日常と遊びと夏休み
とある日の朝、今俺は時雨とバスに乗って移動中だ。
約束通り湯野浜の海水浴場へ連れて行っている最中。だけど俺はため息しか出ない。
「普通に座ってくれないか」
「いいじゃん減るもんじゃないんだし」
時雨は俺の腕に絡み付いて離れない。百歩譲って良いとしても、余りのベタベタっぷりに周りの視線が突き刺さって痛い。
さて、事の経緯を説明しようか。
この間の大泣きの事件の時、俺は時雨を独りにしないと約束をした。そして時雨もその事が切っ掛けで更に殻が割れたのだろう。一緒に居る時は常にくっ付いて離れない始末。
俺が座ると俺を座椅子代わりに時雨が座り、するとどうだ。時雨を包み込む様な形になる。時雨はそれがお気に入りとなった。そして膝枕や腕を組んで歩くことは当たり前になるが、恥じらいの心は健在だった。隣通しに布団を強いても当然の様に俺の布団に潜り込んでは自分の寝相の悪さで朝は悲鳴を上げてはその度に俺のせいにされる。それの繰り返しが続いたからだ。
「着いた着いた」
俺は時雨の手を取りバスから降りた。すぐ目の前は海が広がっている。
「ん~、潮の香りが私を呼んでるよ」
時雨は大きく伸びをして潮の香りを身体全体で堪能している。
流石に海水浴場だけあって沢山の人で賑わっている。設営されている更衣室もちゃんと在り、障害を抱えている人用の更衣室も設備してあった。時雨をそこへ連れて行き、着替えるために一旦別れる。
俺も着替え終わり時雨の所へ戻ると、時雨も着替え終わっており更衣室の前で俺の迎えを待っていた。
「待ったか?」
「ちょうど今し方出て来たとこだよ」
時雨は俺に微笑みかけるように何かを待っていた。
「ニヤってるぞ。顔が」
俺は時雨と手を繋いで手頃な場所を探しながら言った。
「なんか違うんだけど」
時雨が繋いでいない方の手で「ねぇねぇ」と俺を突く。
「冗談だ。似合ってるって。可愛くてビックリしたぞ」
そう言った俺は時雨を見てみると何やら照れている様で、下を向きながら顔を見られない様に歩いている。
だったら聞くなよ。言った俺も恥ずかしいんだからな。
「ここら辺で良いか」
海の家から近くも遠くも無い絶妙な場所。俺はここにシートを敷き荷物を置いて、予めレンタルしておいたパラソルを刺す。
時雨をパラソルの下に座らせ俺は浮輪を膨らます。
「椿まだ~?」
一人待ちきれない様で、隣から催促の声が挙がる挙がる。もう少し待っとけ。
「うっし、膨らんだ」
空気詰めを忘れた俺は、己の肺活量をふんだんに使いやっとの事膨らまし終えた。
俺は時雨の手を引き、波打ち際まで連れて行く。
「う~、冷たくて気持ちいい」
足に被さる海水は気温三十度を超えるこの夏には気持ちの良い冷たさだ。
「おらよっと」
小さな波でバシャバシャと遊んでいる時雨のお尻を足で思い切り押してやった。
「ふえぇ!? にゃーー!!??」
前方に勢い良くバッシャーンと飛び込んだ時雨を助けに俺も海に入る。
「初めての海はどうだ?」
時雨を引っ張り起こすと笑いながらそう聞いた。
「驚いたじゃないのよ!」
「入るの躊躇ってたから。恐縮ながら後押しをと」
「初めての海を実感してたの!」
言わんともそんな事は分かっている。まぁ俺のいつもの悪戯心だよ。
前回の潮溜まりはたまたま干潮だったので出来ていたもの。時間が経っていて少々水温もあったが、それでも夏場に入るには冷たかった。今回はそんなことは関係ない初めての海水浴。時雨はそんなひと時を楽しんでいたのだが俺の思考がぶち壊した。それでも時雨は楽しそうに俺に突っ掛かってくる。
「仕返しだっ!」
時雨は俺の両肩を掴むと、足のバネを利かせ海の大地を蹴った。
「うぉあ!?」
時雨に両肩を掴まれた俺は逃げる術なし。と言うより逃げる時間も無かった。
俺は時雨諸共ものの見事に後ろへとひっくり返る。
「どうだ参ったか」
俺の上で「ニヘへ」としてやったりの顔をする時雨は無邪気な女の子の顔だった。
俺は体を起こして時雨に浮輪を嵌めた。
「ほれ、泳ぐぞ」
「おう。引っ張れ椿号ー」
浮輪でプカプカと浮かんでいる時雨。天に掲げた右の拳と共に「行けー!」のゴーサインに俺は紐を引きながら泳ぎ始めた。
「流石にしんどいな」
暫く経つと体力の衰えを感じ始めた俺は紐を放して時雨の後ろに回り押す事にした。
「ご気分はいかがですかお嬢様」
「うむ。なんとも気持ちの良い。気に入ったぞよ椿」
などとふざけた会話をしてみたりして楽しんだ。
「ねぇ椿、泳いでないけど疲れてきた」
ただ浮輪に嵌っていた時雨がグッタリ気味に訴える。
「泳がなくても波に揺られると疲れて来るんだよ。一旦休むか」
俺はそのまま足が着く所まで時雨を押した。そしてそのまま時雨を引き連れシートの場所へ戻り一先ず休憩。
「そこの海の家で飲み物買ってくるが一緒に行くか?」
「疲れたから待ってるよ」
時雨は俺に飲みたいものを言うとすぐに大の字で横になった。
飲み物を買い終えて戻ると何やら面白い光景が目に入った。
二人組みの男に話し掛けられているがあれは海によくあるナンパだな。そのせいか時雨はしどろもどろとしている。多分俺が早く戻って来ないかと焦っているのだろう。俺は時雨にこういう経験も必要かもと内心考えたが流石に助けてやろうかな。
「あの、時雨に何か御用でしょうか?」
両手に飲み物を持っている俺はそのまま声を掛けると、時雨の彼氏と勘違いしたらしくあっけなく謝って引き返した。
俺は時雨に飲み物を渡し、隣に腰掛け一応確認の意味を込めて尋ねた。
「時雨ってもてるんだな。可愛いから納得はするが…。ナンパだったんだろ?」
「そうだったけど、怖かったんだから。これでも初めて椿以外の人と話したんだからね。って言うかなんか間みたなのがあったけど何よ」
変なところで鋭いな。そこは流してくれるのが常識じゃないのか?
