白紙の心
江戸の町中を駆ける七郎。
黒装束に身を包み、般若の面で顔を隠した七郎は、一個の魔性のようでもある。
そして、いつしか七郎は江戸城の堀の側へ来ていた。荘厳たる江戸城を見上げる七郎。
夜空には真円に近い月が輝いている。
(思えば遠くへ来たな)
これは距離ではない。心のことだ。
家光の辻斬りを止め、その後は隠密として駿河へ。
忠長の暴走を止め、次は沢庵禅師と共に京の内裏へ。
内裏に現れる魔性を斬った後は、西国大名の動静を探る旅へ。
島原の乱も見届け、江戸へ帰還。
由比正雪の野望を砕き、江戸を守った。
公には死している柳生十兵衛は、隻眼隻腕になりながらも、未だに激しい闘争の中に身を置いている……
(死ぬには良い夜だ)
七郎は夜空を見上げた。今宵で人生が終わっても、かまわぬ覚悟で夜の中に出てきた。
今まで何度、死を覚悟したか。それはわからない。
ただ思うのは、全てを捨てたからこそ生き延びられたのではないか――
そんな不思議な思いがある。明日を捨てた先に未来があったとは。
七郎は世の不思議を思う。彼より腕の立つ者とている。
なのに生き延びているのは七郎だった。無刀取りの妙技に関しては、誰よりも勝ってはいる。
だが、それも刀槍の刃の前では頼りなかった。死中に活を拾えたのは、死を覚悟した七郎の技の入りが神妙の域に達していたからだ……
「……おお、来たか」
七郎は場に現れた気配の方へ振り返った。
夜の闇の中、七郎の前方に現れた人影。
月明かりに照らされた朧な姿は丸みを帯びている。女のようだ。
その女が、ゆっくりと七郎の方へ歩み出した。背からは蜘蛛に似た長い脚が生えている。
七郎は心は白紙だ。感情も理性もない。
恐怖もためらいもない。
ただ無心の一手を放つ。
それだけだ。
七郎は左手で帯に差していた自作の杖を引き抜いた。
魔性は夜空に跳躍して七郎に飛びかかった。




