新たな出会い
何も変わらないまま最後の夏休みが始まった。
時刻は午前の九時を回ったところ。
「また今年も暑いなぁ。言ってる事は毎年同じなんだが」
ソファーに座りながら独り言を言いつつウダウダと団扇を時雨に仰いでいた。何でかって? 隣で気持ち良さそうに寝始めたからだ。
十分ほど経ち、頃合を見計り立ち上がる。それは水風呂に浸かりに行く為だ。
「おい、何時から居た?」
時雨が付いて来ていない事を確認して脱衣所まで来たんだが、なぜ先に居る? てか見えてない筈だよな? 逆にこえーよ。
「しゃぁない、先に浸かってろ」
待ってましたと言わんばかりにはしゃぐ時雨を先に風呂に入れてやり、時雨はのびのびと泳ぎながら俺を待つ。
「…毎回思うが、何を思って時雨は背泳ぎを覚えたんだ?」
服を脱ぎ終え風呂場に戻ると、いつもの時雨の珍動を目の当りにする。
背泳ぎと言うより水死体に近い。体が沈んでいて四本足だけが水面に出ているのだから。
「お前気持ち悪っ!」
器用に尻尾をオールのように動かし進んでいる。見た目が気持ち悪い事この上ない。息継ぎをする為に体を反転させて顔を出し、また上手にひっくり返る。
そして華麗に水中ターンを決める時雨に抱く疑問は日に日に膨らむばかり。
「入る時だけいい顔するくせに、俺が入った途端暴れるな。嫌がらせか!? 嫌がらせだろ!?ここぞとばかりに水掛けんな! だから一緒は嫌だったんだ」
一緒に入ってくれないと悲しそうな顔をして強請る。そして断りきれず入る。知ってか知らずかこれがこいつの策略だ。俺が断れないのをいい事に。
丁度いい具合に体が冷えたから風呂出ると、気分爽快になった。
時雨を先に拭いてやると俺が着替え終わるのを待っている。
そしてまたソファーに座ると、隣で時雨が丸くなり寝る体勢に入っていた。
「そんな小さい体のくせして、あんだけはしゃぐから疲れるんだ」
小さく言いながら宿題が置いてあるテーブルを見る。
「とっとと課題終わらせるか。焦りたくないしな」
いつでも始められるように予め置いておいた課題を始める。
今日の予定は英語と数学。分からない所は多々あるが、調べながらも順調に課題を進ませて行く。勉強は集中さえしてしまえばこっちのもの。ふと気がつけば夕方になっていた。
「やっべ、もうこんな時間かよ。買い物行かんと」
時計を見た後に時雨に目をやるとまだ寝ていた。
「時雨、買い物行くけどどうする?」
呼びかけの声に耳がピクリと動くと体を起こして一声吠える。
「そうか行くか。リード繋いでやるから待ってろよ」
軽い支度を整え時雨にリードを着けて家を出る。
時雨の歩く速さなら着ける必要は無いのだが、危ない時にいちいち抱き上げる行動は以外に俺が疲れるからだ。リードさえあれば優しくチョンチョンと数回引いて合図できる。その合図で時雨は一旦足を止めて慎重に歩き出す。最初は不安がっていたがリードに慣れ始めると時雨は俺の前を歩いて合図を楽しみにしている。随分賢くなったものだ。
「大人しく待ってろよ」
店内はペットを持ち込めないから買い物を済ませるまで時雨を適当なところに繋いでおく。そしていつもしっかり待ってくれているのには理由がある。それは俺が「お利口にしてたらご褒美あげるぞ」と言ったのが切っ掛けだった。それ以来買い物に同行したときは、繋いであるところで座ったまま微動だにしない。
「これでいっか。俺も食えるし時雨も食うだろ」
晩飯の材料と例の褒美を買って時雨のもとに戻る。いつものように大人しく待つ時雨の頭をポンポンと撫で、散歩がてらの帰路につく。
「今日はジャーキー買ったからな」
家に着くと時雨のリードを外し袋を漁る。晩飯前に摘もうかと思い封を開ける。
そのままいつもの定位置のソファーに座り、時雨に褒美を与え、俺も一つ頬張ると唐突に始まる時雨イジリを開催。
「なかなか美味いな。はぁ…だけど時雨にとっては共食いか…」
思いのほか美味い事に一旦テンションを上げ、それとは打って変わって少々暗く沈んだ声で小さく呟く。
美味しそうに噛んでいた時雨は、俺の呟きを聞いて口からジャーキーを落とす。時雨が「サー」っと青ざめているのが良く分かった。
「ップハハハハハハ!! 嘘ウソ。これはれっきとしたビーフジャーキー、牛の肉です。今この時代誰も犬なんか食べねぇって。驚いただろ!」
時雨の落胆ぶりに爆笑していたが、時雨は黙っているわけも無く、
「いでででででで! 悪い悪い冗談が過ぎた。悪乗りし過ぎたゴメンごめん」
右腕に噛み付いた時雨はマジで怒っていた。本当に共食いしてしまったと勘違いしていたようだった。原因は完全に俺なんだがな。
何とか交渉してジャーキー半分で機嫌を戻してくれた。俺ってもしかして酷い人間か?
お互い落ち着きを取り戻したところで本日の夕食の冷やしラーメンを作り、時雨には特別にジャーキーを刻んでドックフードに混ぜてやり夕食をとった。
本日も一日何事も無く終わり、日付が切り替わる前に床につく。
そんな中、どこか懐かしく柔らかい夢を見る。
「彼方は今後どうするつもり?」
包み込んでくれるような優しい声。辺りを見渡すも姿は見えず声だけが直接頭に響いている感覚にあった。
唐突にどうするつもりと聞かれても、何のことだかサッパリ分からない。
「どうするっても、別にいつも通りじゃないか」
別にどうする事も無くただいつも通りのことをするだけ。何のことを言ってるんだろ?