「それは気のせいだ。違う意味で良い経験だっただろ」
可愛いのは納得するが、扱い辛いとはとてもじゃないが言えん。
「良い経験なの?」
時雨はストローで啜りながら頭に疑問符をプカプカと浮かべていた。
「それだけ時雨に魅力があるって事だろ。男に声を掛けて貰えるって事はそう言う事だなこの場合は。だけど今後は誰かと話す機会も増えてくるから慣れないとって言うのもあるし。こういう経験があって損はしないだろ」
「だけど椿は私に靡かない……なじぇ?」
今度はストローでブクブクと空気を入れ始めた。
「少々胸が足りない」
時雨は無言で俺の二の腕を抓る。
「地味に痛い地味に痛い」
あれって柔らかい分地味に痛いんだよね。
「冗談だって。時雨はスタイルいいから問題なし…って何言ってんだ俺は」
「じゃぁ何でよ?」
「家族だからじゃないか?」
時雨は顔を傾げて再び疑問符を浮かべる。
「あのなぁ、前は犬でも一年も一緒に過ごしてんだから知らない仲でも無いんだぞ」
犬だろうが人間だろうが性格は同じだ。それ故に分かっている事もある。
「…う~ん、それもそうね」
俺の言った事に何やら納得したようだ。
飲み物の中身が空になると再び俺達は海へと繰り出した。
今度は時雨を浮輪に座らせ、海に浮かびながら日光浴させる。
「このまま島流し」
「この状況下じゃシャレになんないよ」
「大丈夫。漁船が拾ってくれる」
「その言い方リアル過ぎて逆に怖いって」
確かに明らかにシャレになっていない。何だか実行できそうな冗談である。
「ヤルか?」
「やったら毎晩耳元で呪いの呪文唱え続けるからね」
時雨の黒い笑顔に悪寒が走ると「さぁやってみなさいよ」と不敵に笑う。うわぁ怖い。
時間が経つのは早いもので、時雨が空腹を訴えだした。
「もうそんな時間か?」
「私の腹時計を甘く見ないでね」
「フフン」と得意気に言ってくれたが嬉しくない機能でもある。
俺は時雨を浅瀬まで連れて行き、抱き上げて浮輪を取ろうとした。
「あれ?」
時雨の背中と足を持ち、時雨を抱き上げるも浮輪がお尻から取れない。俺の予定では時雨を抱き上げると自然と浮輪が取れている予定だったのだが。
「なによ?」
とうとう時雨にも勘付かれてしまった。
「やっぱり尻でかいんじゃないか?」
「浮輪が小さいの!」
俺は時雨を立たせて浮輪を外した。時雨は「もう! 失礼なんだから!」と拗ねていたがそこは気にしない。
海の家に着くと俺はカレーを注文した。これが海の定番と言うもの。
「時雨はどうする」
「同じのでいいや」
時雨は無難に俺と同じものを頼んだ。
流石海の家、出てくるのが早い。早速頂く事にした。
「たまには店で食べるカレーも良いもんだな」
「私はまだ椿のカレー食べたこと無いから作ってよね」
「いつかは作ってやるわ」
俺は時雨が食べるのを手伝いながらのいつもの食事。周りは時雨の事を気が付いているようで、俺の行動ににちょくちょくと視線が来る。いちいち気にしてられないがな。
「次はどうする? 浮かぶか、流れるか、埋まるかだけど」
「何その選択肢。埋まるって何よ」
「砂に埋めて蒸し風呂みたくしてやろうかと」
「うん。休憩しよう」
時雨は疲れて嫌だったのか第四の選択肢を選んだ。
食べ終わった俺達は再びシートの方へ戻ると二人揃って横になった。
「ふ~、お腹いっぱい」
時雨はお腹をポンポンと叩いて満腹をアピール。パラソルの下日陰を占領している時雨は気持ちいいだろう。俺は日に照らされ汗が吹き出る吹き出る。食ったのカレーだし。
空を見上げていた俺は時雨に目をやるとなんとも自由だ事。
「寝てるし。疲れたうえに腹が膨れたからか?」
時雨は気持ち良さそうに眠りだした。寝顔を見てると黙ってれば文句無いんだけど。
俺は自分の太股にタオルを掛け時雨の頭を乗せた。俺は自ら時雨に膝枕をしている。
「楽しんでるなぁ」
俺は時雨の頭を撫でると、そんな風にしみじみと実感できる。
と、ここで面白半分に時雨の鼻を摘んでみる。
「ぶほぁ!」
それはいきなりだった。「私の体は有料」との寝言と共に顎にパンチを喰らった。
「どんな夢見てんだ。有料て…。夢での俺は何をやらかしてんだ」
何もしていない事と何もされていない事を祈りながら俺はヒリヒリする顎を摩る。
初めての海はよっぽど疲れたのか何時間経っただろう、俺はボーっと海を眺め続ける。
日も薄っすらと赤みを帯び始めた頃、ようやく目を覚ます時雨。
「良く眠れたか?」
気持ち良さそうに身体全体を使って伸びをする時雨はどこか残念そうだった。
「あーぁ、せっかくの椿との海だったのになぁ」
時雨は寝てしまったことを後悔していた。
「夏はまだまだ続くから、また来ればいい」
言いながら時雨の頭を撫でるのは既に日課みたいなものになっている。
「うん。そうする」
