滂沱
或男は偶々目に留まった古書店にて、偶々目に留まった一冊の本を購入した。
男は普段本は読まぬ。勤めの工場は朝早く夜遅くまで稼働しており、少しばかり本を読む時間を取るくらいならば明日のために少しでも寝て体力を補いたかった。それでもたまの休みの日ともなればぼうとしていることも空しいので、町を歩いた。行く宛もなく、時間は緩やかに流れるというのに男は速足に進んだ。今日は購入した此の本を読みたくて仕方がなかった。
男は近頃胸のうちに得体の知れぬ不安、憂鬱、諦観、恐怖、それから名状し難い感情のいくつもが勝手に意思を持ち鎌首を擡げているように思っていた。その不安を払拭したくて柄にもない事をしたのだと自分でも思った。
本の背表紙には薄くなった字で「芥川龍之介全集」と書かれていた。芥川龍之介の名前を見かけたのはいつぶりだろうかと男が記憶を辿る。学生時に教科書で見たのは「羅生門」だったか「鼻」だったか、あるいは両方だったかもしれない。とにかく、芥川龍之介の作品を読んだ覚えがあるし、その表題に覚えがあるということは何かで見ているのだ。当時はうだつの上がらない学生で、試験の出題範囲ではなかったから甚だ曖昧な意識で読み流したような覚えだけはあり、すっかり中身など覚えていない。今思えば随分偏狭である。
がらんとした借家へ帰り、早速目次に目を通すと、当たり前だがそのほとんどは知らない表題だった。その中に記憶にある表題を見かけると少しだけ安心した。先ず知っている表題―――羅生門と書かれた頁を引き、其処から読み始める。
『或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた。
廣い門の下には、この男の他に誰もゐない。……
……さうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。』
男はものの十分もしない間にそれを読み終えた。はてこんな話だっただろうか。そう思いながらも、別の表題―――「鼻」を探し、頁を捲る。
『禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はいない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。……
……―――こうなれば、もう誰も哂うものはいないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。』
「鼻」も読み終えると目次へと戻り、最初の頁からまた捲り始める。時間はまだ明日もあった。男はそれから狂った様にその本を貪った。
傲慢な、しかし並ぶものなしと云われるほど腕の良い絵仏師が地獄変相図を描き上げるまでの狂気を描いた『地獄變』。
主人を亡くしてから懸命に働きやがて増長したお民とその姑と確執を記した『一塊の土』。
短命を悟った主人公が自らを阿呆と称して人生を回想した『或阿呆の一生』。
『河童』『或旧友へ送る手記』『孔雀』『春』『雛』『芋粥』『邪宗門』………書かれた時代も背景も、自身の疲れも渇きも飢えもすべて無視して目の前に広がる文章を繰り返し読み返す。その様は知らぬものが見れば飢えた獣がわずかな餌を貪る様を思い起こさせた。何遍も貪ってからやがて頁を捲り次の表題へと視線を移らせる。
男が正気を取り戻したのは、既に日暮を過ぎ、文字を追い辛くなったときだった。男は黙って立ち上がり、部屋の電灯をつけるとまた古本へと向かった。今度は読み辛くなる心配がないことに安堵した。夜更にようやく全ての頁を捲り終え、漸く男は既に夜であることに、またその分厚い本をすべて読み終わったことにも気付いた。男は習慣から本を閉じて枕元に置き、灯りを消して寝ようとした。いつもならば男が横になれば、何か悩みがあったとしても、ものの数分で眠りにつく。だが今日は暫く経っても男は眠れずにいた。枕元の本の内容が瞼に浮かぶ。絵仏師の狂気が、姑の後悔が、下人の不安が、内供のcomplexが、芥川の思考を、言葉を、文章を真似するなら、suffering―――suffering。
人間誰しも、物語の中の住人でさえこのsufferingに英訳される苦悩を抱えている。男の場合は、男の苦悩は。男に歯車は見えないが、男自身は唯の歯車である。工場で朝から晩まで働き、疲れて帰り寝る。その繰り返しで摩耗し、取り替られる存在だと思っていた。男の苦悩は孤独やcomplex、また後悔ではない。生来の意気地のなさである。
内供のように自ら今の生活を抜け出し、その果てに元の生活をと望むやも知れぬ。それならまだ好い。だがその望みを他人に望みを叶えられてしまっては、やはり虚しく思ってしまう―――五位のように。つまり男は他人から助けを乞うことができず、自らを助けることもできず、歯車であることを苦にしながらも歯車であることに安堵するジレンマから目を背けていたことを、芥川にまざまざと思い知らされたのだ。
苦しい、苦しい。嗚呼、いっそ息を止めてみようか。首を吊ってみようか、喉を捌いてみようか、あの高い建物から落ちてみようか、炭を焚こうか。男がそれを強く思っても、しかし実行に移す事は出来なかった。怖かろう、苦しかろう、何故自ら苦痛を味わうのか、そう僅かに思う度にその死に方を諦めた。そうしているうちに軈て朝日が登り、男を照らした。光が、まるで子供の頃に海の中から見た空のように揺らいで煌めいていた。