「別に彼方はどうだっていい。あの子、時雨のこと」
ああぁ、そっちの方ね。でも俺はどうだってイイって…いくら夢でも泣くぞ。
冷たい言い分に傷つきながら渋々考える。
「時雨は目が見えない。だから危なくないように気を配りながらはやってる。これ以上どうしたらいいんだ?」
時雨に自分の出来る限りの事をしてやっている。だが範囲には限界というものがあるのは感じていた。学校があるときは置いていかないといけない、卒業して働き出せばまた同じ事。目を離した時のほうが危険が大きいのも確かだ。
「知ってるわ。あなたが時雨にしてあげた事。大切にしてくれていること。だからあなたにはお願いをしに来たの」
声の主は「フフ」っと軽く笑った。どことなくそれは嬉しそうに聞こえる。
「お願いとな」
頭に響いていた声が一旦途絶えると、目の前に一人の少女の影が現れる。声の主がその少女だと人目で分かるが、暗い影だけで姿を確認できない。
「あの子には幸せになる権利がある。そして彼方には、あの子を幸せにする義務がある。これは私からのお願い」
今度は少女の口から俺に向けられた言葉。その言葉に戸惑う。
「君からのお願い?」
疑問が残ったまま聞き返すが、疑問の答えが帰ってこないまま少女は話を進める。
「子犬のあの子に限界を感じているのは知ってるわ。だからこれは私の我が儘。あの子の所には先に行って返答は貰ってあるからご心配なく。それでは宜しくね。椿様」
少女は殆ど自分の言いたい事を言って消えてしまった。それに宜しくって…。
最後の言葉の物腰に違和感を覚えたが、疑問が残る夢はここで終わった。
目を覚ました蒸し暑い朝。怠い体を僅かな気合で動かし朝食を作りに下へ下りると、リビングのいつものソファーに一人の少女が座っていた。
「ぅお!? だ、誰だ!」
確りと戸締りをしている筈なのに目の前に人が居る事に声を出して驚き、何故か咄嗟にファイティングポーズを構えてしまった。
「えっ! えっ!?」
俺の突然の怒鳴り声に少女の体がビクッと反応した。そして少女は声がした方をビクビクしながら振り向いたが明らかに目の視点が合っていない。
視点が合っていないなら目が見えていない筈。なら大丈夫だろうと俺は構えを解いた。
「椿? お、おはよう」
少女が恐る恐る挨拶をしてきたので、一応警戒しながらも言葉を返す。
「おはよう、ドチラサマですか?」
ただ黙って座っているので、泥棒で無い事は分かるが明らかに不法侵入者だ。
一応挨拶も試みて、素性を訊ねる。
「てか何で俺の名前知ってんだ?」
この少女と友達でもなければ面識も無いし会った事も無い。全くもって初対面だ。
第一声が俺の名前に驚きつつも、少しずつ疑問点を無くして行きたい。
「信じてくれる? 私だよ、時雨だよ」
少女は不安感を押さえられなかったのか、震えた声で自分の名前を言った。
確かに犬の時雨も盲目で今姿が見えないのも事実だ。だけどもそう簡単に「はい。そうですか」となる訳がない。
「お前が盲目なのは見れば分かる。それだけではどうも―」
言い終える間に声が被さった。
「共食い」
時雨と名乗る少女は一言俺に呟く。先ほどの怯えている態度とは違い、今度は何やら背景にゴゴゴと言う効果音が入るオーラを醸し出している。何やら幻覚か少女が大きく見えた。
「忘れてないよ。私に共食だって騙した事。目が見えない事をいい事にデコピンして遊んでる事も」
仮に誰かにストーカーや盗撮をされていない限りこの事実を知る者はいない。
これでハッキリした。この少女は紛れもない時雨であった。たまに俺の悪戯の犠牲になっている時雨はまだ根に持っていた。このことを身をもって知っているんだからね。
「何か言い分は?」
時雨は勝ち誇った様に言葉を投げる。
「ごめんなさい」
それにもう一つ時雨本人だと確信を持った理由の原因はあの夢。それゆえに今は謝っておく。
「ところで今朝は何食いたい?」
俺はもう警戒する事無く隣に腰掛けると、朝食のリクエストを聞いた。
「え? し、信じてくれるの?」
時雨は俺の呆気ない態度に困惑しつつも、改めて確認してきた。
「信じる信じないも時雨は時雨だ。お前が時雨だってのは俺が一番分かってるよ」
時雨の頭を何時もの様に撫でていた。そして一つ気になることを確認しておきたかった。
「時雨は夢で影の少女に会ったか? いや、変な事を言ってるのは分かってるんだけど…」
「会ったよ」
言い終える前に時雨が一言そう答えた。
「何て言われた?」
俺の所に来る前に先に時雨に会っていると言ったことが事が気になったのだ。
「あなたは今後どうしたいって聞かれた」
俺には今後時雨をどうしたいか、時雨には今後どうしたいかと両方時雨の未来に関る質問だった。あの少女はいったい何をしたいのか更に疑問が残る。
「今のままでも良いって言ったのだけど、私には幸せになる権利がある。そして椿には私を幸せにする義務がある。そう言ってた」
俺に言ったことと同じだ。
時雨は思い返すように少女の話をしてくれた。
「あと、これは私の我が儘。あなたを人間にしようと思うの」
少女は何かを決心したかの様な口調だった。だけどもその言葉に時雨は戸惑っていた。
「けど、人間になるなんて迷惑じゃ」
「あなたも感じているはずよ。その姿のままでは椿様に迷惑を掛けてしまう事」
少女の言葉に時雨は黙り込んだ。事実なだけに言い返す言葉も無い。
「あなたには幸せになる権利がある。椿様にはあなたを幸せにする義務がある。それに言いましたよね。これは私の我が儘。椿様ならあなたが人間になっても心配ないわ」
今度はどことなく確信がある様な言い方だった。
「けど…」
「それにあなたも椿様と人間の生活を送れる。手を取り合うことも出来る」
時雨は悩んだ末に少女の言葉を信じる事にした。
「ありがとう。次に目が覚めた時、あなたは人間になっている。私はもう行かなくちゃ。時雨…か。偶然とは恐ろしいものね。じゃぁね、その名前大切に―」
少女の最後の言葉が聞き取れなかった。けど、少女は自分のしたい事が出来たようで嬉しそうに姿を消したのは分かった。これが時雨の夢の出来事。
「返答は貰ってるって、そういうことか」
また一つ持っていた疑問は解消された。
「何が幸せかは分からんが。さっきの続き、何食いたい?」
俺に何が出来る? 何をしたらいい? 俺にどうさせたい? 少女が俺に何をさせたいのかいまいちピンと来ないが、
「椿が作るなら何でも! ドックフード以外で」
受け入れてくれた事に喜びを隠せないのか、時雨は花が咲いた様に笑っていた。
「じゃぁ適当に作るから待ってろ」
なんでこうなったのか分からないが、今この時この時間を大切にしよう。
朝食は食べやすいように食パンを焼いてバターを塗り、別の皿にはスクランブルエッグを乗せる。至ってシンプルかつ簡単な朝食にする事にした。
「朝は軽いほうが良いだろ」
「うん。ありがと」