時雨は少々擽ったそうにしながら俺に寄り添い微笑んでいた。
「さて、着替える前に一枚。時雨ちょっといいか」
俺はカメラを取り出し背景を海に時雨を立たせた。
「ほら笑えー」
「いきなり笑えって言われても困るよ~」
カメラを構えている俺は時雨に笑顔を求めるが、言われて出来る事でもないようだ。
「いいから尻デカ笑ってみろー」
とりあえず俺は笑わせる気は毛頭無い。
「尻デカ言うな~!」
時雨はプンスカとピョンピョン跳んで怒っている。
「良し、オッケー」
カシャッと言うシャッター音の後に俺は時雨に「撮ったぞ」と言った。
「こんな私を残すなー!」
まだ飛び跳ね怒っている。俺は時雨を着替えさせるために歩み寄った。
「ちゃんと可愛く撮って」
時雨はぶりっ子のように顔を傾げて瞼をパチパチさせて言う。
「うん。さぁ着替えに行こうか」
「うわっ! ケチ」
俺はオールスルーして時雨を脱衣所まで連れて行く。
心配しなくても時雨は途中笑顔を見せていた所は写してある。さっき俺は言いながらシャッターを黙って何回か押していた。面白いから今は黙っておこう。
「ちなみにこの間の時雨が挟まってるのもちゃんと残してあるから」
「最っ低ー」
時雨の声は正に凍りつく冷たさだ。
「思い出? …だろ?」
「なんでそこで撮った本人が疑問を抱くのよ」
俺も分からない。ただ面白かったから撮っただけだ。これもまぁ思い出だなやっぱり。
特に何のトラブルもなく着替えも終わり荷物を取りに戻る。
片付け終わるまで時雨が波打ち際で遊びたいとの事で、俺はそこに時雨を連れて行き再び作業に戻る。持ってきた荷物を仕舞うだけなので然程時間は掛からない。
「知らないうちに凄いセピア色になったな」
俺は一人呟き周りを見渡す。
目の前の景色全てが綺麗なセピア色に染まっていた。周りの人も建物も砂も海も。見るもの全てが鮮やかな色だった。
俺は振り返ると時雨を確認し、カメラを出してこっそりと近付いた。
「ンフフ…いつかこの海も見える様になるんだ」
俺が居るのを知らない時雨は小さく誰にも聞こえない様にそう言った。
セピア色に染まった時雨の笑顔を俺は逃さなかった。
「椿!? 隠し撮りは犯罪だよ」
シャッターの音が俺の存在を気付かせた。
「俺は隠れてねぇ。堂々と黙って撮った」
そんな事はどうでもいい。俺の今の目的を果たそう。
「時雨、ここに立って、…そうこんな感じでじっとしてて」
俺から見て夕日を左側にし、麦わら帽子の左右の鍔を軽く掴む。身体全体をほんの少し右に向け少々見上げるようなポーズをしてもらった。
「ばっちりだ」
セピア色の世界。海に出来ている光り輝く夕日の道の隣に一人の少女が立っている。まるで、その道を通り何処かへ行ってしまうのでないかと思わせる様に。そんな物悲しさを感じさせる演出。
時雨には見せたいものが沢山ある。これもその一つ。
「楽しみだな」
ほらね。この笑顔が壊れないように。笑って思い出を振り返られる様にしないとな。
「ほら、帰るぞ」
「はーい」
時雨は繋いだ手を腕組に持ち直してご機嫌な帰宅となった。
三日経ったある日の朝。重大な事を忘れていた事に気付く。
「ヤベェ、今日登校日だ」
俺は氷嚢に氷を入れる為にキッチンに行き、日付に何か書いてあるカレンダーを見て思い出した。
三年最後の夏休みは今日と再来週の計二回の登校日があった。
「時雨が熱出してるしな。休むか」
登校日に休むのはいかにもズル休みしていると思われる。ましてや皆勤賞の俺が休むのは更に疑いが掛かりそうで怖い。いや、逆に皆勤賞だから信じるか? 今はそんな事はどうでもいい。どっちにしても時雨が魘されてるから早く作って持っていかないといけない。
「氷嚢だ。頭上げるぞ」
俺は時雨の頭を上げて枕と氷嚢を入れ替えた。
「ちょっと学校に電話してくるから大人しく寝てろよ」
時雨は自分の声が頭に響くのか小さく返事をした。
「さて、電話は終わったが薬が無ぇ」
病気なんてしないのでこの家には買い置きの薬が無い。有るとしたら親父の病気の治療薬くらい。てかまだあったんだな。これは捨てよう、うん、そうしよう。誰も飲まんし。
「時雨、悪いが薬買ってくるわ」
俺は部屋に戻ると時雨の隣に腰掛けていつもの様に撫でながら言った。
「行っちゃヤ」
時雨は小さな声で言うと服の裾を掴んで放さなかった。
「薬も飲まんと長引くぞ」
俺は時雨を説得するも、裾を握る手は更に強まった。
「分かったよ。居りゃぁいんだな」
時雨はニヤニヤしながら頷くと、俺は溜息を吐きそのまま観念した。
しょうがない、可哀想だが時雨が寝てくれたら買いに行くか。
☆ ☆
それは昨日の出来事。時雨が風邪を引いた原因であろう。
「あ~づ~い~よ~」
真昼間から課題をしている俺の膝枕でウダウダとしている時雨。
「だったら離れたらどうだ」
俺はそもそもの暑い原因を突きつけるも、
