第10話 5月2日 泣かないために(1)
「どうして席移動したの?」
俺は自分の席に着いて、隣にやってきた高橋さんに聞いた。
するとそれには答えず、俺に質問をしてくる高橋さん。
「西峰君、今日の最初の授業は何ですか?」
「数学だったっけ」
俺は鞄から教科書を取り出す。しかし教科書は、ふやけた指の腹みたいにシワシワになっている。
——昨日の夜のことを思い出す。
濡れた鞄から、教科書をドライヤーで乾かしていると、
「お兄ちゃん。どんだけ髪乾かすのと思ったら……しょうがないなあ手伝ってあげる」
と言ってくれた千照と二人でせっせとドライヤーを使って乾かしたのだった……。
乾いたのは良いけど、いざページをめくろうとすると、紙同士がくっつき合ってめくれないときもある。
いわゆる、カピカピになてるってやつ。
結局一枚ずつ剥がすのだが、変な剥がれ方をしてまともに読めない。
「これは困ったな」
「うん、だから私が来たの」
高橋さんは、ドヤァと可愛らしく微笑むと、綺麗な教科書を出して俺に見せる。
ちょっとだけ高橋さんの話し方がフランクになって、距離が近づいたような気がする。
「二人で使いましょう」
「このために、わざわざ隣に来てくれたの?」
「はい。だって私のせいで濡れてしまったのですよ? 西峰君気にするなって言ってくださったけど私の気が済まないのです。私のワガママです……ダメですか?」
高橋さん優しくて気が利くんだな。こんな女の子だなんて全然知らなかった。
相変わらず突っ走ってるけど、こういうところはイヤじゃないし、むしろ高橋さんの長所かもしれない。
ここまでされて断る選択肢なんて無いよな。
「ありがとう、助かるよ」
「どういたしまして。……ふふっ、よかったです」
高橋さんが嬉しそうにはにかむ。
とても可愛らしい笑顔で、もうこれは卑怯としか思えないほどに素敵だった。
「西峰君、色々考えているけど、時々油断することありません?」
「う゛っ……そうかも」
「私がチョロくて西峰君に迷惑かけるぶん、西峰君をさぽーとできたらいいなって思いました」
優し過ぎん? もしかしてこういう所に先輩につけ込まれたのだろうか。だったら許せねー。
俺はそんな気持ちを隠し、ありがたく思いながら俺は机をくっつけて教科書を開く。これで勉強の準備万端だ。
俺たちは、授業中ずっと隣り合わせで勉強をしていた。時々分からないところを教え合ったりしながら。
だけど同時に、男子たちの強烈な嫉妬の視線も浴びることになる。
「どうして西峰の奴がっ」
「もしかして高橋さん、西峰に騙されているのかな。もしかして、弱みでも握られて脅されている? 許せねー」
聞き捨てならんことも耳に入ってくるが、時間が経つにつれて、高橋さんが自ら行っているという空気が充満していく。
「くそー西峰の奴羨ましい……いったいどうやって高橋さんの心をゲットしたんだ!」
などという声が聞こえてくるようになる。
心なんてゲットしてないんだけどな。高橋さん優しいから、俺に気をつかってくれているだけなんだ。
みんなも高橋さんの素敵な内面をもっと知るべきだ。俺はそう思うのだった。
☆☆☆☆☆☆
「西峰っち、ちょっと机使っていい?」
昼休憩になると、高橋さんがよく一緒に話している女子がやってきて聞いてきた。
っちって……初めて話すはずだけどなぁ。
高橋さんの机とくっつけているので、椅子を持って来て一緒にお弁当を食べたいみたいだ。
「うん、いいよ」
そう言うと、その女子は向かい側の俺と高橋さんとのちょうど真ん中くらいに椅子を置いた。
席を立とうとすると、
「西峰君、今日お昼はどうされるのでしょうか?」
と高橋さんが聞いてきた。
「学食で食べようと思ってる」
「じゃあ、お弁当を多めに作ってきたので、一緒に食べませんか?」
「あ……う、うん。ありがとう」
ありがたい。俺がお弁当持って来てたらどうするんだと思ったけど……よく考えたら連絡先知らないか。
「ねえ、高橋さん、メッセージアプリの連絡先交換しない?」
「そうですね。本当は今朝連絡したかったですし……」
「ねえ西峰っち、うちもいい?」