リビングで待っている時雨の手を取りキッチンの方へと連れて行く。そして初めて二人きりの会話が交じる朝食となった。
それは何気無い些細な会話。親父が死んで以来していなかった当たり前のこと。その当たり前なことが今では普通に出来る。それは時雨も同じ事。話したいが犬のままでは会話は不可能。人になった事で出来る事も多々ある。一緒に普通の生活が出来るのもあの少女が時雨を人間の姿に変えたから。でも、人間にする意味って―
「…ばき! …椿ってば!」
「うあぁ!」
声に気がつき顔を上げると目の前に時雨の顔があった。近距離なので驚いた。
「やっと気付いてくれた。呼んでるのに返事してくれないんだもの。考え事?」
「まぁ色々と」
さらっと適当に誤魔化した。俺を呼ぶってことは何か用事でもあるのかと訊ねる。
「お出かけしよ」
「散歩? 首輪? リードは要るか?」
「それは何? プレイ? 朝一からそんな事したいの?」
不敵な笑みを見せるその笑顔に血の気が引く感覚に襲われた。これは正しく恐怖と言う負の感情。
「すまん。軽率に言った俺がバカでした」
口は災いの元とでも言うべきか。時雨の受け答えは的確だ。
時雨は使い慣れないスプーンやフォークを俺も手伝いながら朝食を食べ終える。
「出掛けるって何処に行きたいんだ?」
食後の口直しに冷たい麦茶を用意し再び訊ねる。
「じゃぁ山に」
「蚊に刺されるぞ」
「海は?」
「日焼けするぞ」
こんな暑い日に出かけたくないので尽く否定。
「ぶ~…川!」
川!? 皮、河、川…。ヒットポイントはもう僅か。回避手段を考えるが無い頭では何も出てこない。
「椿、川に連れて行って」
回避行動が間に合わず、二連続攻撃にてあえなく撃沈。
「しょうがない。分かったよ」
食器を洗い、準備をする為時雨をある部屋へと連れて行った。
俺が拾われる前に既に亡くなっていたここの主の妻の部屋。写真を見せてもらったがまだ若い頃だった。片付けだけはされていたが使うことが無いので服などはそのまま残っていた。手頃な服を探して時雨に渡すが頬を紅くしながらモジモジしている。
「恥ずかしいから出て行ってくれると助かるのだけど」
「んあ? …ああぁワリィワリィ出て行く」
俺は何を思って時雨を見ていたのだろう。それは保護者としてか? 一人の女の子としてか? 何時も側にいたから何だか当たり前に感じてしまう。
時雨の着替えが終わり、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「どうかな?」
時雨はくるりと回り、恥ずかしそうに似合っているか聞いてくる。
「いいんじゃねぇ」
夏なので何か無いかと漁ると、白いワンピース? が出てきたからそれを渡した。服に興味なんて無いから分からんがとりあえず良く似合っていると思う。
時雨をリビングで待たせ出かける準備を整える。簡単に食べれるようにおにぎりを作り、水筒に麦茶を入れ手頃な鞄に入れると準備完了。
俺は時雨を呼び二人きりでのピクニックへと出かけた。
「きゃっ」
ウキウキ気分で先に出た時雨が玄関の段差に躓いた。「えっ」と思いとっさに時雨の腕を掴んで引っ張り体勢を立て直させる。
「ほれ、手ぇ繋いでやるから」
玄関の鍵を閉めて時雨の手を握る。
「ありがとね」
手を握り返すと少々照れながらお礼を言うその表情ははにかみながらも嬉しい様だ。
「その代わり俺が転んでも道連れだからな」
「その時は絶対私のクッションになってね」
時雨も俺の冗談に負けじと言い返す。何処で覚えたのやら。
「ところで何処に行くの?」
「時雨の言った川って清流の方の川だろ。ここら辺だと無いから足湯とかに連れて行ってやろうかと思ってな。どうせ出かけられれば何処でも良かったんだろ?」
「さすが椿、分かっていらっしゃる」
子犬だろうが人間だろうが時雨は時雨だ。人間になっている分今の時雨の方がやっぱり過ごしやすい。口を利ける分厄介な所もあるが、まぁこれはこれで俺も楽しい。
「足湯に浸かりたいから、湯温海に行こうかと」
「椿って時々言う事おじさん臭いよね。まぁそういう私も足湯浸かってみたいけどね」
時雨は繋いでいる手をブンブンと軽快に振りながら気分はウキウキそのもの。俺はそんな時雨を横で微笑みながら見ている。強いて言うなら時雨は見ていて飽きない。俺はこのとき初めて分かった気がする。時雨は気付いているかは分からないが、表情豊かな女の子。朝からのやり取りで俺はそう思っていた。
「湯温海は遠いの?」
「ん~、バスと電車使って温海駅までは一時間あれば着くんじゃないか?」
移動の大半は徒歩か自転車。バスや電車は殆ど使う事が無いから大体の予想だ。
「ふ~ん。聞いてみただけ」
語尾に音符が付いているのが明らかに分かる。時雨はこんな会話も楽しい様だ。
バス停までは歩いて十分ほど、そこからバスと電車を乗り継いで予想通り約一時間ほどで温海駅に到着した。
「あ、潮の匂いがするよ」
駅に到着すると海独特の磯の香。耳を澄ますと波音も聞こえてくる。
「まぁ、すぐそこは海だからな。ほれ行くぞ、ここから三十分位は歩きだ」
「う~み~、う~み~」
時雨は潮の匂いに誘われて強引に引きずる。これぞ強行手段。
「温海の海は岩場が多いから、今度湯野浜にでも連れて行ってやるよ。あそこは海水浴場だから一面砂浜だぞ」
何かしら理由を付けないとこのまま時雨に引きずられて行きそうな勢いだった事は言うまでもないだろう。
「ホント! 約束ね! 絶対だよ」
俺は時雨と初めての約束を交わす。時雨の水着姿を見てみたいのも本音の一つでもあるが、今は足湯に行きたい。
時雨の説得も成功したところで俺は手を繋ぎ直し連れて行く。
時間に縛られることは無いので目的の場所まではのんびりと歩くことに越したことは無い。
「ほら、着いたぞ」
鞄を置いて時雨をゆっくり座らせる。座った後ろは温かい湯気が上がる温泉。それに気付いた時雨は子供みたいに手でバシャバシャと湯を掻き混ぜ遊んでいた。
温度確認できた時雨はサンダルを脱ぎ捨て身体全体を反転させてチャポンと足を入れる。
「ん~~! 熱~い」
しかめっ面になり熱い湯を堪えているのがよく分かる。手と足では温度加減が違うのは当たり前。それを正に今身をもって体験中だ。
脱ぎ捨てられた時雨のサンダルを揃えて、隣に座りゆっくりと足を入れる。
「いやぁ~熱ぃなぁ」
腕を組み前屈みになりながら熱さに耐え黙って慣れるのを待つ。
先に熱さに慣れた時雨がバシャバシャとバタ足を始め、揺れる水面が俺の足を襲う。
「熱いから揺らすな」
言っても聞かない時雨に俺は体制を崩さず黙って堪える。
ふと横を見ると柄杓が置いてあった。多分誰かの忘れ物みたいだ。そして心の中で「よし!」といい事を思い付き、ここぞとばかりに実行する。
「あっつーーい!!」
時雨の悲鳴と共にあまりの熱さに俺の太股をバシバシと叩く。割と本気で痛い。
何をしたのか説明しよう。置いてあった柄杓を使い、湧き出でいる一番熱い湯を杓って時雨の足にかけてやった。当然熱い。