「それとこれとは別問題なのよ」
キリッと俺に指をさし自分の行動を当たり前のように宣言した。
何と何が別問題かは分からんが言っても無駄だろう。
「ちょっと待ってろよ」
「あうっ…い~た~い~~」
立ち上がった俺は時雨の頭をそのまま落とした。ゴンッと言う鈍い落下音は時雨が頭を打った音だ。振り返ると両手で頭を押さえて悶えている。打ち所が悪かったのだろうか。
俺は絞った濡れタオルに氷を何個か挟め、アイスも持ってきた。
「これで少しは涼しいだろ」
時雨の額にタオルを置いて、アイスの封を開けて時雨の口に入れてやった。
「はひはほー」
多分「ありがとー」と言ったのだろう。時雨はチュパチュパとアイスを舐めている。
時雨が大人しくなっている今、俺は着実に課題を進める。
「椿、もう一本」
食べ終えたアイスの棒をプラプラと振り催促された。
アイスは数分しか持たなかったか。
俺は同じアイスをもう一本時雨に渡し、提案をした。
「そんなに暑いならぬるい風呂でも入るか? 今なら水張ってあるから浸かってくれば冷えるぞ。無駄に汗もかいてるんだからサッパリするし」
「うん。そうする」
時雨は俺の提案を呑んだ。
だがこれがあんな事になるのは誰も予想しなかった。
俺は時雨が風呂に行ったのを確認すると、再び課題に向かう。
「流石に静かだと捗るな。進む進む」
俺は時間を忘れ集中することが出来た。それと同時に時雨も忘れていた事に気が付かなかった。
「三時間…マジでか」
一段落して時計を見た俺は三時間集中していた。それと同じく三時間、時雨は戻ってきていない。俺は慌てて風呂場に行きドアを開けた。
「時雨!?」
時雨はぬるま湯に浸かりながらスピスピと寝ていた。
「心配して損した」
呆れた俺は時雨を起こそうと近付いたが、よくよく考えると時雨は裸。
「起きろ時雨」
俺は目を瞑り手探りで時雨の肩を掴み揺すり起こした。
「んう?」
何度か揺さ振りようやく寝起きの声を上げた。
「起きたのか? 風引くぞ」
目を覚ました時雨は今の現状を思い出し、案の定悲鳴を上げる。
「きゃぁぁぁぁああああ!? 椿のエッチ!!」
俺は時雨の右ストレートを顔面に喰らった。心配してこうして来てやったのにこの扱い。
見事にぶっ飛んだ俺は顔面を押さえながらここは退避する。
着替え終わった時雨が戻ってくると、俺は弁解と説明をして誤解を解く作業に取り掛かるが、時雨は「私の裸見たでしょ」と、ここだけは説明しても聞かなかった。
「見なかったと言えば嘘になるが―」
「じゃぁ何で襲ってくれなかったの!」
「襲うか!」
見たならそのまま襲えと怒られる始末。もう意味が分からない。
だが時雨も俺の弁解には何とか納得してくれたが、この時から既にくしゃみやら鼻水が少々。風邪の傾向が見え始めていた。
気温が気温なので寒いと言うことは無かったから、時雨も俺も気にはしていなかった。
風呂で寝たことが風邪の原因だった。ここまで悪化するとは思わなかったが。
☆ ☆
熱があるとそれを下げ様と体も疲れ睡眠を誘う。時雨は少々魘されながらもスヤスヤと眠ってくれた。
「行くなら今のうちか」
可哀想だが眠っている今がチャンス。俺は近くの薬局に行く事にした。自転車なら片道十分位で行くだろう距離の筈。
薬局に着くと、買い置きも兼ねて少し多めに何種類かの薬を買っていた。
「時雨がごねると悪いな。子供用の薬と何かお菓子でも買っていくか」
店内を散策していると子供用コーナーにてゼリーの薬を見つけ、迷う事無くカゴに入れる。
お菓子は手頃なビスケットか。何気に栄養あったよな確か。
俺は会計を済ますと急いで家に戻る。
俺が買い物をしている頃、時雨は目を覚ましてしまった。
「…つばき?」
隣に居た筈の俺が居ない事に焦りだす時雨は、熱があるにもかかわらず俺を探すために無理矢理体を起こした。
「椿、どこ?」
歩くのもしんどい時雨は、壁に体を預けながらゆっくりと進む。
「はぁ…はぁ…。どこなの椿? …あ…れ…?」
荒い呼吸の中一歩一歩ゆっくりと階段を下り、ようやく一階にたどり着いた時雨は熱が上がり体中の力が抜けていくとそのまま力尽き倒れた。
「ただい…―時雨!?」
俺は玄関を開けて直に階段の側で倒れている時雨を発見した。
その場に買い物袋を落とした俺は慌てて時雨に駆け寄り抱き起こした。
「良かった。落ちたわけじゃ無かった」
俺はてっきり階段から転げ落ちたのかと勘違いをした。だがここで安心していてもしょうがない。額に手を当てると熱が上がっていたので部屋に時雨を運んだ。
「悪かったな。俺が居なくて焦ったんだな」
運び終えて再び布団に寝かすと、安心したかのようにスヤスヤと眠りについていた。
「あんまり心配かけんなバカ」
俺は時雨の頭を撫でると、玄関に放置している買い物袋を取りに戻る。
