真の名は
夜になり、七郎はうどん屋を訪れた。すでに店じまいだった。
「お元気そうですなあ」
店主の源がそう言ったのへ、七郎は苦笑を返す。
「冗談じゃない」
七郎は右腕を失い、体力も衰えた。
短期間の間に二度も生死の境をさまよったのだ。
今生きているのが不思議なのだ。
「若は化物ですかい?」
「おい、それより酒だ酒」
「へいへい」
源は酒と肴の準備に取りかかる。うどん屋はなかなか繁盛しているようだ。
すでに店じまいで店内も暗いというのに、次々と戸を開いて男が入店してくる。
彼らは江戸城御庭番だ。昼は変装して江戸市中を見回っている。七郎が昼に会った風車売りもそうだ。
江戸の治安は、彼らの人知れぬ活躍によって守られている。
七郎は今では彼らに助言をする立場だ。公の彼はすでに死んでいる。ここにいるのは、ただの七郎だ。
門下三千人という巨大な組織、由比正雪の張孔堂の野望を打ち砕くために、七郎は自身の死を偽装し、油断を誘った。
そして由比正雪の暴走を食い止め、江戸の治安を守った。
七郎の真の名は三厳、通称は十兵衛――
柳生十兵衛三厳だ。
(死ぬまでやらねばならんなあ)
七郎は御庭番らの会議を眺めながら改めて決意するのだ。
江戸の治安を守ると。
そのために戦うと。
それがウルスラの言う召命なのだ。
酒宴も兼ねた会議も終わり、酔った七郎は提灯を左手に夜道を進む。
「ふう〜……」
夜空を見上げた。満月が輝いている。
七郎は魔性とも戦いを経てきているが、彼らが現れるのは決まって満月の晩ではなかったか。
「――おい」
建物の物陰から男の声が聞こえてきた。
「身ぐるみ脱いで置いていけ」
物陰から三人の浪人が姿を現した。目がギラギラして、殺気走っている。
三人ともに刀柄に右手を伸ばし、そして素早く七郎を取り囲んだ。
慣れている。浪人らは強盗にも、人を斬るのにも慣れているのだ。
物陰に身を潜めて、獲物が来れば素早く襲う。
夜の闇に蠢く浪人の中には、人ならぬ妖怪じみた者たちもいる。
「ほ、物取りかね」
七郎は怖気に震えながら、浪人を見回した。浪人は七郎の怯えた様子に、ニヤリと笑った。
と、次の瞬間に七郎は提灯を浪人の一人に投げつけた。咄嗟に提灯を抱きしめた浪人の衣服に火が燃え移った。
「おわあああ!」
「お、おまえ!」
浪人の一人が抜刀した。七郎は抜刀した浪人に素早く抱きついた。
抱きついた瞬間には、浪人の右かかとを自身の右足で払っている。
浪人は後方に倒れ、その拍子に後頭部を大地に叩きつけられて、気絶した。
「なんだ、おまえはあ!」
最後の浪人が、刀を抜いて七郎から距離を取った。
正眼に構えられた刀の切っ先は、七郎に突きつけられていた。
七郎からは浪人が遠い。鋭い刀の切っ先、浪人はその奥だ。
そして火に包まれた浪人は半ば力尽きて、大地に突っ伏していた。
「……また来たか」
七郎は浪人から視線を移した。
彼の隻眼は夜空に広がる巨大な蜘蛛の巣を見ていた。
「なんだこれは――」
うめいた浪人へ、夜闇を切り裂き、何かが巻きついた。
それは糸のように見えた。
糸が浪人の全身に巻きつくや否や、鮮血が夜闇に噴き上がった。
浪人の体はバラバラに斬り裂かれて、大地に転がった。
「あな恐ろしや魔性……」
七郎のただ酒の酔いも覚めた。
彼の隻眼は、夜空に広がる巨大な蜘蛛の巣上を蠢く魔性を視認した。