「つーばーきー!」
時雨の反応はごもっとも。プクーっとフグみたく頬を膨らませ怒っている顔。俺はそんな時雨が可愛く見えたが、当然とりあえず言い訳をしておく。
「言う事聞かないからだ。これを自業自得と言います」
俺は言いながら鞄からおにぎりと水筒を出した。
「ほら餌だ。食え」
「餌言うな」
未だ膨れている時雨に餌と言う名のおにぎりを渡した。手早く簡単にできるのが梅干とおかかのおにぎり。各二個ずつ握って持ってきている。
「うん。我ながら上出来」
「うん。美味しいよ」
硬さや塩加減も丁度良く、時雨も機嫌? が戻った。まぁ自分で作って自画自賛するのは気持ち悪と思うけども、おにぎりって加減が難しいんだよ。
足湯を堪能しながら食べ終えると、麦茶を注ぎ時雨に渡す。
「次はどこに行くの?」
「温泉街だから饅頭買って行くべ」
時雨が俺の方を向いて聞いてきたのは良いのだが、これはこれは可愛らしい。頬にご飯粒が付いているではありませんか。
「どうしたの椿? 何か可笑しい事言ったつもりは無いよ」
堪えていたのだが俺の笑い声が聞こえていたようだ。
「ほれ、米粒付いてるぞ」
俺は時雨の頬に付いているご飯粒を取りそのまま食べる。
「え!? …あ、ありがと」
時雨は恥ずかしかったのか顔を紅く染めて俯いた。
「気にすんな気にすんな」
時雨の頭をワシャワシャと撫でる。やってしまって俺も恥ずかしい事に気がついた。頭を撫でたのは照れ隠しなのだろう。
血行が良くなったのか只単に気温で熱いのか、それとも恥ずかしくて火照ったのか、体温の上昇に俺達は足湯から出た。
「ふ~、熱~い」
「まぁ夏だし足湯だし日も高いしな」
俺は時雨の足を拭いてやり、続いて自分の足を拭く。
「凄い照らされている気がするね」
気じゃなくて実際に照らされているんだけどね。時雨は顔を空に向けたが「う~、あぢ~」とすぐに項垂れてしまった。
「お、ちょっと待ってろよ」
近くにある売店にちょうど良さげな物をみつけ買いに走る。すぐに必要なものを買い終わり時雨の所に戻ると、
「ほらよ。これでも被ってろ」
「うわっ」
時雨の頭に麦わら帽子をはめ込んだ。
掴んでいた頭から手を放すと時雨は両手で左右の鍔を掴み帽子を整える。
「よし、行くか」
時雨の手を握り歩き出し向かった先は近くにある神社。足湯から数分ほど歩き、百段も無い階段を上がった先にある小さな神社。俺はたまにここに来るといつも立ち寄るようにしている。
「何のご利益がある神社なの?」
「? ……さぁ?」
俺はこの神社のご利益は全く気にした事がない。むしろ知らないと言った方が正しい。ただ何となく立ち寄り、何となくお賽銭を要れ拝んで帰る。只単に拝むだけで何も願わない。いつも無心で合掌する。
「あのねぇ…。じゃぁ何で拝んでるの?」
「分からんが何となくだ」
時雨は俺の行動に呆れつつも隣で一緒に手を合わせて拝んでくれる。
「じゃぁ今日も何も考えずに拝んでるの?」
「ん? まぁそんなとこかな」
時雨を適当にあしらい、菓子屋へ向かう事にした。
菓子屋は先ほどの足湯のすぐ側にあり、個人的にはお気に入りの店。
「くじら餅と饅頭食えるよな」
「確認取るならせめて買う前に聞いてよね。まぁ私は大丈夫だけど」
食べたい物を先に買い終えてから時雨に確認。時雨なら問題ないと勝手な解釈だが勿論何の問題も無かった訳なので事無きを得るということなんだけど。
ぶらぶらのんびり散歩をして過ごしながら再び駅まで戻ると、
「結構待つな」
時刻表を確認するとまだ三十分位待つようだ。
どうやって時間を潰そうか考えていると、磯の香りと波の音。そして時雨を見て思い出す。
「潮風にでも当たりに行くか」
「海!?」
時雨はキャッキャとはしゃぎ出す。よっぽど海に行きたかったらしい。
黙って待っているより少しでも有意義な時間を過ごさせて上げたいしな。
でも結局ここら辺は岩場だらけなので、手頃な潮溜まりで遊ぶしかないんだけど。
「危ないから潮溜まり歩くだけだぞ」
「分かってるよ」
俺は鞄を置いて先に入り時雨を待つ。膝くらいの水深で冷たくて気持ちい。
時雨はワンピースの丈を濡れない位の丈で合わせ、そこで玉を作るように結んでいた。
「うひゃ~冷た~」
潮溜まりは滑りやすいから時雨の両手を持って誘導するが、当の本人は初めての海に感激していた。よって足取りも心なしか軽快に動く。
「ちょっ、そんな大きく踏み出すな!」
手を取り誘導しながら歩く俺は後ろ歩き。そんな時にいきなり大きく踏み出されると、
「え!?」
「うわぁ!」
当然踏まれる。
バランスを崩した俺は盲目少女の誘導者。両手を掴んでいるので道連れは必至。
「痛つつ…時雨は大丈夫か?」
「う~、冷たい」
勢い良く尻餅をついた俺の上に抱きつくような形で時雨が降って来る。
膝くらいの水深でも尻餅を付けば風呂状態。結論は二人揃ってびしょ濡れだ。
「良かった、怪我は無いようだな」
「約束通り椿がクッションになってくれたから」
「約束した覚えは無いがな」
俺は時雨を抱き起こし自分の濡れた服を確認した。
「どうすっかなこの服。なぁ時雨…!?」
「ビショビショ~」
時雨は裾を少々持ち上げているが既に手遅れ。それ以前に時雨の姿に声を掛け辛い。
「どうしよ~」
困っている時雨を他所に俺は直視もし辛い。ワンピースって濡れると透けるんですね。
「え~時雨さん」
困った俺は咳払いを一つしてつい敬語で時雨に声を掛けた。
「なんで敬語? 気持ち悪いよ」
本当に気持ち悪そうな表情の時雨の言葉を無視して話を進める。でないと有らぬ誤解を生みそうで怖い。
「とりあえず下着が透けて見えるので乾かしましょう」
俺は正直に時雨に伝えた。ちゃんと正直に。…しかし、上下白か…。
「…えっち」
時雨は冷ややかな視線を送りつつ後ろを向いて隠す。恥じらいの心は大切に。
「しょうがないだろ見えてるモンは」
「だからってそんな直球に言わないでよ」
「さすがにオブラートには包めませんがな」
流石の時雨も降参。選択肢はただ一つ。動けないから俺に助けを求めるしかない状況。
「一人じゃ怖いんだから早く来てよ」
時雨の顔はもう真っ赤。躓きやすい岩場は俺の誘導が必要なので間近で見られてしまうからだ。
「その代わり絶対怒るなよ」
「お家に帰ったら覚えてろ~」
これは帰ったら絶対仕返しに来るぞ。まぁ今は緊急時だ。我慢してもらおう。
俺はバシャバシャと歩き、時雨を救出しに向かう。案の定時雨は恥ずかしく「う~、う~」などと唸り声を上げつつも抱きかかえられながら上陸。
「う~、恥ずかしいよ~」
「心配するな。俺だって恥ずかしいわ」
時雨は俺から下ろされるとすぐに岩の陰で小さく丸くなり蹲る。
「いや~、絞れるなぁ」
俺は男だ! と言わんばかりに上着とズボンを脱いでガッチリ絞り水分を粗方取った。
「椿だけずるいよ」