「とりあえず時雨の側に居るか。流石に今度はマジで怒られそうだ」
勝手に出て行った俺が悪いのだが、静かに寝かせてやりたいのも事実。だが次に起きた時に俺が居なかったらタダじゃ済まなそうだ。
俺は部屋に戻ると特に何もすることも無い。
「こういう時に課題は便利だな」
俺は小さい机を出し、カリカリと課題に取り掛かる。
お昼を回った頃、時雨が目を覚ます。
「つばき?」
時雨は隣に俺が居る事を確認すると、早速文句を言ってきた。
「何で黙って居なくなったのよ。泣きそうだったんだからね」
「はいはい。苦情はまた後日。まだ熱下がってないんだから大人しくしてろ」
時雨は布団を噛みながら俺を睨む。
「丁度いい。起きたんなら食欲あるか?」
「あんましない」
流石に熱があると何も食べたくは無い。
「関係ない。作るから食え」
「だったら聞かないでよ」
ごもっとも。だけど薬を飲むにしろ体力にしろ、少しでも食べ物を胃に入れないといけない。なのでこればっかしは強制させる。まぁ作るのは食べやすく消化の良い八分粥だ。
俺はキッチンへ行くと、お粥じゃ味気ないので卵と味噌を入れて味付けをする。卵も味噌も栄養価は高いので病人には打って付けの組み合わせ。ちなみに卵は一日一つ食べるのが良いと言われている。それだけ栄養が詰まっているという事。
「なかなか美味いもんだな」
久々に食ってみたが美味いもんだなやっぱり。味噌がいい味出してる。
俺は土鍋ごと部屋に持って行くと、
「あ、良い香り」
時雨は味噌の匂いに気付いた。
「味噌どだ。ただの塩味のお粥じゃ嫌だろ」
さっきの小さいテーブルに土鍋を置くと、俺は時雨のお椀にお粥をよそった。
「起きれるか?」
「うん。まだだるいけど大丈夫」
時雨の身体を支えながらゆっくりと上半身を起こした。
「熱っ」
俺は蓮華で杓ったお粥を時雨の口に運ぶと、熱かったのか舌を出している。
「あぁ悪い。冷ますわ」
蓮華に向かってフーフーと何回か息を吹きかけ熱を取ると再び時雨の口に運んだ。
「ほら、あーん」
「あー」
時雨が大きく口を開けると蓮華の先端を口に入れる。
「どうだ?」
「んー、美味しい。けど熱くて暑い」
「暑いのは我慢しろ」
味は大丈夫の様だ。お椀一杯分それを繰り返し、今度は薬の時間となった。
「薬買ってきたからちゃんと飲めよ」
「苦いのはイヤ。椿の口移しなら喜んで飲むよ」
時雨は頬に両手を当てて二パァっと笑い可愛らしさを出しているが取り合えずスルーで。
大人用のは苦い薬しかない。確か俺買ってきたよな子供用。
「分かった。口を開けろ」
「え!? やってくれるの!?」
「違うわ! 苦くないのも買ってきてあるからそれを飲ませるの」
ツッコミを入れなかったせいで盛大に勘違いをされた。
時雨は頬を膨らませ「ブーブー」とブーイングを俺に浴びせる。
「えーい! 口を開けい」
時雨は渋々口を開ける。苦いのを覚悟している時雨は、既に苦汁の表情で待機。
「ん…! ん? 甘い」
段々と表情が和らぐとモグモグと口内で遊ばせ飲み込んだ。
「んあ」
時雨は雛の様に再び口を開け催促する。
「これは薬でもう終わりだ」
オブラートゼリーのぶどう味。子供用だ。
「美味しかったのにな」
「ちなみに服用対象者は幼児用だ」
「そんなもの飲ませたの」
「苦いのはイヤだと思って、一応念のため予備の候補でもしかするとと思って買っておいたんだけどな」
「どうせ私は子供ですよーだ」
俺の言い回しに時雨はベーっと舌を出し拗ねてしまった。
「まぁここまで元気なら大丈夫だな。後は熱が下がるまで寝てろ」
俺はそう言うと余ったお粥を飯代わりに食べた。
「そろそろ氷も溶けてきたか」
氷嚢を取ると中を確認した。氷があと少しで溶け切るところだ。
「換えてくるわ」
土鍋を片すのと一緒に氷嚢の氷を入れ換えた。
部屋に戻りこの日は時雨の側に付いてやった。途中起きては添い寝の要求をしたり大変だったが、俺は手を握ることで勘弁してもらった。
次の日にはすっかり何時もの時雨に戻った。熱も下がり気分も宜しい様だ。
時雨が完治してから何日か経ち。どうしたモンかとカレンダーを見る今日の午前。
「夏休みはまだ長いな」
なんと俺は課題を終わらせてしまっていたのだ。後半は時雨と遊ぶ約束をしたので、出かけない日は殆どを課題に費やした成果だ。俺ってやれば出来る子なんだな。
「だが今日は生憎の雨。ダラダラしますか」
俺は時雨が居るソファーへと腰掛けると、すぐに時雨が寄り掛かって来た。
「ただでさえ今日はジメジメしてんだからくっ付くな。汗臭いぞ」
「うそっ!?」
時雨は慌てて自分の匂いを嗅いで確かめている。
「ホントだ。ちょっと汗臭いや」
やはりここは女の子。汗臭いのを気にして時雨は少し俺から離れる。
「でもいいや」
おいおい、そこはもう少し恥らうべきじゃないのか?
