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無明の彼方  作者: MIROKU
内裏の魔性
19/32

うつけ者



 夕刻、十兵衛は庭園に出ていた。

 目を閉じ瞑想している。

 彼の意識は天地宇宙と調和していた。

 ――しゃ

 風切り音が静かに響く。十兵衛は左手に握った鞘から、愛刀三池典太を抜いて空に斬りつけていた。

 抜く手も見せぬ妙技だが、十兵衛は居合に精通しているわけではない。

 ましてや彼は隻眼で、剣術を極めることはできぬとよく理解していた。

 それゆえに師事した小野忠明の言葉を守る。

(一刀に始まり一刀に終わる……)

 それは戦国の剣聖、伊藤一刀斎景久の言葉でもある。

 その教えが十兵衛にとって、剣の全てとなった。

 勝負は一瞬で終わるのだ。

「あまり気負うな十兵衛よ」

 沢庵は縁側から声をかけた。

「武の深奥は女と同じだ…… しつこいと嫌われるぞ」

 沢庵はからかうように笑った。

 内裏からも世間からも敬愛され、幕府にも媚びへつらわぬ剛直な沢庵禅師も、俗な一面があるようだ。

 だが、それでこそ人間だ。

「ははっ、そうですな」

 十兵衛は苦笑して三池典太を鞘に納めた。彼の所作を月ノ輪が目を丸くして見つめていた。

「十兵衛、兵法を教えてくれぬか」

 月ノ輪は言った。

「なんですと?」

「私も、せめて手慰みに学びたいのじゃ」

「なるほど……」

 十兵衛には月ノ輪の気持ちがわからなくもない。

 父母から離され、小さな体に不相応な責を負わされ――

 寂しさから女官たちに辛く当たってしまう月ノ輪は、内裏でも孤立しかけていた。あまりに酷といえば酷な話だ。月ノ輪は自身の運命を切り拓く何かが欲しいのだ。 

 十兵衛も似たような生き様をしてきたから、よくわかる。将軍家兵法指南役の嫡男でありながら、彼は幼いうちに右目を失った。

 父への申し訳なさ、そして武士らからの嫉妬に苦しむ。

 江戸旗本らは父祖らの命がけの槍働きによって、禄を授かった。

 であるのに、柳生家は関ヶ原以降に徳川傘下で力をつけた。裏で何をしてきたのか、それは十兵衛すら知らぬ。

 その結果として、多くの武士が数百石であるのに今では数千石である。

 武士らが妬むのは当たり前、十兵衛も父の宗矩も真の敵は仲間の武士であった。

 だから十兵衛は月ノ輪の心境がわかるのだ。そして同時に自分は救われたことを深く理解した。

 小野忠明、伊達政宗、二人が十兵衛に生きる道を教えてくれたのだ。

「しかし月ノ輪様、兵法とは剣術だけではありませんぞ」

「なんじゃと?」

「槍と刀と組討の三つを合わせて兵法といいます」

 十兵衛は丁寧に月ノ輪に説明した。

「弓馬の技は、ちと違いますな。あれは武士の将たる者の道」

「今は江戸で槍を錬磨する者がいるのか」

 と、これは沢庵である。

「土地がありませんな」

 十兵衛は沢庵に答えた。本来、戦場の主力は槍である。足軽らを見ればわかる通り、兵は槍を構えて敵に突き進むのだ。

 長さの利を活かし、離れた場所から突くという単純な動作から生み出される槍の一撃は、鎧を貫通することもある。

 武徳の祖神、経津主大神を祭神とする香取神宮の神宝も鉾と伝えられている。長柄の兵器は戦場の主力だ。

 さて槍だが、寛永の江戸はあちこちで建設が盛んで、槍を錬磨する場所がないので流行らなかった。

「組討は怪我をしやすいですしな、やはり流行っておりませぬ。城務めの武士らも今ではほとんど兵法錬磨などやりませぬよ」

「で、では武士は何をしておるのだ」

 月ノ輪の問いに十兵衛は苦い顔をした。江戸市中の剣術道場では高い塀を設けて、町民が覗き見できないようにしている。

 なぜか? ほとんど人が来ないからだ。市中の剣術道場を経営するのは武士階級への剣術指南役ばかりだが、閑古鳥が鳴いているとのことだ。

 幕府から禄をもらっているので何とか生きていけるのだ。

 また収入を得るために広い庭を町民に貸し出したり、いざとなれば道場を大宴会場にすることもあるとのことだ。

「なんじゃそれはー!」

 月ノ輪はかんしゃくを起こして叫んだ。十兵衛が伝える江戸の武士の実情に幻滅したらしい。