絞り落ちる水の音に時雨が反応した。どうやら俺のしたことに不満があるようだ。
「あのなぁ」
ずるいと言われても俺にどうしろと?。
「あぁあ! 今絶対時雨も脱いで絞れば良いのにとか思った! 椿絶対思った!」
おいおい…。思ったけども、確かに思ったけども。時雨に何言われるかとあえて言わないようにしたのに。
「う、うるさいうるさい。とりあえず後ろ向いてるからこれでも着てなさい」
自分の絞った上着を時雨に投げた。少々長めなのでギリギリ隠せるだろう。
「見ないでよ。伊達に一年は一緒に過ごしてないんだから」
お~怖い。時雨は俺の行動パターンが分かるのか? 確かに振り向きたいような…。
「椿」
「うわっ、ごめんなさい!」
変な下心を抱いている最中にいきなり呼ばれると咄嗟に謝っちゃうよね人って。
「見たの?」
いきなり謝られた時雨はポカンとしながらもそう訊ねる。
「大丈夫。まだ見てない」
何言ってんだろ。犯そうとした罪を白状したようなものじゃないか。
「そう…。まだ、ね。(でもちょっと残念)」
時雨は聞こえないぐらい小さな声で呟く。
「ところでどうだ? 着れたか?」
「ブカブカ~」
俺のだから当たり前だ。それに丁度良かったら隠せないだろ。
岩場の影からチョコンと時雨の姿が出て来たので迎えに側まで行った。
「時雨の着てたの貸してみ」
「え、まさか…!?」
「いくら俺でもそんな趣味は無い。絞って乾かすの」
「ですよね~」
今の時雨の俺に対する応対は七割は仕返しに値する。俺の勘がそう告げていた。
ワンピースの水分を取り、手頃な場所で綺麗に日干しをする。
「電車間に合わないね」
「日は長いから気長に待とう」
俺達は会話を楽しみつつ、時雨の服が乾くのを潮風に当たりながら待った。
日も気温も高い夏真っ盛りの今は、濡れた服も直に乾く。
「ほら、乾いたぞ」
「これじゃダメ?」
時雨は着替えたくないのかごね出した。
「流石に上半身裸で電車乗る勇気は持ち合わせてないなぁ」
仮に乗れたとしても公然猥褻罪で逮捕エンドになってしまう。
説得により時雨は渋々着替えることになり、先ほどの岩場で乾いたワンピースを再び着用。
「磯の香りが私を包む」
「磯臭い。もしくは磯女」
綺麗な言葉で今の自分を表現した時雨を一刀両断と言わんばかりに打ち壊す。
「ちょっと椿」
「清清しい日本海万歳!」
俺は拳を作った両手を天高く掲げ海に向かって盛大に叫んだ。
「誤魔化すな!」
夫婦漫才が終わり、俺達は駅に戻ると再び時刻表を確認。軽くショックを受けた。
「今度は一時間待ちか」
ついでに隣に貼ってあるバスの時刻表も見てみると、こっちはもうすぐ到着時間のようだ。
「時雨? 眠いか?」
「ん? うん」
長椅子に座り待っていた時雨はうとうとしていた。
「もうちょっと我慢してくれ」
「わかった~」
目を覆ってやれば一発じゃないのか? と言うくらい睡魔が襲っている。
駅側のバス停まで戻ると丁度バスが到着。時間は掛かるが俺達はバスで帰宅する事にした。乗り継ぎも無いので時雨はグッスリ寝れるからこれはこれで結果オーライだった。
整理券を取り後ろの海側の席へ。時雨を窓際に座らせどちらに倒れてもいい様にする。カーブの遠心力で窓に頭をぶつけないかと考えたり。しかし可哀相なので妄想で我慢。
既に眠っている時雨の頭を上半身ごと自分の方に寄り掛からせ、時雨の頭を撫でながら流れる景色を疲れたのか何も考えずに眺める。
ボーっと過ごして気が付かなかったが、既に下りるバス停の二つ前。
「時雨、もう少しで着くぞ。起きろー」
時雨の頭をポンポンと叩くと、小さいく「ん~」と言いながらゆっくり目を開ける。
「おはよー椿。朝ごはん?」
起きたはいいが寝ぼけているようだ。
「家に着いたら晩飯は作るが朝飯は明日の朝だ」
「そっかぁ、朝御飯は明日の朝か~」
時雨はそう言うと再び眠りに付いた。
「マジかぁ」
時雨は手強い。諦めた俺は仕方なく時雨を背負うとそのまま帰路につく。けど、ふとどうしても考えてしまう事があった。
「俺は時雨の面倒を見れるのか?」
確かに人になった分楽ではある。だけど何らかの形で俺が居なくなったらどうする? 俺が死んだとか…いや、それは無い無い。卒業して働いてするかも分からない結婚。俺が誰かと結婚したら時雨は居場所が無くなる。だがそれは先の事で未来なんかは誰も分からない。俺がどう行動するかなんて俺が決める事。けど今は、時雨と居る事が今の俺の時間。時雨と俺に与えられた二度と戻らない時間だ。
「ま、なるようになるか」
空を見上げため息を付く。こっちの気も知らない背中の方からは小さい寝息が聞こえる。
「呑気に寝おってからに」
時雨を背負いなおすと笑いが込み上げて来た。
「何を考えてんだか」
まだたった一日。だけど時雨とは一年過ごしてきた。幸せそうに寝ている時雨を見て一人考えていた事がバカらしくなってきた。
「俺は俺のやりたい様にする。誰がなんと言おうとやってやる」
ま、俺のする事に文句を言える奴は時雨とアイツ等しか居ないがな。
家に着くと時雨をソファーに寝かせ、無駄に余っている部屋の一つに布団を敷いた。
「必要な物は後から足すか」
足りない家具は見ることの無かった母の物や明らかに女性の使用物だろう道具を運び入れる事に。親父にしてみれば遺品だが、それをまた使える時がくるのは喜びでもあるだろう。
母の部屋に行き、手を合わせ合掌しながら「お借りします」と報告と断りを入れた。
「よし、今度は時雨を運ぶべ」
今度はソファーから布団を敷いた部屋へと輸送。海に落ちたので着替えやら風呂等を先に済ませたいところだが、気持ち良さそうに寝ているので起こすのも何だか気が引けた。
俺は先に風呂を沸かして潮風に当たった体を洗い流した。
「は~、サッパリした」
風呂から上がると今度は夕食の準備を始める。「主夫は大変だなぁ」と結婚もしてないのに一人娘を育てる男の心境に浸ってみたりしていた。
冷蔵庫を確認すると本日のメニューはチャーハンに決めた。余っている野菜を細かくみじん切りにしていると足音と一緒に「つばき~」と呼ぶ声が耳に入る。
「やっと起きたか。今晩飯の準備してるから先に風呂行って来い。そのままじゃ気持ちわるいだろ」
壁伝いに歩いてきた時雨を風呂場まで連れて行く。入ったのを確認するとタオルやら寝巻きを準備して脱衣所に置いた。
晩飯の下準備を終え、あとは炒めるだけなのでボーッと時雨が風呂から上がるのを待つ。
「椿、お待たせ」
再び壁伝いに歩いてきた時雨をキッチンの椅子へと座らせると、中華鍋で熱々のチャーハンを作った。まぁ何でも出来たてが美味いからな。
「なぁ時雨、明日はどっか行きたい所でもあるか?」
「どうしたの突然。熱でもあるの?」
こちらを向いて「え!?」と驚いた顔を見せた。気を利かせてやったのに酷い言い草だ全く。
「いや、夏休みだし遊べる時に遊んでおこうかと思ってな」
課題は時雨が寝てからや早起きでもして少しずつやっていけばいい。終わるだろ…多分。