時雨は少しながら気にしている様だがお構い無しにベッタリとくっ付く。
「ほらほら、男の人って少し汗臭い女の子にそそられるんでしょ?」
何そのちょっとしたエロ発言。どこ情報だ全く。解らなくは無いんだけど解りたくない。それに汗臭いじゃなく汗ばんだ香りって言ってくれ。
「だからって俺の膝の上に座っていいと言う理由にはならないぞ」
時雨は既に俺の上に移動して、時雨の匂いが直接伝わってくる位置にある。
「言いながらもしっかりと包んでくれてるよね」
癖と言うのはなんとも恐ろしい。俺は躊躇いも無くシートベルトの様に手を下ろして時雨を固定していた。
時雨は嬉しいのかその腕を掴んで鼻歌を歌いながらパタパタと足がリズムに乗って動いている。
「悪いかよ」
「きゃっ」
俺はそのまま自分の足で時雨の足を持ち上げ、体を反転させて時雨を抱いたままソファーに横になった。
「ぜんぜん」
お互い仰向けになり、時雨は両手で俺の手を握ると、優しい声で呟いた。
「なら文句言うな」
時雨は笑みを浮かべながら含み笑いをしていた。
「どうした?」
俺は何故そこで笑うのか気になった。
「うんん。あったかいなって」
時雨は俺の事をそう言ってくれた。言われ慣れない俺はくすぐったく恥ずかしい。だからどうしても照れ隠しで誤魔化してしまう。
「頭か?」
「ちなみに湧いてないわよ」
「先に言うなよ」
オチを先に言うなよ。俺の楽しみが減るだろうが。
「「ふあぁ~~」」
同時に欠伸が出た俺と時雨は笑い合う。
「ふあぁ~~ぁ。たまにはのんびりと寝るか」
もう一度欠伸が出た俺は既に睡魔に蝕まれていた。
「布団じゃなくこのままがイイ」
時雨はどうあっても俺とくっ付いていたい様だ。だが本日はそれが叶いそうだ。
「椿? あれ?」
時雨は俺に抑えられているため反応の無い俺を確認できない。ポンポンと俺の脚を叩くが、時雨の頭の上から聞こえるのは俺の寝息。
「やった。寝てるよ」
時雨はキラキラと笑顔を見せると、俺の手を抱き枕代わりに掴み目を瞑る。
目を覚ました俺は時計を見ると、時刻は十四時を過ぎていた。
「まだこんな時間か。にしても汗だくだ」
この真夏にそんじょそこらの厚手の掛け布団より立派な布団を掛けているのだから当然か。
だとすると時雨の背中も汗だくだなこりゃ。
「あれ? おはよう椿。起きてたの? それにしても暑いね」
俺に続いて時雨も暑くてのお目覚め。
「んや、俺も暑くて今起きたとこ。時雨も起きたならシャワーでも浴びて来いよ。結構汗だくになってるから更に汗臭くなってきたぞ」
「ホントだ。背中がビショビショ」
時雨は言いながらひっくり返りうつ伏せになる。
「おい。マジで行って来い」
今度は時雨の背中に手を置く形になった。コップの水を掛けたのかと思うくらい背中は濡れていて汗で服がくっ付いていた。
「椿も汗臭い」
俺の胸に顔を埋めてクンクンと匂いを嗅いでいる。
「やめろ。当たり前だ時雨が被さってたんだから」
俺は時雨を引き剥がすと風呂へと追いやった。
「さて、俺は…」
俺はどうしようかと考えながら外を見るとまだ雨が降り注いでいる。
「どうせ汗で濡れてるんだからいっか」
サンダルを玄関から持って来た俺は、ガラッと窓を開けそこからサンダルで外へと出た。
「ふぅ~。気持ちいいけど蒸すなやっぱり」
俺は顔を上げてどんよりとした空を眺めながら雨を浴びている。
思いのほかサッパリとする感じもするが、高い気温ではある意味気持ち悪い。この微妙な気持ち加減が難しい。
「椿ー、次イイよー」
時雨がどこからか俺に向かって叫んでいる。
「分かった。今行くわ」
そこらへんにあるタオルを拾い、応急で体を拭いて風呂場へと向かった。
頭からシャワーを浴びるだけなのでものの数分程度で汗を流せる。
「さてと。どうしたもんか」
俺はどっこいしょと言いながらソファーに腰掛ける。
「うわぁ、ジジ臭い」
時雨も再び俺の上に腰掛けるも、俺の言い方がどうやら年寄り臭いのか不評の声が向けられた。
「この年になると、ちょっと体の節々が」
俺は「はあぁ~」と大きいため息を吐く。
「まだ十七でしょ」
「あぁ、言ってみただけ」
ジジ臭いのは殆どが俺の口癖みたいなものだ。気をつけても出るものは何とも仕様が無い。出るものは出ると諦めがついている。
この日は結局一日中雨続きで、ジメジメする中時雨も一日中くっ付きっぱなしだった。
快晴が何日か続いたある日の朝、珍しく時雨が俺を叩き起こす。
「椿起きて…起きて~……む~…、起きろー!!」
「うあぁ!!?」
俺はいきなりの怒鳴り声に飛び起きた。最悪な目覚めと言うより最悪な目覚ましだ。
「朝から何なんだ?」
鼓膜にダメージを負いくらくらする頭を持ち直しながらしょうがなく時雨に聞いた。
「この間は海に行ったから、山!」
時雨はズイッと顔を近づかせて山に行きたいと要求する。
「海賊から山賊に転身か?」
「私はか弱い女の子。賊だなんてそんな野蛮な事は致しませんわ。ウフン」
どこの少女マンガの女の子だよ。今時「ウフン」て…。
俺は時雨の一人漫才を見て放った一言は、
「キモッ」
この一言に決まった。
だって両頬に手を当てながらクネクネ動いてだよ、どこぞの頭が宜しくないお嬢様風に言われてみろよ。そして最後のシメはセクシーに「ウフン」だぞ。気持ち悪いしか出てこないだろ?
