義は人の道
(またやったか……)
十兵衛が襲われたのは初めてではなかった。彼はすでに数人、殺めていた。
(虚しい…… 俺は何のために……)
十兵衛の隻眼に涙がにじんだ。人を殺めた先には更なる闘争のみがあった。
駿河にて十兵衛は生きながら地獄に落ちていた。
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「……は?」
十兵衛の意識は現実に引き戻された。
夜空の月、眼前の魔性。
十兵衛は数秒、過去の幻影を見ていたのだ。
決して拭えぬ罪の記憶を……
「……だからなんだというのだ」
十兵衛は薄く笑った。開き直りか、そうではなかった。
彼は罪を背負っているが、それでも為すべきことをせんとしているのだ。
(月ノ輪様を守る!)
月ノ輪は、あの小さな体に背負いきれない重荷を背負っているのだ。
だからこそ十兵衛も月ノ輪を守ることに命を懸ける。死に花を咲かさんとする。
人知を越えた魔性に挑んでいけるのは、開き直りの蛮勇ではない。
月ノ輪を守らんとする愛だ。
「御免」
十兵衛の体が疾風のごとく前に飛び出した。
横薙ぎに振るわれた白刃が闇を裂く。
十兵衛の一刀、魔性に届いたかに思われたが、
「おわっ……!」
またしても十兵衛の脳裏に光が飛び散った。無限の光が十兵衛の脳裏を支配する。
「月ノ輪様に手を出すな!」
かろうじて十兵衛は言った。それだけが彼の意識を保ち、魂の力を失わぬようにする唯一の方法だった。
彼方から響く魔性の嘲笑。十兵衛は大地に突っ伏し、意識を失った。
(生きているとは素晴らしいことだ)
十兵衛は朝食の席でそう思った。
彼は朝日を浴びて目覚めた。夜の間、戻らなかった十兵衛を沢庵が心配していた。
「お前には不動明王がついておるな」
沢庵は十兵衛を見てニヤリと笑った。彼は十兵衛が持つ運命力に不思議な感動を覚えていた。
幼い日に右目を失ったこと、それは十兵衛が常人を越えるための代償だったのだ。
「うまい……」
いつにも増して美味に感じる米の飯。沢庵漬けの歯応えも最高に心地よい。
月下の魔性に与えられた恐怖は、今まで感じたこともないものだった。
だが今は――
あの恐怖ゆえに生きる喜びを噛みしめることができる…… 十兵衛を見逃したのは冷やかしかもしれないが。
「おかわりは?」
女官が十兵衛にたずねた。いつもと変わらぬ少々そっけない態度。果たして、この女官は魔性の一味なのか。
(そんなことはどうでもいいさ)
十兵衛は向かいに座った月ノ輪を見つめた。彼女も箸を止めて十兵衛を見つめ返した。その頬が僅かに赤みがかる。
「な、なんじゃ十兵衛」
「月ノ輪様はこの十兵衛がお守りいたします」
「あ、当たり前じゃ、うつけ者!」
十兵衛から目をそらす月ノ輪。その様子が十兵衛と沢庵には微笑ましい。
「ふん」
と女官が十兵衛の頬をつねる。痛みに顔をしかめる十兵衛。女官の真意は、いや女心は謎だ。
(守るために戦うのだ…… 不動明王よ、我に力を。明日への光を!)
心中に誓う十兵衛。月ノ輪を守る、そのために命を燃やす。
朝食の安らぎは、束の間の休息だ。
休息が終われば修羅の日々となる。
しかし十兵衛は自分の踏みこんだ道からは離れない。
月ノ輪を守るために不動明王が遣わした兵だからだ。〈了〉