男は泣いていた事に気付いた。自らの意気地のなさがそうさせたのか、幾つもの死への連想がそうさせたのか、はたまた別の要因か、男には判らない。
男はしばらくぼうとしていたが、再び本を手に取った。人生においてほんの僅かな時間を過ごしたこの本と唯静かに向き合っている時のみが、男がsufferingを忘れて平穏でいられる時間であった。昼を過ぎた頃、軈て没頭できないほどの疲労を覚えた。外の明るさと細やかな字の読みすぎで左目の視界が切れかけの電灯のように明滅していた。
男はまるで芥川になったかのような錯覚を覚えた。右目に歯車は見えないが、左目に明滅が見える。芥川は半透明の歯車を苦にし、死期を悟ったという。もしかしたら己もそうなのかもしれない。この明滅は、やがて己の命と共に消える。芥川の作品を読み、そう本気で信じられた。
横になり、昨晩と同じく死ぬことを考えていると、男は己が昏い部屋の中に一人で佇んでいる―――いや、そこは荒野ではなく都会の雑踏のようにも思えたし、深い山の奥だったのかもしれない。兎角ふわふわとした意識の中に、曖昧な自我を覚えていた。
(ここはどこだろう。)
曖昧な思考した次の瞬間に、男は衣を剥ぎ取られ、腹を蹴られた。倒れて尻餅をついたが柔らかいものが下敷きになっていて痛みは少なかった。何が敷かれていたのか、その正体を見た男は絶句した。男は人間の死体の上にいた。恐ろしくなった男は急いで立ち上がると、床の隙間からわずかな光が差し込んでいることに気付き、近づいて下を覗き込み、その惨状を見て仰け反った。下では牛車が燃えており、飛び出してきた者がいた。そのそばで血走った眼をした猿がそれを一心不乱に絵に収めていた。その光景の、猿の眼の、執念の恐ろしさに視線を思わず彷徨わせた。手探りに逃げようとして、がしゃんと金物が鳴る音が立った。音のほうを見ると、鉄格子の向こう側にいる人間と視線が交った。
「出ていけ!」
狂気を灯した目だけが爛々と輝く影の、短く強烈な言葉に思わずその場を逃げ出した。隙間の灯りを踏み、死体を乗り越えると降りるための階段を見つけた。何とも無様に転がり落ちるように下ると、そこは坂道だった。或男たちがトロッコを押し、また或男たちはそれを見ながら休んでいた。ふと後ろを見ると、転げ落ちてきたはずの階段は無かった。
「われ、服をだめにしたのか?今日はもう帰んな。」
息を整えようとしていると、作業をしていた男に声をかけられた。そういえば、服は剥ぎ取られたのだった。なんとか声を絞り出そうとしたが、既に声の主は何処にもいない。再びトロッコを探そうとするが、長閑な作業風景は何処にもなく、坂道と思っていた場所は揺れ動き、巨大な甲板の上にゐた。遠くでは男ぶりの好い軍人が幾人かを全部艦橋へ連れていく姿があった。男は軍艦などは一度も見たことが無い。故に今見ているこの光景は、芥川の作品からほんの一部ずつを切り抜いた場面を見ているのだとようやく理解した。
(ああ、これは夢か。あの恐ろし気な苦悩は、すべて読んだものだ。)
安堵も束の間、その目の前に誰かが立つてゐた。ぼさぼさの長い髪を振り乱した血色の悪い男で、身体を見ると随分と生傷が多くぼろぼろだ。どういうわけかこの男を知つてゐる。目の前の不気味な男はゆっくりと口を開いた。
「貴様は目が覚めると死のうとし、しかしその堪え難い苦痛により運悪く死ぬことはできぬ。そして貴様は歯車から外されてやがて野垂れ死に、こうして苦痛を以て貴様に云わねばならぬ。」
「どういうことでせう。」
「俺は貴様で、貴様は俺。夢の中でだけ成得るドッペル・ゲンガアとでも云おう。貴様が死んだから俺が生まれ、俺が生まれたから貴様に会わなければならなかつた。」
「ドッペル・ゲンガアは見たら死ぬと聞いている。嗚呼、自分は死ぬのか。」
眼前の男は零れ落ちんほどに目を見開くと、男に掴み掛り叫んだ。その形相は絵師の猿のような恐ろしさがあつたが、その目には恐ろしさではなく深い苦悩が見て取れた。
「違う。生きよ。生きるのだ。お前を殺すために姿を見せたわけではない、逆なのだ。
誰もが、誰もがsufferingを抱えて生きる中で、お前も同じように生きて死ぬのだ。お前は今、たつた今其れを見、その身を以て感じてきた筈だ。人々はみなsufferingを抱えている。彼の文豪すら歯車に怯え、悟った短命と共にsufferingの末に死んだ。誰もがその胸の内に深いsufferingを抱え、そして生きねばならないのだ。お前はもうそれを知つてゐる。いいか、死ぬな。死のうとするな。お前は目が覚めたら、お前はそのsufferingを抱え、向き合い、やり直すのだ。」
力強く、しかしか細い叫びは波風の音に呑まれ響くことはなかつたが、眼前にいた男にだけ届いた。男は再び、自分が泣いてゐることを知つた。
夢から覚めると、夢と同じやうに泣いてゐた。継接ぎのやうな夢であつたが、確かに男に向けて発せられた言葉は男に届いてゐた。男は止め処なく溢れる涙をそのままにやがて呟いた。
「生きねば。」
左目の明滅は既になかつた。
芥川龍之介の作品が面白すぎてもう何も書けない。