「何その人をバカにした様な一言」
「した様なじゃ無くて明らかにバカだろ」
朝からこんなやり取りをする為に起こされたのか俺は。だとしたら憂鬱だよ。
「こんな漫才はどうでもいいの! 山! 山に行きたいの」
とうとう漫才とハッキリ言い放ちましたよこの人。そしてどうでもいいとは。自分からやったクセして。
「そうか山か。何を狩りたいんだ」
「イノシシ…じゃ無くて、遊びに行くの!」
そうか狩りたいのは猪か。今夜はシシ鍋牡丹鍋。まぁこんな冗談は置いておくか。そろそろ時雨が可哀想だから真面目に話そうかな。
「大丈夫だ分かってる」
「始めからからかってたのは分かってるよ」
流石時雨。伊達に俺と付き合ってないな。
「だったら羽黒の階段でも上るか」
「それでイイよ」
羽黒の階段は有名といえば有名。出羽三山の一つで出羽神社がある。
早速着替えを済ませ出掛ける準備に取り掛かった。
ここからだとバスで三十分も掛からないそう遠くない場所だ。
「さて、早速登りますか」
俺はカメラを首にぶら下げながら時雨と手を繋ぎ早速階段を上がって行く。
「小学校以来だなこの階段も」
久々の羽黒に懐かしさを感じながら今は時雨と二人でここに来ている。
俺は時雨の事をどう思っているのだろう。家族? 保護者的な感覚? 結局はまだ分からない。ただ今は一緒にいる。今の時雨にはそれが一番なのかもしれない。そう思っている自分がいる。
「海も良いけど山も良いね」
時雨は俺に自然の良さを嬉しそうに話してくれる。
「緑の匂いに草木が擦れる爽やかな音色。静かに吹き抜けるささやかな風に、セミの合唱。マイナスイオンが私を満たしてくれる。空気が綺麗だよ」
「そうか。俺も自然は好きだからこういった場所に来るのは嫌いじゃないしな」
時雨は「また一緒に来ようね」と静かに俺に言った。俺は時雨に約束をする。
「必ず連れて来るから心配すんな」
繋いでいる時雨の手を強く握り返した。
時雨はニタニタと笑い喜んでいる様だ。
途中で五重塔や寄れるところで写真を撮ったりお賽銭を入れて拝んだりと立ち止まる所が多々あるが、ようやく半分まで登ってこれた。その証拠となるのが、
「時雨、休憩がてらカキ氷でも食うか?」
「うん。食べたい」
中間地点には休憩所として小さいお店があるのだ。ここで俺達は小休憩を取った。
「この時期の頑張った後の氷菓子は格別だよ」
「まだ半分だぞ」
既に頂上に着いた気分の時雨にビシッと言っておかなければ後で取り返しのつかない事になりそうな気がした。
カキ氷の御蔭で体の熱も取れたので再び登り始める。
「大丈夫か?」
俺は時雨を気遣いながら手を引いていた。
「ありがと。大丈夫」
長い階段を初めて上る時雨は疲れが見え始めてきた。少し足元が危なっかしい。
俺は時雨のペースに合わせているので思ったよりかは元気な俺でいる。
「もう少しだから頑張れ」
「は~ぃ」
流石に限界かと思ったがあと一息で登り切る所まで来ているので、時雨は重い脚を上げて頑張ってゴールを目指す。
「到着ー!」
「つ、着いた~」
時雨は疲れたのか俺に寄り掛かり一人休憩を始めた。
見るからに既に限界なので、御参りする前に再び休憩を取る事にした。
「少し歩くが先に昼飯でも食べるか」
「大賛成」
俺は時雨を連れて更に十分くらい歩くとお土産屋が見えてきた。
「飯の前に玉こん食べたい」
時雨の許可を貰い、俺は山形名物の玉こんにゃくを二本買った。割った割り箸に三つの玉こんを刺す。これが販売されている一本分だ。醤油ベースの煮汁でじっくりと煮込む。カラシを付けるとこれがまた旨い。
俺は一つを時雨に渡した。
俺が何の説明もなしに渡したので、時雨はどういった食べ物か分からない為とりあえず小さくかぶり付いた。
「あちっ」
今し方まで煮込まれていたのだから当然熱い。
「熱いから気を付けろよ」
「食べる前に言え確信犯」
「うわぁーぉ。バレテーラ」
俺はあえて何も言わなかったのを時雨は知っており、それゆえに被害は小さく押さえていた。何とも鋭くなったものだ。これは何とかしなくては。
その場で食べ終えた俺達は目の前の少し大きめの建物に向かった。
そこの一階はお土産売り場なのだが、二階は食堂になっている。
「熱いけど俺は天ぷらそば」
「私はうどんがあればそれで」
メニューに書いてあるので俺はしっかりと天ぷらを付けたうどんを注文した。
「暑い時に熱いのもたまには良いな」
「そうだね」
運ばれてきたそばとうどんを「ふーふー」と冷ましながら食べる俺達。そしてその間俺は晩飯の事を考えていた。
「今日の晩飯はキムチ鍋だ。決まりな」
「熱い上に辛いよね」
真夏に食べるキムチ鍋は最高だろ。暑い時に熱いものを食べて更に辛さで大量の汗を流しながら頂くこの贅沢。この考えに共感してくれる人達は多数いる筈だ。
「それが良いんだよ」
俺の力説に時雨は「うん」と頷いてしまった。これで決まった。俺の勝ちだ。
「さて、お参りして降りるか」
「ホンジツハイイウンドウナリヨ」
おい、なんで片言になった? 階段を下りるのそんなに嫌か?