「まあまあ、月ノ輪様お気をたしかに」

「気はたしかじゃ、うつけ者!」

「まあ待て十兵衛、おぬし月ノ輪様に無刀取りを教授してはどうじゃ」

「は? 禅師よ、何ごとですか」

「月ノ輪様、組討の修行となれば……」

 沢庵はニヤニヤしながら言った。十兵衛も月ノ輪も真面目に話を聴いた。なにぶん沢庵禅師のこと、きっとありがたいお話に違いないと。

「肌をすり合わすほどに身を寄せ合ったところに真髄がある…… 二人で抱きつくほどに組討の錬磨をなされるとよろしい」

「そ、そんなことできるかー!」

 月ノ輪は顔を真っ赤にして叫んだ。そういう様子が年齢相応の少女であり、以前と違って生き生きしていた。

「なるほど、たしかに」

 と、十兵衛は朴念仁の真価を発揮した。まだ子どもの月ノ輪を女性として認識できていない十兵衛だ。月ノ輪と肌をすり合わす組討の修行に何の抵抗もないようだ。

「このうつけ、うつけ、大うつけ!」

「痛い、痛い、月ノ輪様勘弁してください!」

「はっはっはっ、十兵衛おぬしは女難の宿星に生まれたな!」

「食事の準備ができましたが〜……」

 と、一人の女官が伝えに来た。そして月ノ輪が楽しげな様子に驚き、微笑した。月ノ輪は少しずつ変わりつつあるのだ。



 夜は更けた。

 内裏の庭は静まっている。

 夜回りの警護の者以外、夜闇にうごめく者はいないように思われた。

 だが今宵は違った。

「んふ」

 内裏の高い塀に上ったのは黒装束の人物だ。背には刀を背負い、顔は般若の面で隠している。

 闇にうごめく一個の魔性と思われた般若面は、微かな風となって、塀の上を駆けた。

 そして彼は早くも目指す場所に到達した。

「ふっ」

 短い吐息と共に般若面は塀から飛び降りた。音もなく縁側へ上がり、そこの襖を僅かに開いた。目指していたのは、この部屋だ。

「だ、誰ですか」

 小さな声が暗い部屋の奥から漏れた。女の声だ。

「花を持ってきた」

 般若面は――

 いや、十兵衛は落ち着いた様子だ。沢庵より「女の部屋に行くなら花を持っていけ」と忠告されていた。

「……花ですって?」

「そうだ」

 般若面の奥で十兵衛は緊張した面持ちだ。剣難女難、どちらが辛苦かと問われたら、彼は女難と答えるだろう。

 しばしの後、行灯に火が灯されて部屋の中が明るくなった。十兵衛は般若面を外している。

「あなたは沢庵様のお弟子さん……」

 部屋にいた女は寝具から身を起こしていた。

「そうだ」

 と言って十兵衛は女に隠し持っていた花を差し出した。

「これを私に……?」

「ああ」

「そのために、こんな夜に?」

「うむ」

 十兵衛の表情は固い。女を口説くのは慣れていない。ましてや夜中に女を訪れるなど初めてのことだ。

「そうなの……」

 と、女は口元に薄い笑いを浮かべた。照れくさそうだ。行灯に照らされた女の頬が僅かに朱に染まっていた。

 そして女の袖から伸びた細い手首には包帯が巻かれていた。女は本日、体調不良を訴えて臥せっていた。

「いかがされたのだ」

 十兵衛は女の手首の包帯を見る。痛ましげに、そして疑わしげに。

「――どういう意味?」

 女の口調は変わった。

 十兵衛を見つめる眼差しも氷のように冷たくなった。

「どうして怪我を?」

「あなたに関係あるの?」

 十兵衛の問いに女は答えない。逆に問うてきた。十兵衛は言葉を失った。女の修羅場には慣れていないのだ。

「ある」

 と十兵衛は言うしかなかった。いつの間にか十兵衛の表情には鋼の決意が現れている。

 女も黙った。十兵衛の表情に、死を覚悟した男の顔に見惚れていた。

「魔性を討たねばならぬ」

 十兵衛は女の顔を見ながら言った。

 女もまた十兵衛を正面から見つめた。

 互いに好ましい異性と思ったかもしれぬ。だが運命とは残酷だ。

「――御免」

 十兵衛の動きは早かった。彼は素早く女の元へ近寄り、寝具をはぎ取った。

 次の瞬間、女は跳躍して天井に貼りついた。

 十兵衛は女を見上げて絶句した。女の下半身は巨大な蜘蛛であった。

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