邪心いかでか円満鏡裏の光明を放たん
魔性は怪鳥に似た声を発して、夜空の高みから七郎へ襲いかかった。
十尺ばかりも飛び上がった魔性――
蜘蛛女の迫力に七郎は身震いした。
素早く後方に飛び退く。目の前を、蜘蛛女の背から生えた脚の爪先が通過した。
大地を容易にえぐり取る一撃だ。まともに受ければ、七郎は肉も骨も引き裂かれていたろう。
――ひゅ
七郎は素早く左手の杖を横に薙いだ。狙い外れず、七郎の一打ちは蜘蛛女の頬に当たった。
薙いだ勢いを殺さず七郎は杖を振り上げ、打ち下ろす。その一打が蜘蛛女の脳天に炸裂した。
刹那の間に閃いた、七郎の杖術の妙技だ。刀であればできぬ動きだ。小太刀でも難しい。
ましてや七郎は隻腕だ。重い刀から離れたからこそ、七郎は新たな境地に入ったのだ。
ーーウジャアー
七郎の杖に怯んだ蜘蛛女だが、口から糸を吹きつけた。からまれば七郎の動きは封じられる。
だが、七郎は蜘蛛女の懐に踏みこみ、片膝ついて糸を避けた。
「は!」
七郎、烈火の気合。
杖を手放し、左手を伸ばして蜘蛛女の右腕をつかむ。
次の瞬間には、片膝ついたまま身を回転させた。蜘蛛女の体は宙を舞い、大地に背中から叩きつけられた。
七郎も胸から腹を大地に強打して、意識を失った。
全てを捨てた無心の一手。
後世の柔道で表現すると、左手一本でしかけた片膝つきの背負投だ。
無茶であり、無理があり、無謀である。
それでも七郎はやったのだ。
江戸の未来を守るために。
「うう……」
身を起こしたのは蜘蛛女だった。七郎はまだ意識を失っていた。
父の又右衛門が生きていれば、未熟と叱責しただろうか。
あるいは、よくぞここまでと褒めたろうか。
幾多の死線を越えて、隻眼隻腕の身になって尚、死中に活を求めるとは。
蜘蛛女は静かに七郎を見下ろしていた。両の瞳が赤光を放って輝いている。
七郎と蜘蛛女の二人を、月光が照らしていた。
(なぜ生きているのか)
翌日、七郎は馴染みの茶屋にいた。
今日は月ノ輪はいない。江戸の幕閣に用があるとのことだ。
「はい、どうぞ」
穏やかな笑みを浮かべたおまつが茶と団子を運んできた。七郎はなぜか安心した。
「さすが菩薩だ」
「何を言ってんだい」
「あら、いらっしゃっーい」
おゆりはツンツンした様子だ。おまつに言わせれば嫉妬しているとのことだ。
「やれやれ……」
七郎は青空を見上げた。彼の心と同じく澄んだ青空だ。
しかし澄みすぎてもつまらないかもしれない。
優しさだけでは人は救われない。
「あの、お花をどうぞ……」
七郎の側に花売りの女がやってきた。見慣れぬ顔だ。痩せこけて青白い顔をしている。日の光の下に幽鬼が現れたのかとすら思われた。
「人は救われるのでしょうか……」
女は言った。江戸城御庭番の遣いではない。
「どのような者も、償いをするのならば」
七郎は答えた。
沢庵禅師の説いた仏法、島原の少女ウルスラの説いた天道。
それを七郎は償いだと思っている。
人の子を喰らっていたが仏陀に諭されて、仏法の守護者となった鬼子母神のように……
「はい……」
女は七郎の前から去った。後ろ姿は妙に寂しい。
茶屋には続々と客が来る。おまつもおりんも対応に追われている。
七郎は一人で茶を飲み、青空を見つめる。
見据えるのは無明の彼方か。




