明日への決意
(いつの間に!)
般若面は生きた心地もしなかった。
夜闇に輝く無数の赤光は、魔性の瞳だ。見回せば二十前後の赤光が輝いている。いつの間にか十体前後の魔性が般若面を見つめていた。
般若面の右手から力が抜けそうになる。彼は危うく三池典太を取り落としそうになった。
全身が震える。体感したことのない不安。それは般若面の魂が怯えている証拠なのだ。
般若面の前に現れたのは、正しく人知を越えた魔性の群れだ。
不気味な赤光の群れと般若面はしばし対峙していたが、やがて全ての赤光が消えた。現れた時と同じく唐突に。
般若面は両膝ついて呼吸を荒くした。立っていることすら辛かった。
「あ、あ、あれが……」
自分の戦う敵なのか。
そう思った時、さすがの般若面も恐怖に震えた。逃げ出したかった。
だが月ノ輪のことを思えば、そうもいかぬ。
死という文字はあっても、敗北という文字はない。
それが十兵衛の信念だ。
あとは戦って死ぬのみだ。
数日後、十兵衛は女官の遺体を前にしていた。
すでに沢庵が経を終え、あとは埋葬するのみだ。
この遺体は、魔性に転じていた女官である。
(すまなかったなあ)
十兵衛は女官の冷たい額に手を置いた。交わした言葉は僅かだが、彼は女官と心が通じあったような気がした。
花を渡した時の、女官のはにかんだ笑顔。
それを見てしまったら、女を悪い存在とは思えない。
そう思うのは十兵衛だけかもしれない。家光は女への憎悪ゆえに辻斬りを行い、師事した小野忠明は「女は毒」と十兵衛に教えていた。
また、この女官の死は事実とは少々異なって内裏に報告されていた。
魔性に転じて十兵衛に斬られたのではなく、魔性に襲われ殺されたということになっている。
(仇を取るというのも変な話だが、できるだけのことはする)
十兵衛は女官の冷たい額を撫でながら、遺体の口元が笑みを浮かべているように見えた。
それは単なる偶然か、それとも――
「魔性、討つべし」
内裏で持ち上がった声に対し、沢庵禅師は告げた。
「ならば、あなたが剣を取れ」
そう言うと誰もが黙った。内裏の者の多くは口先だけで、魔性と向き合うつもりなどないのだ。
ただ己の保身、ただ己の欲望。
それだけで生きているように見受けられる。平和な時代は人心の腐敗を招いていた。
「剣を取れぬというのなら、黙って任せることですな。あの者は、内裏に現れた魔性を討つために、不動明王が遣わした兵でありますゆえ」
沢庵禅師の顔には、内裏の者たちへの怒りが浮かんでいた。そうしている沢庵禅師こそ、不動明王の化身であったかもしれぬ。不動明王は一切の衆生を救うために、あえて厳格な憤怒の相を浮かべている。
そして十兵衛は修羅にたとえられるだろう。闘争を好む悪鬼である修羅も、時に仏敵を討ち果たすために、仏法の守護者であるのだ。
朝だった。
十兵衛は庭園にいた。彼は夜通し月ノ輪の寝室の側で警護にあたっていた。
三池典太を正眼に構えて庭園に立ち尽くす十兵衛。隻眼は閉じられ、彼は立ったまま瞑想しているようだ。
今、十兵衛の魂は剣を通じて、天地宇宙に向かって開かれていた。
(……静かだ)
十兵衛は隻眼を開いた。これで数日、魔性は姿を現さない。
「十兵衛、ご苦労さん」
縁側には沢庵が現れた。沢庵禅師は夜通し不動明王真言を唱え、魔を追い払っていたのだ。
「さて朝食のあとは昼寝でもするか」
「そうですな」
あくびをする沢庵と十兵衛の師弟。
その二人へ起きてきた月ノ輪が声をかける。
「うむ、二人ともご苦労であった!」
月ノ輪は明るい笑顔だ。彼女は沢庵と十兵衛が来てから、わがままも言わなくなり、明るくなった。
月ノ輪の笑顔のために死ぬのなら、十兵衛も悪い気はしない。