「ねぇ水着買って」
「ヤダ」
「即答したな」
俺は躊躇しなかった。何故って? 俺だから。
「まぁ冗談だ。海に行く約束したしな」
「冗談には聞こえなかったけど。…ふふふ」
それでも嬉しそうに鼻歌交じりに喜んでいた時雨も普通の女の子をしている証でもある。
時は経ち、秒針の音が響く静寂な夜。それは突然の出来事だった。
お互い疲れたので早めに床についたのはいいのだが、眠りに着いてからどれ位の時間が過ぎたのだろう。時折聞こえる“バンッバンッ”と言う物音に目を覚ます。物音と言うよりは声も混ざっている。
「ん~? 何の音だ?」
寝ぼけた頭を何とか起動させ、重い体を起き上がらせ電気を点ける。
部屋一面が光に照らされ、寝ぼけ眼で音の出所に目をやると一気に目が覚める程、目を疑う光景を目の当りにした。
「何やってんだ時雨。一人遊びは楽しいか?」
壁からうつ伏せで上半身だけが出ている時雨を見下ろしながら問いかけた。
四角形に開けた壁の穴は以前に時雨が簡単に出入りできるように開けたもの。
「楽しくない! …つっかえたの! 助けてよ~!」
時雨は俺を涙目で見上げながら伸ばした両手でバンバンと床を叩いて訴える。
そんな事などお構い無しに、徐に時雨の真横でしゃがみ込みある構えをとった。
「にゃぁ!? あはははははっ! ちょ! にゃん!? つばき! もっ! やめ…!」
俺は何を思ったのだろう。身動きが取れないのをいい事に脇腹を擽る。
悶え苦しむ時雨は息切れを起こし、そしてグッタリとして動かなくなった。
「うむ。…寝るか」
俺は立ち上がり本来の寝床に戻ろうとすると、
「寝るな!」
ブワッと勢い良く顔を上げた時雨は叫んだ。
「なんだってこんな事になったんだ?」
呆れてものも言えないとは良くいったものだ。それは今の状況が物語っていた。
「忍び込んで驚かせようと思って。ドアだと音が響くから、前に空けて貰った穴を使おうと。お昼の仕返しにね。テヘッ」
最後は可愛く誤魔化しやがったがろくな考えでは無かった。
「まぁいいや。いいか? 引っ張るぞ」
流石にそのままにはしておけない。しょうがないので時雨の両腕を掴み引っ張る。
「いたたたたたた」
少々痛がる時雨に一旦引くのを止めた。
「つっかえてるのは尻か…」
俺は呟きながら顎に手を当て涙目の時雨を見ながら壁の後ろを想像していた。
「な、何が言いたいのよ」
時雨は気にしているのか自覚があるのか少々口篭る。
「あ、穴が小さかったの!」
言いたい事が分かったらしく、言われる前に先に言い放つも、
「明らかに時雨の尻がデカイんだろ?」
墓穴? いや、自爆。結局俺に言い放たれた時雨は、大きく頬を膨らませ「ぶ~」と唸りながらバンバンと拳で床を叩いている。たまたま近くに置いてあったカメラでその光景を残した。どうやら撮影した事に時雨は気付いていない。
「はいはい。後ろから引っ張るからな」
前がダメなら後ろからって事で廊下に出て時雨の下半身を見つける。「早く~」の声と共にパタパタと足が動く。
両足を掴み引っ張ると、うつ伏せなので胸がつっかえる事が無く思いのほかスムーズに抜ける。
「ふ~。助かったよ」
床に座り込んだ時雨は安堵のため息を付いた。だが、
「上着が…無い…」
俺のこの言葉に時雨は疑問符を浮かべながら自分の体を触る。
「うぇ!?」
今度は目の前に上半身裸の時雨が居る上に目のやり場に困った。
「椿のヘンタイ」
顔を紅潮させる時雨は咄嗟に腕で胸を隠しながら声とは反対方向を向いた。
「こっこれは不可抗力だ」
内心で「俺は何も悪く無い。今度は絶対悪く無い」と呪文のように自分に言い聞かせる。
「今上取って来るからっ」
言いながら慌てて時雨の上着を取りに戻る。
改めて見ると時雨は小さくて触れると何だか壊れそうだ。それくらい華奢に見えた。実際背負った時も軽かった。ちゃんと餌食ってたよな確か。
「ほら」
時雨に上着を渡すとそそくさと着用。そのまま俺の部屋へと連れて行った。
「うわ~、椿の匂いだ」
時雨は昔のように俺の布団に横になるが、今は俺の布団でゴロゴロと転がりながら俺の香りを堪能している。
「何で即行で俺の布団を占拠する?」
この問いかけに転がっていた時雨はど真ん中でしかも大の字でピタっと止まった。
「ここで寝ちゃダメなの? ダメなの? イイでしょ? イイに決まってるよね」
上半身を起こし、俺の声がする方へ顔を向けた時雨は押しに押した。だが俺は当然、
「勿論ダメに決まってます」
「なんで!? 前は一緒に寝てくれたじゃん!?」
そんな言い方は止めろ。そこだけ聞くと俺が遊び人みたいに聞こえるだろ。
「前は別に問題なかったの。今は時雨は人間だろ? 若い男女が一緒に寝るのは大問題なの。それに時雨、お前寝相悪いの知ってるか?」
俺は時雨の隣にゆっくりと腰を下ろした。
時雨は今の様に転がるわ人の顔の上で寝るわで寝相が良いとは断じて言えない。
「ちゃんと寝るから~、椿と一緒に居たいの~」
時雨は頭を俺の太股の上に乗せて犬だった頃のようにお強請りを始めた。
元犬のくせして猫撫で声を出しおって。
「分かった分かった分かりました」
「はぁ」とため息を吐き折れた。もしかして俺って時雨に甘い? 今の俺はそんな疑問を抱いてしまった。
もう眠いので電気を消し布団に横になる。その左隣で満面の笑みの時雨が確認できた。
「ねぇ椿、襲っちゃダメよ」
語尾にハートを付けるな。寧ろお前が俺を襲うなよ。不覚ながら可愛いと感じちゃったじゃないかバカ者が。
「誰が襲うか」
俺は顔を赤らめながら時雨とは反対の方を向いた。
「残念」
時雨は「フフ」と笑いながら俺の背中に寄り添うようにくっ付いて来た。
「なぁ時雨…。楽しいか…?」
俺は無意識に何かを確認するかのように時雨に問い掛けていた。
「うん…」
時雨は俺の背中に手を当て小さく答えた。まるでこれまでの事を感謝するかのような、心の篭った小さい一言。それは俺の心の中にまでしっかりと響いた。
「そうか。ならいいんだ」
どこか安心している俺が居た。聞かずには居られなかったのだろうか?
「お休み、椿」
寝付きが良いのか、既に寝息を立てている。時雨の方に向き直り静かに頭を撫でた。
「おやすみ。絶対お前の目見えるようにしてやるから。それまで待っててくれな」
俺は寝ている時雨にそう約束をした。
今が楽しいなら光の先は更に楽しい。俺はこの日、時雨に光を与えて上げたいと決心した。でないと自分が後悔しそうな気がした。
たった一日人間の時雨と過ごしたに過ぎないと思うけれど、俺は誰よりも時雨と過ごしてきた。それは人間になっても変わる事のない今まで過ごした時間が教えてくれた。
翌朝。時雨が隣で寝ているせいか、いつもより暑くて寝苦しい目覚め。
「何だ? 左手に当たる柔い感触…」
まだハッキリと頭が回転しない寝起き。それでも何とか考える努力をする。
①時雨の胸。②時雨のお腹。③時雨のお尻。さぁどれだ?
