされた――
七郎は、そう信じていた。
「あ、いらっしゃーい」
茶屋では、おゆりが七郎を出迎えた。
客の前では輝く微笑のおゆりだが、七郎の前ではツンツンしている。
「いつもの」
「はいはい」
静かな七郎、ツンツンしたおゆり。
二人を眺めて店主のおまつは微笑する。まるで菩薩だ、観音菩薩の笑みだ。
(守るのだ、せめて最期まで……)
七郎の右腕がうずいた。
彼の右腕は由比正雪の一刀によって斬り落とされたのだ。
生涯最高の勝負、七郎は忘れない。
最高の一瞬は、永遠の感動だ。
その感動は、心に永遠の輝きをもたらすのだ。
だから今、七郎は腐らずに生きていける……
「どこ見てんのよ!」
おゆりがお盆で七郎の頭をひっぱたいた。七郎が、おゆりの方を見ていないのが許せなかったらしい。
「き、きいた〜……」
七郎は腰かけていた床几から崩れ落ちた。目の中に星が散っている。おゆりの不意打ちは、なかなかの威力だった。
今日もお江戸は日本晴れだ。