えっ……なんで? と思ったけど断る理由もないので、素直に高橋さんとその友達、雪野さんとフレンド登録を済ませた。
クラスの男子どもの視線が俺に突き刺さる。雪野さんも人気があるからだろう。彼女はバスケ部で、束ねた髪の毛が可愛いスポーツ女子だ。
快活で明るく、誰とでもすぐ仲良くなる。ルックスも、当然スタイルも良い。
そんな女の子とあっさりフレンドになったのだから注目されるのは仕方ないのかも。
「じゃあ、いただきます。というか、これ高橋さんが作ったの? 美味しい」
「お口に合って良かったです」
卵焼きに、タコさんウインナーにポテトサラダ。どれも美味しかったので褒めると、照れたように笑う高橋さん。
「ウチももらいっ!」
そう言って遠慮無く雪野さんがおかずをゲットしていく。
美味しいものを食べながらだと、会話も弾んだ。
「高橋さん、クロのことご両親に話したの?」
「それが、母には話したのですが、父は昨日仕事で帰ってこなかったのでまだなんです」
「じゃあ今日言うのかな? 頑張ってね」
「はい! 昨日あの後ずっと遊んでいたんですよ」
クロ、という単語だけでピンと来たようで、雪野さんも会話に加わる。
「クロって、猫ちゃんのこと?」
「そうですね。写真見ます?」
「見たい見たい!」
さっそく、俺たちのメッセージアプリにクロの写真が送られてくる。たくさん撮ったようだ。
暇だったのかな? 高橋さんの母親が帰ってくるのも遅かったみたいだし。
ひょっとしたら、タイムリープ前はクロと一緒にいられなくて寂しかったのだろうか。
須藤先輩と付き合ったのも、寂しさにつけ込まれて無理矢理って可能性もあるな。
そうやって和気あいあいと話していると……。
「なあ、高橋優理いるか?」
教室の入り口から、聞き覚えのある声が聞こえた。見ると、そこには須藤先輩がいた。クラス中の視線が集まる。
須藤先輩は、高橋さんを見つけると、ちょいちょいと指を動かしこっちに来い、というジェスチャーをする。
「何あれ? 偉そうに。優理、ムリして行くことないよ」
「うん……」
俺も雪野さんと同意見だ。
「もし行くのなら、俺もついていくよ」
「ううん。西峰君も、雪野さんもありがとう。でも、私一人で行ってくるね。逃げてても放課後待たれたりすると思いますし。それに休憩時間もう少しで終わるから、時間になったって言って戻って来ようと思います」
「そっか。優理がそう言うなら。頑張って」
「うん!」
高橋さんは俺と雪野さんに向かって「がんばってくる」と言って須藤先輩のところに歩いて行く。
「ちょっ……」
俺が立ち上がろうとすると、どういうわけか雪野さんが俺の手を掴み止めてきた。
「西峰っち、今日の優理は大丈夫な気がする。昨日何があったか分からないけど、今の優理は強いよ」
そして俺の耳元で囁くように呟いた。
「それに、ここで出て行ったら、西峰っちが悪者になっちゃうかもだしさ。借りのようなものは作らない方が良い」
「そうか? ……わかった」
別に俺が悪者になるのはいいけど、高橋さんの負担になってもいけないのかも。
すぐそこで話すのなら、何かあれば俺たちも駆けつけられる。
高橋さんは教室の入り口で須藤先輩と話している。どうやら、どこか二人になろうと誘われたみたいだけど、高橋さんは拒否したようだ。
あの場所ならみんなの目もあるし、おかしな事はできない。
高橋さん俺の忠告を忘れていなかったのだ。チョロい女子を少し脱しているのかもしれない。
タイムリープ前だとこの時、須藤先輩に何かされたのかも。
それで嫌々付き合うことになった?
でも、そうならなかった。
高橋さんの変化を目の当たりにしたので、俺は少し嬉しい。
ちゃんと手を打てば、相手が須藤先輩だろうと勝てる——俺はそんな気がするのだ。
キンコンカンコン……。
「チッ」
須藤先輩は、時間切れと高橋さんが従わないことに、相当イラついたようだ。
高橋さんの隣にいた俺の方を見て、心底悔しそうな顔をしているように見えた。
忌々しげに、床を蹴っている。
ざまあみろだ。ほんの少しだけど、お前のたくらみを阻止してやったぞ。
高橋さんを弄んだりさせない。お前のやりたいようには絶対させない。
絶対に。