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無明の彼方  作者: MIROKU
終わりなき戦い
1/29

慶安の江戸

 夜になった。江戸は寝静まっている。

 人口の明かりのない世界。夜は真の闇に包まれていた。

 それでも人が夜に憧れるのは、何かを求めているからかもしれない。

 夜の闇の中に、日々の鬱憤を吹き飛ばす刺激があるのかもしれない。

 そして最近になって巷を騒がすのは、女の盗賊団であった。

「金を出せば殺しはしないわ……」

 商家に忍びこんだ女盗賊の一人は、家主を脅して金品を欲求した。

 家主もまた妻子の命を守ろうと、素直に従った。

 家主と妻子、更に家人らは女盗賊に縛られて、猿ぐつわもかまされた。

 黒装束に身を包んだ女盗賊たちは、手際よく荷を運び出す。

 重い千両箱も二人がかりで屋敷の外へ運んでいく。

 夜道を行く彼女たちの逃走は見事だ。

 だが、今夜は日が悪かった。

「む?」

 女盗賊たちは足を止めた。

 静かな行進を止めさせたのは、彼女たちの前方で道をふさぐように立っている黒装束の人物だ。

「んふっ」

 黒装束に身を包んだ人物は笑ったようだった。

 その顔は般若の面で隠されている。

 女盗賊たちは一瞬怯んだが、何も荷を持たぬ一人の女盗賊が、背負った小太刀を抜いた。

「先に行って!」

 凛々しくも麗しい女盗賊は般若面に斬りつけた。

 それを避けた般若面。女盗賊は尚も小太刀を振り回す。

 どうやら仲間を逃がすために、わざと大きく小太刀を振り回しているようだ。

 般若面を怯ませ、仲間を追わせぬように。

「その意気や良し」

 般若面は女盗賊の小太刀を避けて、肩からぶつかった。

 充分に手加減した体当たりだが、女盗賊は後方に一間ほど吹っ飛んだ。

 宮本武蔵は体当たりに習熟すれば、それだけで人を殺すことも可なりと述べている。

「……ほお」

 般若面は息を呑んだ。

 女盗賊は般若面の体当たりで吹き飛ばされた際に、覆面が外れていた。

 月明かりに照らされたのは、まだ十代半ばと見える少女の顔だ。



 数日後のことだ。

 おまつの茶屋に新たな看板娘がやってきた。

「い、いらっしゃいませー!」

 十代半ばの若い看板娘だ。まだ表情は固いが、全身にやる気がみなぎっている。

「んふっ」

 隻眼隻腕の七郎は店先の床几に腰かけ、茶を飲んでいる。

「新しい看板娘か……」

 七郎は微笑した。十年近くも前、この茶屋には看板娘おりんがいた。

 彼女も今は嫁ぎ、子を持つ母親となった。七郎もまた別の女性を妻とした。

 七郎の胸に飛来したのは、昔日のわびしさだった。

「きゃあ!」

 看板娘が――

 おゆりがつまずいた。

 その拍子に茶碗が宙を飛び、熱々の茶が七郎の頭に降りかかる。

「あちぃー!」

「ご、ごめんなさーい!」

 頭から熱々の茶をかぶった七郎と、必死に謝るおゆり。

 そんな二人を、おまつは慈母観音のごとき微笑を浮かべて見つめていた。



「なぜ、おゆりが茶屋にいるのだ」

「わからぬ、一体何があったのだ」

「ま、まさか、あの隻眼野郎に手ごめにされて……」

「そ、それで女にされて、男の言いなりに……」

「ゆ、許せん! 悪は許さん!」

「男は同じ人間ではない!」

 と、六人の女が怒りに燃えていた。

 が、七郎には知る由もない。



 夕刻、七郎とおまつ、そしておゆりは湯屋から出てきた。

「腹も減った、そろそろ夕飯だな」

「あたしゃ源さんのうどん屋がいいね」

 湯上がりの七郎とおまつは、まるで母親と息子のような会話をした。

「失礼だね、姉と弟のようなもんだよ」

「そんなことより、どうなってんの!」

 おゆりは顔を真っ赤にして叫んだ。

「ん、どうした」

「え、江戸では男と女が一緒に湯を浴びるのか!」

 盗賊団の一員だったおゆりは、湯屋に行ったことがない。

 女として、たまには水浴びや湯浴みをしていたようだが、江戸の湯屋は今が初めてだった。

「あまり他人を見るなよ、礼儀知らずだからな」

「そうそう、湯屋で裸を見るなんて野暮の極みよ。暗くてよく見えないけど」

「そういうことではなくて!」

 おゆりは熱く語るが、彼女の思いは空回りした。

「まあまあ、源さんのうどん屋さんは美味しいからね」

「そうだぞ、いろんな具材をうどんに盛ってだな」

 おまつと七郎が、おゆりをなだめた。

 まだ年若いおゆりは、二人にとっては手のかかる娘であり、同時に愛しかった。



 おゆりが茶屋で働くようになったのは、自分の意思だ。

「あたしゃ、もう長くないからねえ」

「な、何を言うのよ、おばあちゃん!」

「この茶屋を継いでくれる人がいればいいんだけど」

「じゃあ私がやるわ!」

 おゆりは鼻息を荒くした。そんな様子も微笑ましい。

 最近、江戸に現れた女盗賊団の一員で、最も若いおゆり。

 そんなおゆりは、おまつと対話して看板娘になることを決意した。

「やれやれ……」

 七郎には不思議な話だ。

