少女、月ノ輪
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月ノ輪という少女は大変なわがままで、手に負えないとのことだった。
「ほほう」
十兵衛は庭に出た。朝食の時間だというのに月ノ輪は姿を見せない。
庭に出て隠れてしまうので、女官たちは手を焼いている。
「月ノ輪様、朝食のお時間ですぞ」
十兵衛は庭で呼びかける。庭園とでも呼ぶべき広い庭は深緑に覆われていた。
「良いところだ……」
十兵衛は左の隻眼を閉じて深呼吸した。自然に微笑が浮かぶ。この緑あふれる庭園は大自然の一部であり、天地宇宙ともつながっている……
そんな感覚に包まれた十兵衛に、小石が数個、風を切って飛来した。
「おっとっとっ」
十兵衛、飛んできた小石を避け、右手で防ぎ、左手で払いのけた。
更に数個飛んできた小石を避け、しばらく待つ。やがて緑の繁みをかきわけ、十歳ほどの少女が現れた。
「さ、月ノ輪様」
「ふん」
月ノ輪と呼ばれた少女は、そっぽを向いた。
以前は女官が小石に悩まされたが、今は十兵衛が軽くさばいてしまう。
月ノ輪はそれが面白くないのだ。
「朝食なぞいらん」
「まあまあ、腹が減っては戦ができませぬ」
十兵衛は月ノ輪の手を引いて、歩き出した。はたから見れば親子くらいには見える。
「何の戦じゃ」
「生きるという戦でございます」
十兵衛は答えた。彼にとって生きるとは戦いなのだ。
朝食後、沢庵は畳に横になってうたた寝しているようだ。
夜は月ノ輪の寝室の隣で、ひたすらに不動明王真言を唱えている。魔を降伏する不動明王の真言が、魔性を追い払うはずだから。
「無理もない……」
十兵衛、大きなあくびをした。彼もまた連日徹夜で月ノ輪と沢庵の護衛だ。
魔性が現れればそれを斬り、怪異を鎮める――
それが十兵衛の任だ。すでに死ぬ覚悟はしていた。
また、当初は幕府ゆかりの十兵衛を毛嫌いしていた内裏の者も、月ノ輪の投石を軽くあしらう様子に刮目した。
また、月ノ輪がわずかながらも十兵衛に心を許してきていることに、一目置いていた。
なんにせよ破格の大抜擢だ。数日で月ノ輪は十兵衛を側に侍るようになったのだから。
これには内裏の中で大いに嫉妬の念が湧き上がったが、かといって、十兵衛を前にしては何も言えない。
十兵衛は内裏の誰とも雰囲気が違っていた。暗い隻眼も月ノ輪と共にある時、優しい光を放つ。
何にも増して、その静かな迫力に内裏の者は気圧される。
十兵衛は人を斬ったことがあるのだ――
「おぬしは何をしておったのだ」
朝食の後、月ノ輪は十兵衛にたずねた。彼女は内裏の外で生活していた十兵衛に関心があった。
いや、月ノ輪は父母が側にいない寂しさを十兵衛でまぎらわせているのだ。
「将軍の小姓をしておりました」
十兵衛は三代将軍家光の小姓として城勤めしていた。
「どんなものか」
「またこれが七面倒なことで」
十兵衛は「おい、あれだ」と度々、家光から命じられた。
「あれとは?」
「それがわからないと小姓が務まりませぬ」
月ノ輪は目を丸くした。
「あれというのは、上様の飼い猫だったり、数日前の稽古のことだったり、朝食のことだったりするのですが」
「な、なぜ十兵衛はあれがわかったのだ?」
「勘…… ですかなあ」
と十兵衛は首をひねる。彼にもよくわからないことだ。
これは十兵衛が右目を失ったことと関係があるかもしれぬ。十兵衛の父の又右衛門は、よく言っていた。
――失った右目に、はるかに勝るものを得たようだ。
と。それが何なのか詳しい説明はなかったが、おそらくは五感を越えた第六感とでもいうべきものだったろう。
そうでなければ家光の「あれ」が何を指すのか理解できまい。実際、小姓の中には精神を病んだり、務めを辞した者もいる。
家光の小姓は著名な大名の子息ばかりだったが、その彼らですらが、家光の勘気に振り回された。世間から消えてしまった者までいる。
「ほう、なるほどなあ……」
月ノ輪は、十兵衛の顔をジロジロ見ていた。十兵衛は落ち着かなくなって咳払いした。
「その右目はどうした?」
「兵法修行で失ったのですよ」
十兵衛は幼い日に父との兵法修行で右目を失った。今にして思えば、失ったからこそ得たものがあると思う。
「ち、父親に潰されたのか……」
月ノ輪はうつむいた。十兵衛は目を細めた。二人は急に互いを理解したような心地がした。
父親によって右目を潰された十兵衛。
父親から遠ざけられている月ノ輪。
ひょっとすれば、二人は似た者同士ではないのか。
「小生は別に父上を憎んでおりません」
「うむ、私だって父上を憎んでいるわけではない」
十兵衛と月ノ輪、しばし沈黙した。
やがて月ノ輪は十兵衛の左頬を平手打ちした。
スパアン!という痛快な響きに、沢庵がうたた寝から覚めそうになった。
「き、気が合うな」
月ノ輪は咳払いした。十数歳も年齢の離れた十兵衛に、彼女は複雑な思いを抱き始めている。
あるいは、だからこそ側づとめを許しているのか。
「な、なんで……?」
十兵衛は顔から血の気すら引かせて呆然とした。月ノ輪の平手打ちに全く反応できなかった。
それはいつか父の説いた「無拍子」であろうか?
それにもまして平手打ちは理不尽ではないのか。
しかし、十兵衛は幼い日に右目を失ってから、感情の働きが鈍かった。それゆえに家光の小姓を務めることができたのかもしれない。
感情の働きが半ば凍った十兵衛に、人間的な感覚を取り戻させるとは。女性は偉大である。