俺は意を決して目を開け確認を試みた。
「ぬあっ!?」
残念。導き出した答えは全て間違いだった。
俺の腕は時雨の太股に挟まれていた。恥ずかしいので具体的に言いたくはないが、猫のように丸まっている時雨は俺の腕を抱き枕代わりにしていて股に手を挟めている。これが柔らかい感触の原因だった。
驚いた俺は抜け出そうと動いてしまった。それがいけなかった。
「つばきー、ダメー」
ムニャムニャと寝言を言いながら更に縮こまり俺の腕が締め付けられる。それによって時雨の胸の感触が大変な事に、そんな事より手も大変な所にある。誰か助けてくれ。
「…? おはよー椿」
時雨が自力で起床してくれた。薄っすらと汗が出ているということは暑かった様だ。
そして起きるなり不思議そうな顔をして俺を見る。それはそうだ。俺の顔は朝一発目から困り果てた顔をしているのだから。見えない時雨は俺の焦りを感じ取ってくれた。
「時雨おはよう。起きたんなら放してくれ」
時雨は「何を?」と困惑していたが俺の腕を掴んでどこに続いてるのか下へと這わせて行き先を確認した。
「えっ? きゃぁああ!? エッチ変態スケベ!」
原因の場所へと行き着くと時雨は慌てて起き上がった。
朝から清清しいくらいの悲鳴だ。これじゃぁ俺が悪いみたいだな。
「明らかに俺じゃ無いよな?」
俺はむくりと上半身を起こし、時雨に一応確認してみる。
「椿が私の……恥ずかしくてこれ以上は言えない」
時雨は両手で顔を隠しながらモジモジと動いている。
明らかに自分は棚の上に居ようとしているな。
「お前の寝相が悪いから股に手を挟めるような事になったんだろ」
俺は言った筈だ。時雨は寝相が悪いからイヤだと。
「もー、股とか言わないでよ。せめておみ足と言って」
「分かった。朝からこんな会話はやめよう」
なんで朝からこんな会話をしないといけないんだと我に返った。
「そうだね。これはお昼位に話をしよう」
こんな会話昼時にするのかよ。
「いや、結論は時雨の寝相の問題で解決だよな絶対」
「そんな事ないもんっ!」
時雨は非を認めない。
「はいはい分かりました。朝飯朝飯」
腕を組みプンプンしている時雨の手を引いてキッチンへと連れて行き、やる気の無い朝はトーストと牛乳で朝食を済ます。
今朝の出来事のせいで随分と早起きをしてしまった。時計を見ても出掛けるにはまだ早い。時間潰しに時雨と会話をしながら課題を始めた。
「そういや時雨は俺が学校始まったらどうする?」
時雨は麦茶入りのコップを両手で持ち、それをジッと眺めながら考えている。
「俺の考えだと障害者の施設に通ってもらおうかと思ってんだ。朝は送っていくし、学校終わったらそのまま迎えに行くつもり。一人で家に居るよりかは安全で勉強できると思うぞ。まぁそこらへんは時雨の自由だ。嫌なら嫌でもいいぞ?」
俺はとりあえず夏休みが終わったらの事を考えながら時雨に話した。俺の通っている学校はそんな設備は勿論無い。なので専門の所に通った方が時雨の為と思った。
「ううん。椿がそうした方が良いって言うならそうするよ」
時雨は顔を横に振り、俺の意見に賛成してくれた。
数時間が経ち、出掛けるには丁度良い時間となる。
「行くぞー」
「ちょっと手ぇ繋ぐんだから待ってよ」
玄関先で時雨を呼ぶ俺は、外の日差しを伸びをしながら体いっぱいに浴びる。
「おまたせっ」
時雨は手探りで俺を見つけ、背中におぶさる様に抱きついてくるが、
「じゃぁ行くぞ」
俺はそのまま時雨を引き摺る様に歩き出す。
「無反応…。つれないなぁ」
いちいち相手にしてたら切が無い。だけど無反応は侵害だ。一応ドキドキしてるぞ。
「手ぇ繋いで行くんだろ?」
すると時雨は「うんっ」と元気な声を上げ、俺の横にくっ付いて来た。
「やっぱり今日は腕組だよ」
時雨は俺の腕を取り、ギューっと自分も寄って来る。暑い事この上ないが時雨が満足気なので我慢する事にしよう。
「その代わり足絡ますなよ」
「その時は椿がクッションになってくれるよ」
デジャヴ? そうかデジャヴか。…イヤ、そうじゃないだろ。
「一人でこけろ」
「か弱い私を助けてくれないの!?」
時雨はウルウルと俺を見上げ訴えている。
「時と場合とその場の勇気による」
「む……ガウ」
時雨は組んでいる俺の腕を持ち上げ顔付近まで持っていくと豪快に噛んだ。
「痛い痛い痛い!? 分かったちゃんと助けるから!」
俺は時雨に勝てる気がしない。そもそも勝つ気も無いのだが。
「分かれば良いのです」
時雨は「うんうん」と頷きながら機嫌を直す。
繁華街の商店街へと到着すると、時雨の代わりに水着フェアを見つけた。
「げ!? 結構種類あるんだな」
種類の豊富さに驚きつつも軽く店内を見て回る。
「時雨はどんなの着たいんだ?」
「分からないから椿が見立ててくれると嬉しいな」
時雨は甘えるような声を出しながら俺に見立てをお願いしてきた。
時雨はあえて言わなかったのだろう。自分では見えないから分からないと。只俺は参考までに聞きたかったのだが…。しょうがない、独断と偏見で俺が決めよう。
「う~ん…。おっ…。時雨にはこれが良いと思うな」
物色した中からある物へとその場所に足を運ぶ。
時雨に持たせ照らし合せていると、店員さんが声を掛けてくれた。
「どのようなものをお探しですか?」
笑顔でお決まりのセリフを掛けてくる店員さんに俺は時雨に持たせているセット水着の名前を思い出そうと頑張った。
「えっと、これなんだっけな? え~…、パ、パ、パ、あ! パーコ!」
水着を指差しながらリズムを取り名前を言ってみた。
「それは林家です。残念ですがパレオです」
「惜しいっ」
「椿、『パ』しか合ってなかったよ」
俺は思い出そうと頑張った。恥じることは無い。だが店員さんは明らかに笑っている。
「てな訳で俺はこれが似合うと思うのですよ」
「そうですね。でしたら色は緑系が良いかと」
数ある中から物色した結果に納得している様で、時雨を見た店員さんは沢山かかっている水着の中から一つのパレオを取り出した。
青に近い緑の色で飾りっけの無いシンプルで綺麗な水着。それを時雨に持たせ合わせる。
「うん。これで良し」
「じゃぁこれでイイよ」
俺がこれで納得と分かると時雨も問題ない様子だった。
店員さんに見送られて水着を購入。同時に時雨用に浮輪も買ってやった。
「さて、買うもの買ったしどうするか」
俺は行き先に迷った。今日ここに来たのは時雨の水着を買う為。買い終わった今、特に行く宛もなく彷徨うばかり。
「ぶらぶら散歩しながら帰ろうよ」
特に時雨も欲しい物は無い代わりに、遠回りで散歩しながらの帰宅を御所望された。
左手に買い物袋をぶら下げ、右腕には時雨が腕を組んでいる。俺は時雨の要望に応え、道を大きく逸れた。大きく逸れ過ぎた気もするが気にしないのが一番。
山の方に向かう道のりの途中で見える大きな屋敷を横切る。
「どうした時雨?」
途中で時雨の足が止まり何やら一点に集中していた。
「ううん、何でもない。多分気のせい」
そう言うと時雨は再び歩き出すが、
「ん? あれ?」
今度は俺にも違和感が出て来た。
「どうしたの?」
「いや、何でもない…と思う」
違和感だけでそれ以外は別にこれと言って何も無かった。俺はそのまま無駄に大きい敷地と屋敷を横切った。
遠回りの散歩もこれだけ歩くと最早運動に値する。途中で俺は歩きづらいと腕組を止め手を繋いだ。長距離を歩くのに腕組は不便極まりない。
