江戸の平和と男と女
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今日も七郎はおまつの茶屋にいた。
店先の床几に腰かけ、茶を飲んでいる。
団子をもう一皿注文しようとしたが、茶屋は満席だ。おまつとおゆりも忙しそうに働いている。
(もう少し待つか)
そう思って青空を見上げる。青く澄んだ空が美しかった。白い雲は空の彼方へ流れていく。
「風車はいかがでやすか」
風車売りが七郎の側にやってきた。
「いただこう」
七郎は風車を受け取った。風車売りは茶屋を離れて、群がる子どもたちに風車を手渡していく。
子どもには無料で配っているのだ。子どもたちは風車に息を吹きかけて遊んでいる。子どもたちの笑顔に七郎は安らいだ。
七郎は左手の風車の柄を見た。小さな文紙がついていた。
「ほう」
隻腕の七郎は床几に風車を置き、左手で文紙を開いた。書かれていたのは忍び文字だ。夕刻うどん屋にて、と書かれていた。
「江戸は平和だな」
七郎は苦笑した。今の風車売りは江戸城御庭番の一人だ。風車売りに扮して江戸の治安を守っているのだ。
今の風車売りだけではない。
うどん屋の源も、浪人に仕事を斡旋する政も江戸城御庭番だ。
幕末まで続いた江戸城御庭番は、この慶安の世でも人知れず活躍している。
幕末の頃には、江戸城御庭番の忍びがペリーの黒船に忍びこみ、時計などを盗み出したという。
勝海舟は江戸城御庭番の活躍によって、日本と異国の技術の差を知った……
「はい、お待たせ」
おまつが茶と団子を運んできた。
「お、すまんね。なんで、わかった?」
「あんたのことなんか、なんでもお見通しさ」
穏やかな笑みを浮かべた老婆のおまつ。
彼女を前にすると、荒んだ浪人も大人しくなる。
「さすが菩薩……」
「あたしゃ、まだ死んでないよ」
「何してんのよー」
おゆりが呆れた顔でやってきた。店内の客は去っていた。ようやく落ち着いたのだろう。
「また夫婦ケンカ〜?」
「いや、夫婦じゃないぞ?」
「そうだよ、弟みたいなもんだよ」
「息子じゃなくて? まあ、いいけど」
ツンツンした様子のおゆり。彼女は七郎がおまつと仲よさげなのが気に入らないのだ。
「明日は休みだから、二人で出かけたらどうだい?」
「そ、そうか。ど、どうだ、おゆり? 旅芸人一座でも観に行かないか」
「んー…… 考えとく」
ツンツンして、そっぽを向くおゆり。
彼女のおかげで七郎は若返り、生き返る。生きているとは、そのようなことだろう。
七郎はおゆりのおかげで魔性のことを忘れた。