 どうしていいかわからず、やむなくおまつの茶屋に連れていけば、このような流れになった。

 もしも法に従い奉行所に連れていけば、彼女は拷問されたかもしれない。

「いらっしゃいませー!」

 おゆりは客を出迎える。まだ二日目だが、表情はずいぶん柔らかくなった。

 彼女は仲間を忘れていない。思いは彼らと共にある。

 だが、老婆のおまつが一人で茶屋を経営し、跡継ぎがいないことに心を動かされたのだ。

 きっと仲間も理解してくれると、おゆりは信じている……

「跡継ぎができてよかったよ」

 おまつは茶屋の店先で、床几に腰かけていた。

 小さな茶屋は、おゆりと彼女目当ての客で活気に満ちていた。

「そうだな、ばあさん。これで安心だ」

 おまつの隣には七郎もいた。

「ここは遺しておきたいのさ」

「俺も同感だ」

「跡継ぎができたから安心さ、あんたも手伝ってくれるんでしょ?」

 などと、店先で七郎とおまつが話しこんでいた時、風を切って何かが飛来した。

 それは刃渡り三寸ほどの匕首だ。匕首は茶屋の柱に突き刺さる。

 その刃が貫いていたのは、一通の封書だ。左封じだ。左封じは果たし合いだ。



 夜は更け、江戸の町は闇に包まれていた。

 人の住まぬ古寺の境内に黒装束の姿が六つ――

 般若面が遭遇した女盗賊団であった。

「やつは来るか」

「来ぬならば茶屋に向かうまでだ」

「しかし、あの老婆は優しげだぞ。手を出したくないな」

「ええ、慈母観音かと思ったわ」

「ひょっとしたら、あの生き仏様に頼まれて茶屋の看板娘に?」

「それならそれでいい、あの男には責任を取ってもらおう」

 話しこむ女盗賊たち。彼女たちは揃いも揃って妙齢だ。

 女盗賊たちの母は武士の娘だ。彼女たちの祖父は、小藩に仕えていた武士なのだ。

 三代家光による改易の嵐によって、彼女たちの祖父は浪人の身になった。

 幸い、祖父らは忍びの術も習得していたから、生きるために盗賊になった。

 それから二十年近い年月が経ち、世の中も変わった。

「盗賊稼業もやめようか……?」

 女盗賊の一人が、ふと夜空を見上げた。

 見れば闇夜に巨大な蜘蛛の巣が広がっている。



 般若面は夜の中に血の臭いを嗅いだ。

 人の住まわぬ古寺に踏み入れば、そこは惨劇の場だった。

「これは」

 般若面は息を呑んだ。

 六人の黒装束の者が、寺の境内に倒れている。

 そして般若面は見た。倒れている黒装束の一人の側に屈んだ不気味な姿を。

 それは般若面に気づくと、ゆっくりと立ちあがってきた。

「こいつは……」

 般若面は懐に左手を差し入れた。右袖は夜風に吹かれている。

「魔性……」

 般若面はつぶやいた。視線は不気味な姿から離さない。

 月明かりだけでは暗くてわからないが、丸みを帯びた肢体は女のようでもある。

 だが、背には数本の長い脚が生えていた。それはまるで蜘蛛の脚のようだ。

 更に不気味な姿の両目は、闇の中で真紅の輝きを放っていた。

 これは魔性だ。正しく人外の魔性だ。

「ふっ」

 般若面は短い吐息と共に、懐から取り出した鉄扇を不気味な姿に向かって投げつけた。

 不気味な姿は背に生えた脚で、鉄扇を受け止め、弾き落とした。

 その間に般若面は突き進んでいる。

 虚を衝かれた不気味な姿が、般若面へと襲いかかる。

 般若面は不気味な姿の右手首をつかんで、素早く足元へ滑りこんだ。

 次の瞬間には、不気味な姿が前方に宙返りしていた。頭頂から境内の石畳に落ちて、鈍い音がした。

 般若面がしかけたのは、後世の柔道ならば「球車」という技だ。

 足元に何かが飛び出してくると、咄嗟に避けようとする人間の生理的反応を利用した技だ。

 足元に般若面が滑りこんだので、不気味な姿は僅かに身を浮かせた。

 その一瞬の勝機をとらえ、般若面は左手を引いて、不気味な姿を前方に投げ落としたのだ。

 並の人間ならば頭蓋が砕けてもおかしくないが、不気味な姿はよろけながらも立ちあがった。

 般若面が身構えるより先に、不気味な姿は跳躍して夜闇に溶けこむように消えた。

「……おい、しっかりしろ」

 腹を引き裂かれた六人の黒装束――

 いや、女たちの中で、まだ一人だけ息があった。

 般若面は彼女の手を握って呼びかける。

「あ、あの子をお願いします……」

 女はそれだけ言って、息絶えた。あの子とは、おゆりのことだろう。

 般若面の心は深く沈んだ。彼はまたしても女の願いに応えなければならなくなった。



 翌日、茶屋にはおゆりの姿がある。

 よく働く彼女に好意を持つ男は少なくないだろう。

「あねさんたちは、もう旅に出ちゃったかもしれない……」

「きっとねえ、おゆりが無事だから安心したんだよ」

「だよねえ、きっと」

「おゆりもお婿さんもらって、この茶屋を継いでくれたら嬉しいけどねえ」

 おまつとおゆりが、そんな会話をしていた。

 店先にいた七郎は苦い顔で茶を飲んだ。

 今日はやたらに苦みを感じた。

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