「ねぇねぇ、海にはいつ連れて行ってくれるの?」
小学生の遠足みたくワクワクとしながら唐突に聞いて来た。
「来週な。流石に毎日出歩くのもしんどい」
少々悩んだ結果、来週と判断。やはり課題は終わらないと言う結論に達し、その間に終わらせ様と言うのだ。
「悪いな。先に課題を終わらせたい」
「大丈夫。終わったら椿ならちゃんと遊んでくれるから」
遅くなることに謝りを入れた俺だが、長い付き合いからかなにやら時雨には信用がある様だ。
軽く数時間以上は歩いただろう、やっと我が家に到着した。
「なんでこんなに遠いのよ~」
ヘトヘトな時雨は倒れこむようにソファーに横になる。
「言い出しっぺは時雨だろ」
「限度ってものがあるでしょ」
俺はキッチンへ行き冷たい飲み物を探す。
「ほれ」
「ちゅめたっ」
仰向けに横になっている時雨の額に氷で冷えた冷たいコップを置いた。
「ねぇ椿、私嬉しかったよ…」
上半身を起こした時雨が小さいく呟く。
「ん? 水着か? 海で泳ぐんだからこの位は当然だべ」
「そうじゃなくて…」
時雨は俯き、コップを遊ばせながら続きを言った。
「昨日の夜の聞いちゃった。私の目、見える様にしてくれるって。あの言葉凄く嬉しかった。我が儘な私に椿は優しくて、何でも助けてくれて、いつも私を見ててくれて、前も今も幸せなのにこれ以上の事は無いと思ってたのに…」
「てっきり寝たと思ってたんだが…」
俺は頭を搔きながら時雨の隣に座り、ポタポタと涙を零している時雨を抱き寄せた。
「これは俺が勝手に決めた事だ。時雨が気に病む事なんて何一つ無い。まだ何をするかの工程すら始まってないんだから気にすんな」
「そんな大事な事勝手に決めないでよ」
「後で驚かせようと思ったんだ。とっておきのサプライズとでも言っておこう。素直に寝てりゃぁ良かったのにな」
「お休みのキスしてくれるかなぁって思って寝たふりしてたの。そしたら椿があんな事言い出して…これでも焦ったんだからね」
「はいはい。それはそれはすみませんでした」
心の篭っていない棒読み平謝罪でこの場を過ごす。
「ぶ~」
俺は時雨の頭をグシャグシャと撫でると不満があるのか膨れている。
「言いたいことがあるなら言ってみろ。聞くだけ聞いてやるから」
「どうせ言うだけならタダだとか言うんでしょ」
鋭い。ずばりその通り。言うだけならタダだ。言うなら黙って聞いてあげましょう。
「どうしてあんな事言い出したのよ」
少々不貞腐れ気味の時雨は投げるように問い掛けた。
「時雨が『楽しい』って言ったからかな」
「それだけ!?」
俺の簡単な答えに驚きを隠せない時雨は、どこか呆れている様にも見える。
「まぁ理由なんてなんだっていい。所詮は口実に過ぎないだろ。だけど、目の見えない時雨が楽しいって言ったんだ。見えるようになれば更に楽しい。そう思った」
「(まぁ私もそんな椿だから好きなんだけどな)」
「何か言ったか?」
時雨は俺に聞こえないように何やら言っていた。
「何でもないけど今度はちゃんと襲ってね」
時雨が誤魔化したと思ったらとんでもない事を言い出した。
「どう考えても俺が襲われる側だよな。あんな所に勝手に手を入れるような輩だから」
「それは椿が~、…でも何だか気持ちよかったよ」
時雨が何やら頬を赤らめながら擦り寄ってくる。
「今日も一緒に寝たいな~。今日とは言わず毎日でも」
「待て待て待て。俺は男、時雨は女。オーケー?」
言い寄る時雨を全力で静止させるが、
「私は左、椿は右。オーケー?」
「ノー!」
時雨にブレーキは無かった。
「とりあえず今日は一人で寝ること」
「どうしても?」
時雨は引き下がらない。
「どうしても」
俺もここは負けられない。だって…ねぇ、可愛いんだよ時雨は。
「絶対?」
「絶対」
ようやく時雨は引いてくれたが、今度は何やら不機嫌になってしまった。
「椿のバーカ。意地悪ケチ」
「はいはい。なんとでも言いなさい」
なんでこんな事に機嫌を損ねるかこの時の俺には分からなかった。
俺は晩飯を作ったが時雨は要らないと部屋に篭ってしまう始末。
そして夜も顔を合わせる事も話す事も無く俺も部屋に戻った。
「なんなんだ全く…」
不機嫌な理由も解らないまま電気を消し横になった。
「一緒に寝ないだけ―」
俺は一人呟いている途中で思い出した。
「なんで気付いてやれなかった…」
俺は腕で両目を覆い、自分の言った事に後悔した。
目の見えなかった時雨は俺に懐いてくれてから夜は毎日一緒に寝ていた。それまでは怖がって震える様に一人だった。
時雨は不安だった。得体の知れない俺と一緒に居る事が。また人間に捨てられる恐怖が。
だけど時雨は心を開いた。俺に対する不安が無くなった事で。
「時雨は独りになることが不安だった。今でも怖いんだ」
時雨が人間の女の子だから俺は拒んだ。それは間違っていた。
それ以前に、俺は時雨の事を分かっていなかった。怒るのも当然だ。謝らなきゃ時雨に。
「椿のバカ。ヘンタイ。分かって無いのか全くもう」
その頃時雨は一人布団に潜り何やらブツブツと半泣きで文句を言っていた。そして、
「椿、怖いよ~」
時雨は布団をギューっと抱き寄せて気を紛らわせ様とする。
「もう独りはヤだよ……助けて…つばき…」
時雨は耐え切れずに泣いていた。
「大丈夫だ。独りじゃないから」
俺は時雨が入っている布団の上にそっと手を置いた。
「つばき…?」
時雨は布団から出ると声の方へ身体ごと向いた。
「悪かったな独りにして。ごめんな。もう大丈夫だから、俺が居るから」
「ぅあぁぁぁぁぁあああん! 怖かった! 怖かったよ! また独りになるんじゃないかって…! 椿が居なくなる様な気がして…!」
時雨を抱きしめると一気に大泣きした。経緯は分からないが、時雨が独りになる恐怖や不安は分かっていた事なのに。
「俺はどこにも居なくならないから。ずっと傍に居てやるから。安心しろ」
俺は抱いている時雨の背中をポンポンと叩いて落ち着かせる。
「ホントだよね。約束だからね。私には…椿しか居ないんだから…ね」
鼻を啜りながら震える声で俺にそう言った。
「ああ、約束する。だからそんな顔すんな」
俺は時雨を更に強く抱きしめた。時雨の傍から離れないと願掛けする様に。
「く、苦し~」
「おっとすまん」
少々強く抱き締め過ぎたのか、時雨が悲鳴を上げ始めた。
「泣き止んだな。可愛い顔が不細工だぞ」
「だ、誰のせいよ」
時雨の涙を指で拭ってやると、頬を赤くし軽いツンデレになってしまった。
「俺が悪かったよ。ホントごめんな」
俺は改めて時雨に謝った。
「分かってたんだね。もういいよ、大丈夫だから」
思い出してくれた事に対し機嫌も気持ちも元に戻ると、
「じゃぁ一緒に寝てくれるんだよね」
時雨は待ちきれないのかソワソワとしている。
「分かってるよ。一緒の布団は今日だけだからな。明日からは俺の隣に時雨の布団敷くから。これで文句は言わせないからな」
「はーい」
俺の妥協案を承諾した時雨。泣いたせいで眼は赤いがその表情はいつもの明るい時雨だった。
俺と居る事で時雨は時雨で居られる。恐怖や不安は消える事の無いトラウマ。俺がそれを再び思い出させてしまった事に後悔した。
今後はもっと大切な存在として、一人の女の子として、時雨がもっと笑えるように努力して行こう。




