好敵手
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幼い頃に七郎は右目を失った。
父との兵法修行の最中だった。
七郎が打ちこんだ木剣を又右衛門は横薙ぎに打ち払い、素早く突きを放った。
その突きが七郎の右目を潰したのだ。
(悪いことではなかった)
七郎はそう思う。
息子の全身全霊に父が応えた。
ただそれだけだ。
あれは父と息子の、最初で最後の真剣勝負だった。
その充実に七郎は救われる。
あの一瞬が七郎の全てだ。
最高の一瞬は、永遠の感動だ。
更にある。
「七郎、何か忘れておらぬか」
國松は七郎と酒を飲み交わしながら言った。
「はて、なにをですか」
「余との勝負だ」
國松の顔から笑みが消えた。
戦国の魔王と呼ばれた信長公の血を引く國松は、その容貌も性格も似ている。
それゆえに家康公から遠ざけられていたとも伝えられている。
國松の正体は、すでに死んだとされている大納言忠長だ。
「なんですと」
「無刀取り、まさか忘れたわけではあるまいな」
「いえ」
酒好きの七郎も今は酔いから冷めている。
隻眼隻腕の七郎、彼は剣術に秀でぬが無刀取りの技を身につけている。
無刀取りとは戦場における組討術のことだ。
槍折れ、刀も失った時、無手にて敵を制する技術だ。
先師上泉信綱、そして父の又右衛門より伝えられた無刀取り。
かつて七郎は、それを用いて國松の狂気を正し、天下混乱の危機を救った。
「余は忘れておらぬ、おぬしの無刀取り、そして再戦の約束をな」
「國松様、酔っておられますな」
「酔わずして生きられぬ、この世は醒める価値があるのか。武士が女子どもを守らず、刀の抜き方も知らず、弱者を虐げるのが天下泰平だというのか」
國松の憂い、七郎にもわかる。
それは世間の腐敗というものだ。
人間は生きたまま地獄に落ちた――
七郎はそう思っていた。
「國松様、やりましょう。それは我ら二人が世を見限った時に」
七郎はそう言った。
江戸城御庭番と共に江戸の治安を守る七郎。
風魔忍者の末裔を率いて凶賊を斬り捨てていく國松。
二人が死に場所を求めた時、その時が彼らの再戦の日となるだろう。
七郎は馴染みの茶屋の店先で、床几に腰かけ青空を見上げていた。
隣には麗人、月ノ輪がいる。彼女は茶と団子を楽しんでいた。
茶屋の店主おまつ、看板娘おゆり、二人は客の対応に追われていた。
「今日もお江戸は日本晴れか……」
ぼんやりつぶやく七郎の頬を、月ノ輪は平手打ちにした。
「さっきから人の話を聞いておるか!」
月ノ輪は先ほどから七郎へ盛んに話しかけていたが、全く反応がないので苛立ったようだ。
「す、すいません……」
七郎は月ノ輪に平謝りした。月ノ輪はまだ怒っている。
女性のおかげで七郎は迷いを遠く離たれる。女性は偉大である。




