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無明の彼方  作者: MIROKU
内裏の魔性
26/32

活気

 十兵衛は息が止まった。一瞬で背筋が凍りついた。

 僅かに開かれた襖の向こうに輝く赤光。それは夜の闇に蠢く魔性の瞳に他ならない。

 いつからいたというのか。十兵衛は全く気がつかなかった。

 ばっ、と素早く十兵衛は寝ている月ノ輪に覆いかぶさった。

 自分でも意外な行動だ。十兵衛は左脇に三池典太を鞘ごと置いていたというのに。十兵衛は戦うことより月ノ輪を守ることを選んだ――

「……」

 襖は静かに閉じられた。十兵衛はしばらく閉じた襖を見つめていた。

(なぜだ、なぜ俺を見逃した……)

 十兵衛は全身に冷汗を流しながら思う。魔性がその気ならば十兵衛の命は奪われていただろう。

 戦慄の止まぬ十兵衛。その彼を新たな戦慄が襲った。

「な、何をしておるのだ……?」

 月ノ輪の声は震えていた。彼女は十兵衛に覆いかぶされて、顔を真っ赤にしていた。

 端から見れば、十兵衛が月ノ輪を襲おうとしているように見えなくもない。

「は、い、いや、これは」

 十兵衛の弁解も月ノ輪の耳には届かない。彼女は十兵衛が夜這いをしかけたと勘違いしていた。

 月ノ輪は魔性が現れたことを知らない。十兵衛を見上げる顔は火照って熱い。

「……島流しにせ〜い!」

 月ノ輪の叫び声を、内裏の多くの者が聞いた。



 翌朝、月ノ輪は不機嫌だった。

 黙々と朝食を食べ続け、十兵衛には目も向けない。

 十兵衛はといえば、月ノ輪にぶたれた頬が腫れあがっていた。

「おかわり……」

 十兵衛は女官に椀を差し出した。今日も米飯が僅かにしか盛られていなかった。

「……島流しになるの?」

 女官は小声でささやいた。大変馴れ馴れしいが、今の十兵衛にはかえって心地よい。

「いや、それは免れた」

「あ〜、良かった〜」

「あ、なんだって?」

「何でもありません、はいご飯大盛り」

 十兵衛と女官の心の距離は縮まっていた。月ノ輪は、それを横目で眺めて更に不機嫌になった。十兵衛の島流しは沢庵の懇願によって取り消されていた。

「……いいところだったのに」

「何か申されましたか月ノ輪様」

「なんでもない!」

 不機嫌な月ノ輪を眺めて沢庵は微笑した。以前は手に負えぬわがまま娘だった月ノ輪が、変わり始めているではないか。

「わしなど大したことなかったな」

 沢庵は朝食を終えて苦笑した。内裏の敬愛する禅師、天下に知られた徳僧の沢庵。

 その沢庵にもできなかったことを、十兵衛はやってのけたのだ。

 闘争を好む悪鬼である修羅も、時に仏敵を降伏するがゆえに、仏法の守護者である――

 それは沢庵が十兵衛の父、宗矩に説いたことだ。

 まさか息子の十兵衛が、それを体現するとは。これはいかなる仏縁なのか。

 幼い日に右目を失った十兵衛だが、彼は失った右目に勝るものを得ているのだ。

 もしも十兵衛が右目を失わなかったら、後世に名を残すような人物にはならなかったろう。十兵衛は産まれながらにして天から試練を与えられていたのだ。

「沢庵様から作り方を教わったので、みなで作りあっています」

「ほほう、それは光栄」

「辛味をつけたり、甘みを添えたり」

「……ほう、ならばそれを出せ」

 とは月ノ輪である。彼女も黙ってばかりもいられない。

「はっはっはっ、ではみなが作った漬物を馳走になろう」

「我らは沢庵様にちなんで沢庵漬けと呼んでおります」

 女官は少々興奮していた。敬愛する沢庵と直接、会話ができるのだから。

 朝食の場に明るい活気が満ちた。十兵衛は蚊帳の外だが、楽しげな月ノ輪たちに微笑する。

 内裏の高貴なる者の朝食とは思えない、明るい活気――

 それは十兵衛が命を懸けて守りたいと願ったもの、すなわち笑顔と平和そのものだ。



 徹夜していた十兵衛は練武の間へ呼び出された。内裏の警護に就く者たちの修練の場だ。

 十兵衛は江戸城内の道場を思い出す。年月を経て薄汚れた壁や床、それに染みついた先人たちの血と汗と思い……

 この練武の間でも、幾多の先人が修練を続けてきたのだろうと思った。

 その練武の間には、数名の女性が待ち構えていた。

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