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無明の彼方  作者: MIROKU
内裏の魔性
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紫電一閃



 ――隻眼の七郎に勝ったなら、ゆっくりと話を聞こう。

 忠長は大名の名代にそう伝えたという。七郎とは十兵衛の幼名であり、隠密として活動する際の偽名だ。

 これは十兵衛にとっては迷惑極まりない話だった。忠長の言に従い、大名の名代と共に駿河にやってきた強者(多くは藩の兵法指南役だ)が、次々と七郎に勝負を挑んできた。

 幕府の隠密である十兵衛は要注意人物だ。十兵衛が駿河で見聞きしたことは、江戸幕府に伝わっていると誰もが思っていた。

 実際には、そんなこともない。十兵衛はついこの前まで家光の側仕えの御書院番(親衛隊)だったのだ。密偵として役に立っているとは思えない。

 幕府への報告は助九郎以下、宗矩の部下たちが行っていた。十兵衛は居候のような立場だったが、隻眼の異相が人目を引いた。

「忠長様は何を考えていらっしゃるのかわからぬ……」

「戯れているのですよ」

 十兵衛を助九郎がなだめた。

「駿河大納言であっても満たされぬのでしょうなあ」

 助九郎はしみじみと語った。

 忠長の兵法指南役として、大いに剣を交え、組討術に汗を流してきた助九郎。

 その彼には忠長の孤独がわかるのだ。

 父母に愛されながら将軍には成れず――

 幕府の期待に応えようと文武の錬磨に励んでも、それはむしろ幕府から疎まれた。

 将軍の弟として政務に励もうとしても、世間が忠長を放っておかぬ。伊達政宗公や薩摩の島津公を初めとした各地の大名が接触してくる……

 忠長に安息などあろうか。家臣のほとんども江戸幕府に仕えている。忠長の様子を監視している。心を開いて接することができる者は忠長の身辺にはいなかった。

「なるほど……」

「それがしの見る限り忠長様は若に甘えているのでしょうな」

「な、なんだって?」

「若は変わってらっしゃる」

 助九郎の目は鋭く細められた。

「将軍家兵法指南役の嫡男でありながら隠密の身に落ちて、自身をあわれむわけでもない」

「しかたない、俺は上様に嫌われているからな。それに今はそれほど悪い気分でもない。父がいて弟の左門と又十郎もいる。家は安泰だ。俺はいつでも死ねる。願わくば武の深奥を垣間見せたまえ、と武徳の祖神に祈る日々だ」

 十兵衛は真顔で言った。助九郎には今ひとつ理解できない心境だ。

 あるいは十兵衛は菩提の境地にいるのか。幼い日に右目を失った十兵衛だが、それに勝る何かを得ている。

「忠長様は無刀取りが気になるのでしょう」

 助九郎は言った。忠長の関心は無刀取りだ。十兵衛が身につけた無刀取りが本物ならば、負けるわけがないと信じているのだ。

 負けて死ぬようならば、所詮それまでの男――

 忠長はそう思っている。

「俺の無刀取りなど父には及ばぬ」

「嫌味に聞こえますな、家光様をぶん投げておいて」

「あ、あれは武徳の祖神のお力添えがあってのことだ」

 などと言い合う二人は奇妙な師弟でもあった。

 そして忠長の言を伝え聞いた者の中には、曲解する者もいた。

 ――隻眼の七郎とは幕府の隠密であろう。忠長様にとっては目の上のこぶに違いない。

 そのように受け取った者は、ひそかに十兵衛を始末しようとした。

 つまり暗殺だ。



 月明かりの下、十兵衛は助九郎の屋敷の近辺を散歩していた。

 静かな夜だ。気分も研ぎ澄まされていく。着流しの帯には大小二刀を差していた。

(死ぬには良い夜だ)

 十兵衛にとっては一日が長い。そして駿河に来てからの数ヶ月は早かった。

(楽しかったな……)

 そんなことを思う。家光を制した夜、あの時から自分の人生が始まったのだとすら思う。

 それまでの十兵衛は家光の小姓であり、御書院番だった。

 その名誉ある地位から隠密に――

 幕府にとっては使い捨ての駒に落ちたというのに、十兵衛は充実していた。満足していた。

 命をかけた勝負。

 捨身必滅、一打必倒。

 全身全霊、無心の一手……

 兵法を学んだ身で、自身の全力を振り絞れたこと、それは至上の喜びだ。

 家光との真剣勝負、それが十兵衛を満足させた。

 だからこそか、十兵衛は駿河に死に場所を求めている…………

「……おう」

 夜空を見上げて微かに口元に笑みを浮かべていた十兵衛。

 彼は夜の中に刺すような気配を感じて、顔を引き締めた。

 いる、闇の中に何者かが潜んでいる。

 右目を失った十兵衛は、耳で微かな音を拾い、肌で風を読み、嗅覚で見えない敵を察知する。

 次の瞬間、伏せていた何者かが身を起こし、疾風のように駆け出した。

 あっという間に十兵衛に迫った。

 横薙ぎに振るわれた刺客の白刃。

 十兵衛はそれを左手で抜き放った脇差しで打ち払う。

 右手も動く。抜き打ちに斬りつけた三池典太の刃は、刺客の首筋を裂いた。

 刹那の間に振るわれた十兵衛の二刀。その閃きは神業的だ。

 月下に刺客の鮮血が噴き上がり、大地に赤い雨となって降り注いだ。

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