決意
女心は永遠の謎――
十兵衛はそれを痛感させられた。
彼に新たな依頼が来たのだ。
「あの子を守ってください……」
女官は十兵衛に嘆願した。最初に十兵衛と沢庵を出迎えた女官である。
何者かは知らないが高位の者であるらしい。
「あの子は寂しがっているのです……」
女官の憂いを帯びた顔、潤んだ瞳。
今にも泣きだしそうな女官を見つめて、十兵衛も息を呑んだ。
「どうか、魔性を……」
女官は知っている。内裏にも武術はあり、それを身につけている者が内裏の警護に当たっている。
だが七郎のように人を斬った者はいない。
ましてや十兵衛は、江戸で三代将軍家光の辻斬りを止め、駿河では大納言忠長の狂気を制している。
二人とも十兵衛の「無刀取り」によって制されたという。
十兵衛は天下騒乱の危機を二度も防いだ実績があるのだ。
十兵衛が内裏に迎え入れられたのは、その実績を沢庵が伝えたからだ。
それがなければ十兵衛は門前払いされていたろう。
「……承りました。小生、命懸けて月ノ輪様をお守りしましょう」
言った、言い切った。十兵衛は言ってしまった。
彼の弱点は人がいいことと、そして女に弱いことだ。
家光の時は春日局に、忠長の時は真田の姫に頼まれたのだ。
春日局は家光の実母と噂され、真田の姫は忠長の愛妾であった――
(ど、どうすればよい……?)
女官が去ってから、全身を冷や汗で濡らした十兵衛は庭に出た。
正直とんでもないことを引き受けてしまったと戦慄している。
あの女官は、ひょっとすると月ノ輪の母親だろうか。だとしたら将軍家光の血縁者だ。
いや、娘を思う母の愛の深さにこそ十兵衛は心を動かされた。
だかしかし――
(女の頼みを聞くと、ろくなことがない……)
人のいい十兵衛すらが思わず舌打ちしたくなってしまった。女性の依頼を受けるのは三度目だ。
内裏に現れる魔性は幽玄の使者かと思われるが、一度決めれば十兵衛も肚が決まった。
(今宵、死すとも未練なし。月ノ輪様をお守りするのだ!)
十兵衛は敵と戦う術を血と魂の中に受け継いでいるのだ。
その血が彼に死を覚悟させ、魂が戦うことを決意させた。
あとは月ノ輪を守るために、死力を尽くして戦うだけだ。
命、燃え尽きるまで――
夜になった。
月ノ輪の寝室の隣で、沢庵は一心不乱に不動明王真言を唱え続けていた。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン……」
沢庵の真言は延々と繰り返される。夜通し続くのだ。
真言を唱え続ける沢庵に疲労感はない。沢庵にとって真言を唱え続けるのは呼吸をするのと同じことだ。
(さすがは)
と、柱に背を預けた十兵衛は感じ入った。沢庵と父の又右衛門は交流があり、互いに高めあってきたという。
(現れるか魔性)
十兵衛は愛刀の鞘を握っていた。いつでも抜刀できるように。
内裏に現れる魔性とは、朧な姿をしているという。魔性を見たのは月ノ輪だ。
ある夜、月ノ輪は凄絶な悲鳴と共に飛び起きた。近侍の女官たちも、たちまち飛び起きた。
――ま、魔物じゃ……
近侍に告げた月ノ輪は蒼白だったという。以来、近侍の女官は寝ずの番をするようになった。
魔性を見たのは月ノ輪しかおらず、疑った者も少なくない。
普段、月ノ輪は寂しさから近侍の女官らに辛く当たっており、それゆえ評判がよろしくなかった。
魔性は存在を疑問視されていたが、夜警の者が奇怪な死を遂げた……
(それでようやく禅師が呼び出される事態になったか)
十兵衛は脳裏に月ノ輪の――
どこか寂しげな顔を思い浮かべた。開いた襖の先に横たわって眠る彼女は、今はどんな夢を見ているのか。
その時、沢庵の真言が止まった。
「いかがされましたか」
と十兵衛が声をかける前に、彼も異変に気づいた。突如として肌を刺すような冷気を感じたのだ。
冷気は外から伝わってくる。部屋の中は蝋燭の灯りに照らされているが、振り返った沢庵の顔から血の気が引いている。
「十兵衛……」
「応」
十兵衛は愛刀、三池典太を鞘ごと握って立ち上がった。