「この階段下りたら今夜の鍋は俺が直々に時雨に食べさてやろうか?」
こんな条件を出してみたが、喰い付く訳ないだろ。何考え―
「頑張って下りよー。おー!」
時雨は何故か元気になってしまった。時雨は右手の拳を天に掲げて気合十分だ。
「鍋物だから気を使ってやろうと思っただけなんだけど」
俺は時雨のテンションに呆気に取られつつも聞こえないように呟いていた。
鍋をつつくのは良いのだが、煮だった汁物なので間違えれば火傷する。よそってやればそれまでなのだが、キムチのハネは洗濯しても落ちにくいと言うのもある。もう一つは俺がただ単にやってみたかっただけ。
気合の入った時雨は俺の左手を勢い良く引っ張り歩き出した。
「ちょっ、そんなに慌てると―」
「きゃぁ!?」
「うあぁ!?」
ほらね。こうなった。
躓いた時雨が転ぶ前に、俺は時雨が下にならない様に強く引いたが今度はその勢いで俺が後ろへひっくり返る。時雨の腕を掴んだまま引っ張られたので時雨は俺の上に転んだ。
「大丈夫か?」
「うん。無事」
怪我は無い様だ。だが俺はコンクリートに転んだ上に時雨が落ちてきたのでダメージは倍だ。お尻が痛い。
俺は時雨を起こして、痛いお尻を摩り気を取り直して再出発した。
「次は一人で転べよ。ついでに転んだ先は命が無いと思え」
次に転んだら階段から真っ逆さまに転げ落ちる。転んで落ちたら多分死ぬだろう。俺は時雨に厳重に言い聞かす。こんな所で死にたくは無いからな。
「わ、わかったから。怖いよその威圧感」
「よろしい。こうまで言わないと時雨は危ないからな」
当たり前だ。さっきみたくおっちょこちょいで転ばれたらたまったもんじゃない。
上りより下りの方が筋肉を使う。そして下りは勢いがついて最も危険だ。
「ふぅ。半分まで来たが休むか?」
「このまま一気に行こう」
時雨は休憩は要らないようだ。そのまま俺達は止まらずに下りて行った。
「思ったより早く着いたね」
「そうだな。あとは晩飯の材料買って帰るか」
疲れも引いた時雨は俺の手を引き早く行こうと促している様だった。
まだ時刻は夕方前。午前中からゆっくり上り、普通に下りても晩飯時までは十分過ぎるほど時間がある。けどまぁ違う筋肉を使ったので早いとこ休むか。
バスを待ち、家の近所のスーパー付近のバス停で降りる。近所と言っても歩くには距離があるけど徒歩にしては近いといえば近いのだ。
すんなりと買い物を終え、何事も無く帰宅に成功。無駄なエンカウントも無く敵も出てこないので平和だ。さぁ~てこんな事を考えている俺は時雨を何だと思ってんだ?
時雨はソファーに座ると、やはり疲れが溜まっていた様でウトウトしながら横になっていった。
「時雨、ジュース飲むだろ」
俺は買い物袋をキッチンへ置いて、時雨にジュースを持ってきたところだったのだが、
「寝てやがる」
そのままテーブルにコップを置いて、部屋から薄い掛け毛布を持ってきた。
晩飯の仕度までの間は、部屋や風呂の掃除をして時間を潰した。
「もうこんな時間か」
時計を確認すると晩飯には良い時刻となっていた。
カセットコンロを先に準備して、キッチンにて材料を仕込み煮込んでから持って行く。
「よし、こんなもんだろ」
準備を整えカセットコンロへと鍋を移す。
「ん~? もう晩御飯?」
出汁とキムチの匂いで目が覚めた時雨は目を擦りながらクンクンと匂いを嗅いでいる。
「やっと起きたか? 晩飯の時間だぞ」
俺も飯の匂いで目が覚める経験してみたいな。
「いちゃじゃきまひゅ」
「寝起きで呂律回ってないぞ」
ポーッとしている時雨の頭をクシャクシャっと撫でてやった。
「う~、ごはーん」
「いでっ、俺の手を食うな」
時雨は撫でている俺の手を掴みガブッと噛んだ。噛んだと言うより食おうとした。完全に寝ぼけている。
「お・き・ろ!」
「うにゃー! いはいいはい!」
俺は時雨の両頬を摘み伸ばした。両手をパタパタと動かし痛がる時雨は目が覚めた。
「目が覚めたなら晩飯食うぞ」
「ホッペが痛いのですよ椿さん」
時雨は両頬を摩っている。引っ張ったんだから痛いわな。
俺は構わず姿勢を正してご挨拶。鍋から具をよそって先に食べ始めた。
「つ~ば~き~…はむっ!?」
俺に「む~」と苛立ちを見せてきた時雨に冷ました白菜を口に入れた。
「美味いか」
「…うん」
ゆっくりと噛みながら味わっている時雨は小さく頷く。
「約束したからな。ほれ、口を開けろ」
俺は約束した事を実行している。おれ自身も楽しいからやっている事。
時雨は雛鳥の様に口を開ける。俺はそんな時雨をホンの僅かだが黙って見ていた。
「熱いけど美味しいね」
「そうだな」
親鳥から餌を貰った雛鳥は本当に美味しそうに食べている。俺はこんな些細な事でも嬉しく思えてきた。
程よく食べ終えた俺達はこれと言って何もする事は無い。
ただ話をして、ただ悪戯をして、時雨に怒られ、これの繰り返し。変わらない毎日。
今日も時雨と話をして同じ部屋で隣通しの布団で夜を過ごした。




