魔都の追憶
「はて、何用かな」
十兵衛は厳かな顔つきだが、内心はかなり動揺していた。
女官たちは月ノ輪の侍女であり、身辺警護の役に就いている。
それが禅師の沢庵はともかく、幕府大目付の柳生又右衛門宗矩の嫡男である十兵衛が月ノ輪の警護に就くとは。
面白いわけがない。侍女の面目丸つぶれだ。
「あなた」
女官の一人が、すっと前に出た。
十兵衛は一歩引いた。
「御免!」
十兵衛は逃げ出した。
それは自由への逃走だった。
女は苦手だ。
「ま、待ちなさい!」
女官の一人が、十兵衛の後から腰に抱きついた。それで体勢を崩した十兵衛は道場の床に顔面を打ちつけた……
その後は女官を相手に、しばらく話しこんだ。
「まあ、駿河にいた時は……」
十兵衛が数年過ごした駿河は権謀術数渦巻く魔都であった。
荒ぶる鬼も怖気づく修羅の巷――
そのように十兵衛は認識していた。
生きた心地もしない日々を死の覚悟で乗り切った。
そして、それは命がけで無刀取りを研鑽する日々でもあった。
「なぜ駿河は乱れていたのですか?」
女官の一人が十兵衛に質問した。まだ十四、五歳と見える娘だ。
あとで知って驚いたが、この娘は上皇の愛妾の一人でもあった。
「天下が揺れていたのですよ」
十兵衛は座して話を続けた。女官たちも板の間に正座したり、あぐらをかいたりしている。
くだけた様子が十兵衛には心地よい。彼女たちは少し心を開いてくれているようだ。
床に叩きつけられた十兵衛の鼻は真っ赤だ。それもまた女官たちにはおかしく、緊張をほぐす。十兵衛、怪我の功名だ。
「駿河には各地の大名の名代が集まっていたので……」
十兵衛はためらいつつ、語り始めた。
自分が内裏の女官に駿河のことを語ってもよいのか、というためらいだ。
が、目を輝かせている女官たちを前にしては、苦笑しつつも語ってしまった。
彼女たちは外部の情報に餓えている。ひょっとしたら、死ぬまで内裏から一歩も外に出ることがないかもしれぬのだ。
「忠長公は人気がありましたからな」
兄の家光、弟の忠長。両者を知る十兵衛に女官の一人が質問した。
「どちらが将軍に相応しいのですか」
「やはり家光様かもしれませぬなあ」
と、十兵衛は答えた。これは意外な答えであった。
「忠長公は……」
十兵衛は言葉を濁した。思い出が恐怖と共によみがえった。
「信長公に顔も性格も似ていたといいます」
家光、忠長共に信長公の血を引いている。そして忠長は信長公に似ていたがゆえに、御神君家康公から遠ざけられていたと宗矩から聞かされていた。
「忠長様には諸大名、感服しておりました。しかし、それでは政がうまく運びますまい」
忠長を将軍にすれば、天下の諸侯ことごとく幕府に仕えたであろう。
しかし、それは忠長の専制政治になりかねなかった。幕閣の臣は忠長に媚びへつらい、国の行く末は暗かっただろう。
もしも忠長が三代将軍になったとしたら、幕閣の意向――泰平の世を築かんとする――を無視して政を行ったかもしれない。
(政宗公は望んでいらっしゃったかもな)
十兵衛は政宗公を思い出す。顔は笑っていたが目は笑っていなかった。十兵衛と同じく右目を失っており、それが共感を招いたのだろう。
――おい、一つ目小僧。
気さくに幼い十兵衛に呼びかけた政宗公。あれは親愛の情だったと十兵衛は信じたい。
「政宗公は忠長公を煽っていらっしゃいましたし」
いつの間にか、十兵衛の話を女官たちは姿勢を正して聞き入っている。
「忠長公は文武に秀でたお方、兵法では小生も及ばず。全くもって家光様では及びませぬ……が」
「が?」
「忠長様は臣の言葉に耳を傾けませぬ。文武共に一流ですが、人を用いることに関しては家光様が達者」
そう、家光は自分ができぬことは人に任せた。十兵衛の父宗矩もまた、家光に重用された。
だから柳生家の繁栄があり、後世にまで名と栄誉を遺した。
忠長では家臣を重用すまい。兵法も学問も忠長の右に出る者はいない。忠長には力も知恵もあったが、徳には欠けていた。
「天下がまとまりますまい」
「そ、それで駿河に各地の大名の名代が集まったのは?」
「――幕府転覆のため」
十兵衛の声は暗く低かった。




