2-5 飛鳥精機の創設
明治38年9月のポーツマス講和会議ではロシア側が高圧的であり、日本の勝利を認めないために極めて難航したのですが、米国大統領の仲介によりロシア側が一切の賠償金を支払わないと言う条件のもとに、最低限度の譲歩で解決しました。
講和条件としては、朝鮮半島に於ける利権について日本の優越権を認めること、日露両国の軍は鉄道警備隊を除き満州の領域から撤退すること、ロシアは樺太全土を日本へ譲渡すること(史実では確か南樺太だけの筈。因みに千島列島は明治8年の樺太・千島交換条約で日本の領土とされていました。)、ロシアは東清鉄道の旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡すること、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡すること、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与えることなどでした。
このため日本国内では戦争に勝ったにも関わらず、当てにしていた賠償金が取れないために交渉団と政府に対して誹謗の声がかなり上がったものでしたが、樺太全島を日本領土にすることができたことから、渋々ながらも沈静化していきました。
但し、甲村寿太郎さんら日本側代表団が帰国したときは、かなりの右翼分子が集まり石を投げつけたりしていたようです。
この日露戦争に要した経費は18億円(国家予算の6年分以上、物価も国際情勢も異なるので一概には言えませんが2030年代換算で言えば600兆円ほどに相当?)を超えていたことから国債償還に長い時間を要することになりました。
私は為政者では無いけれど、このことも多分私が片付けねばならない将来の懸案事項なのです。
まぁ、当然に当てはあるのですけれどね。
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ところで 前述したとおり明治37年には、父宏恭王が花鳥宮から富士野宮家の当主に替わったことから住まいも三田から紀尾井町に変わりました。
このために私の学習院での寮生活は1年余りで終焉を迎えたのです。
6月からは四ツ谷にある学習院初等科まで徒歩での通学になったのです。
因みに明治24年に改装された富士野宮邸の敷地は広大であり、2万3千坪余りに40邸以上の建造物を有しています。
この広い敷地のために通用門も複数あり、紀尾井坂に面している北西端の富士野宮邸第二通用門から学習院初等科まではおよそ800m、幼い私の足でも10分少々で辿り着ける距離でした。
まぁ、幼少の折から鍛えているのですから身体強化を使えば何気に一分足らずで駆け抜けることもできるし、空間転移の魔法を使えば一瞬で到達できるのですが、いずれもよほどのことがない限り、初等科一年生にふさわしいような体力しか傍目には見せないようにしています。
なお、登下校に際しては、当然のことのように伊藤侍従が人目に立たぬよう陰ながらの送り迎えをしていることには私も気づいていました。
学習院に設置された工房は、学習院側の計らいでそのままにしておかれ、必要に応じて私が使えるようにしてくれています。
まぁ、実際のところは富士野宮家の庭の一角に四坪ほどの新たな工房を作ったので、学習院の工房は工房内に設置されたトイレ以外にはほとんど使わないのですが、使用者の管理責任はありますので1週間に一度はチェックと掃除のために工房に入っています。
初等科5年の半ばになってようやく学習院の御不浄も私の特許である水洗式便器に取り換えられたのは別の話でございます。
無論、工房には鍵を掛けていますし、盗られて困るようなものは工房には置いていません。
高価な物や秘密にしなければいけないものは、全て私の魔法空間倉庫に収まっているんです。
いずれにしてもいずれにしても紀尾井町の住まいに移ってからは、富士野宮邸の庭先の小さな工房で時々海軍から依頼されたお仕事や他の内緒の仕事をしているのです。
目下取り組んでいるのは新型発電機と旋盤です。
電力事情は、東京市茅場町等に設置されていた直流発電所では拡大する電力需要に追いつけなくなったことから、浅草に交流発電による火力発電所を設置、これが実際に営業を始めたのが明治28年なのですが、実際のところはその後急速に伸びる需要を賄えるほどの能力は持っていなかったのです。
一つには低い発電能力と送電効率が低いために、発電所周辺にしか送電できないと言う問題がそもそもあったのです。
当時、交流電気による高電圧送電の方式は未だできていなかったのです。
日本で、後に大電力を産み出す水力発電方式が火力発電にとってかわったのは歴史の必然でもあったのでしょう。
その上、おそらくは大正12年に起きるであろう関東大震災で関東圏のこれらの既存発電所はその機能をほとんど失うことになります。
従って、その非常事態に対処するためにも新型の発電機を整備し、かつ、重工業を支える金属加工等の精度を上げるために欧米の旋盤に負けない精密機器の旋盤を作っておく必要があったのです。
当該高性能の旋盤を普及させることで下町の工場の技術レベルを上げ、将来的に精密機械を組み立てる工場へと拡大させる必要があったからです。
尤も旋盤だけで工業技術の底辺が底上げできるわけではありません。
熟練工の育成と併せて、鉄鋼生産、冶金、化学工業などなど手掛けなければならない部門は多いのですが、先ずは精密機械産業の基盤となり得る旋盤の製造を一番にしたのです。
この時点ではあくまで基盤整備なのですが、動力源と基幹となる旋盤が無ければ機械加工の能力が上がらないのです。
で、明治38年半ばには、地脈表層を流れる魔素エネルギーを利用した小型地脈発電機と簡易型電気旋盤を私が作り上げました。
この二つは切り離しも可能なのですが、電線等供給システムが整備されないと電気供給が中々ままならない状況から、小型旋盤については取りあえず合体したもので普及を図ることにしました。
実のところ地脈発電機は厳密な意味では設置場所によりその出力が異なるのです。
でも、小型旋盤程度の動力として使うならばおそらく日本全国どこででも使えるだけの能力はあるのです。
これを大規模発電方式に置き換え、或いは発電機を大量に設置する等して発電所として利用する場合は、効率面から見て設置場所そのものを慎重に検討する必要があります。
明治38年初頭の日本では電気の開通していない地域も当然に数多くあったので小型地脈発電装置は極めて有用な装置になる筈なのです。
これらを勘案しつつ、父にも承諾を得た上で株式会社飛鳥精機を立ち上げました。
登記所に正式に登記しましたが、代表は父である宏恭王とし、他に海軍工廠の知り合い、学習院の先生方などにもお願いして発起人として名を連ねてもらいました。
勿論、その末尾に私の名前も連ねてもらいました。
資本金は一万円余であり、当時の会社設立の資本金としてはかなり大きいものだと思います。
明治36年半ばから4半期に一度6千円余の収入があり、気球型中継装置の納品もあったので、明治38年初頭における第十五銀行の私の口座預金額残高は50万円を超えていました。
因みに発起人の方たちにも10円から100円内外の出資をお願いし、利益は配当という形で還元することにしています。
会社の従業員としては、十数名の職員を雇用しました。
富士野宮邸の敷地北東端の一角にRC造りの4階建てビルを建てて工場兼事務所とし、機械の製造組み立てと事務処理を行わせるようにしています。
東京駅や帝国ホテルなど赤レンガ造りの洋風建築が多い中で、輝石安山岩の方形薄石板を外装に張り付けたRC造りの建造物はとても目立ち、一時期建設業界筋で物議をかもしたものです。
実のところ、外装や内装を除いて主たる構造部分は私が資材を提供して下請けの土木作業員に作らせたようなものですから、多少の人件費以外はほぼ只なのです。
また、外装や内装の素材についても私がそのほとんどを提供しましたから、建造費用は極めて安いものになっています。
建坪300坪4階建ての建造物でわずかに4000円足らずの建造費というのは当時としては破格の値段でしょう。