影に眠る
それは、かつての話。
始まりまでの、物語。
暗い影の底から。ずっと待ち続けていた。
厄災の器となる者を。滅びの福音をもたらす者を。
破局に恋する、愚か者を。
【やぁ、初めまして。今日からよろしくね】
『力』の器は、哀れな竜の子だった。
里を焼かれ、家族を焼かれ、憎しみの炎に呑まれた蒼い瞳。
僕が愛する、『殺意』と『自壊』と呼ぶに相応しい狂気だった。
【僕が誰かって?うーん、そうだね…君の相棒ってところかな?】
『器』を渡り歩き、心を狂わせ。本物になり代わる『寄生者』。
【殺したいのは…魔王、か。いいよ、その夢、叶えてあげる】
下劣で嘘吐き。それで結構。僕はそういうものだ。
【いつかは君の身体も…って、今の君じゃ分からないか。ごめんごめん】
無垢な君も、見ていて可愛らしく思えた。
【あぁ、それ、煙草だね。やめといた方がいいよ。肺も頭もおかしくなっちゃうから】
正直に言うと、僕以外の快楽に染まってほしくないだけ。
でも君は、恐ろしいほど素直だった。
【神様も意地悪だね。君がこんな流行病にかかるなんて】
いつからだったか。君の世話をするのが苦にならなくなっていたのは。
【え?僕に、名前?えっと…ディーとか、デリートって…そんなのは嫌って?君も我儘だね…】
『カゲノ』と名付けられた。
ディーと大して変わらない安直さだが。君が嬉しいならそれで良かった。
…いつしか、君をこのまま暗闇に閉じ込めてしまいたいと思うようになってしまった。
しかし、世界は残酷だ。
朝が君を攫って、夢もいずれ醒めてしまう。
だから、この夜が少しでも長く続くことを願う。
【何の意味があるのかって?ただの…気まぐれだよ】
去り際の口付けの意味だって、君は知らなくていい。
【エムって誰って…説明が難しいんだけど…僕の同族ってところかな?】
口がすべるようになってしまったのは、たぶん君のせい。
【もう大丈夫だよ。全部片付けちゃったから】
ある日、君の初恋が死んだ。
恋をして、初めから騙されていたと知らされて。絶望して。
君の目を覆い隠して、僕は返り血を浴びる。
【…なんで泣いてたのか分からない?悪い夢でも見てたんだよきっと】
君が傷ついた記憶なんて、不要だから。
君が僕だけを信じる理由が、僕以外に与えられるなんて許せないから。
【今日は肉の気分?いいよ、任せて】
行き場を失った初恋の花が、血の海に枯れているのも。
君は、知らなくていい。
【…同族の子を殺しはしない、か。君も優しいね】
人間も魔物も、君の前には等しく獲物。
血の匂いが染み付いた復讐者たる君に、そんな倫理が残っていたなんて。
人亜竜、日和見の一族の生き残りと、揶揄され、嫌われているのに。
そのくらいでちょうどいいと、悪人面して笑う。
嘘を吐くのも、『独り言』を口にするのも。どうやら僕のせいであるらしかった。
【『死への恐怖』を消してほしい、ね…それはダメだよ。君には生きてもらわなきゃ困るんだから】
本能的な恐怖がなければ、瞬間的な回避行動が取れなくなるから。なんて。君の夢を借りて仕立て上げた嘘だ。
【君が魔王になったら、どうする?】
君が魔王を殺す前に聞かなければならないことだった。
【…自分で喉笛掻っ切るか、僕が心臓を潰せって…君もひどいことを言うね】
自らが憎しみの形見になるくらいなら、いっそ。
【もし夢が叶ったら、どうする?】
そしたら、僕をここから連れ出したいって言うものだから。
僕の瞳が、太陽の下ならきっともっと綺麗だからって。下らない理由で。
【…そのときは、君の目も見せてね】
そんな約束を、僕らはしてしまった。
【『星亡き夜』…夜を降らせる大魔法…やっぱり、君ならできると思ったよ】
魔王軍を壊滅に追いやる一撃。
そこから、残党と戦った。
影と共に舞い、血潮の中に躍る。骸の槍を取り、剣を取り。喉の奥にまで返り血の味が染み入る。
【…まさか、ほんとになるとはね】
『ようやくか』と、仇敵は言った。
細められた、金色の三日月の瞳。亡骸を焼く葬送のかがり火。
僕の声も届かなくなるほどに、君は怒り狂うのが分かった。
影と炎が明滅する戦場。呼吸の一つでも誤れば、致命傷に直結する熾烈な殺し合い。
目に灼きつく光。肺を蝕む熱。苦痛であるはずのそれらが、君が生きているかすかな証明だった。
しかし、決着の瞬間。炎の身体に、黒い爪が食い込む中。
ようやく、魔王の唇がほころんだ。
君は、理解できなかったらしいが。
『ありがとう』と。僕の目にははっきりとそう見えた。
その後、君は気づいてしまった。聡い君は理解してしまった。
自身の瞳が、満月色に染まっていたことに。
魔王を殺した者が魔王になる、そのシステムに。
それはあの魔王の『ありがとう』の解答として、十分すぎた。
君を生かすためだった。
復讐心が、唯一の君の正当性だったから。
憎しみによる殺しの正当化がなければ、君は自殺を諦めきれなかっただろうから。
だから、ずっと黙っていた。出会った最初からずっと。
言い訳なんて、もうできなかった。
嘘を仕立てるには、君の絶望が深すぎた。
【…あぁ、ほんと。性格悪いね、神様】
このタイミングで、僕らの接続回路が壊れ始めた。
僕の手足が冷たく、動かなくなっていくのが分かった。
姿が揺らいで、ポリゴンが乱れていく。
どうやら幸いなことに、君の記憶も崩れ始めているようだった。
僕の名前を呼ぼうとして、思い出せなくなってしまっていた。
「……!!!」
焦燥と混乱に、息が吐かれ。音も出せないまま口が開閉しているのが分かった。
【愛していたよ、シノノメ】
声にノイズがかかって、割れてしまっていた。執行猶予はもうないと、痛いほどに理解した。
この気持ちは、ここで過去形にしなければならない。そうでなければ、あまりにも酷だ。
「…っ…?」
君の頬に涙が伝うのが分かった。
それでもう、十分だった。
それから、また長い間眠っていた。
今生の別れではないと、信じたかった。
謝りたかった。抱きしめたかった。でも、どちらも無意味だ。
どれだけ時間が経ったのか分からなくなってきて。
たどり着いた結論は『他人のフリ』だった。
嘘は吐き慣れている。きっとできるはず。
君を傷つけぬように、明るく優しい他人になろうと心に決めて。
【君はまだ、ここに来ちゃいけないんじゃないかな】
ようやく会えた君は、拍子抜けなほど元気そうだった。
どうやら、僕がいなくても君は救われる運命にあるらしい。
【呼ばれているみたいだね】
僕を覚えていないことに感謝して。胸の痛みを抑え込んで。
「ありがとう」
でも君は、残酷なほどに優しかった。
苦しみが、そこでようやく終わった気がした。
【…おやすみ。元気でね】
そして、暗闇の底で。静かに、永い眠りについたのだった。