2-7 旋盤と女子同級生
明治39年4月、飛鳥精機が発足して、活動を始め、旋盤を売り出しました。
東京市内にある旋盤取扱いの商社等に売り込みを行うのは二人の営業マンです。
これまで帝国製の工作旋盤など無かったのですから、国内に販路を持っているのは実は商社なのです。
このため取り敢えず商社に目を付け、暇を見て徐々に使用者である工場などを訪問するのが当初の計画なのです。
総天然色で綺麗に印刷された売り込み用の宣伝ビラをあちらこちらに配って歩くだけなのですが、その高度な印刷技術と旋盤の諸元に記載された性能を見れば知識のある者ならば飛びつく筈なのです。
ドイツのシュッテ社製の旋盤などよりはるかに性能が高い小型旋盤なのですから、金属加工工場であれば喉から手が出るほど欲しい品物なのです。
しかも、値段が安い。
インチねじ、ミリネジ双方の加工が可能なのも大きな特徴です。
シュッテ社の旋盤は中古でも1万円では購入できませんが、飛鳥精機の小型旋盤は3年間の保証付きで僅かに600円なのです。
だまされたと思って実演を見に来て下さいという営業マンの呼びかけに従って、三日後には飛鳥精機一階のショールームにはたくさんの人が集まっていました。
そうして工員の一人が様々な金属加工を実演して見せると、すぐにも反応があってその月だけでも10件以上の売買成約がありました。
材料費は多少かかるのですが、1台当たりの実収入は350円ほどになり、従業員と職工の給与を差し引いても1台分の実利で十分に補えます。
これにより、明治38年11月からは月に3000円以上の収入が継続的に入ることになりました。
無論、陸海軍に納入している機器類の納入代金は別計算ですよ。
なんといっても飛鳥精機の実質的ドンは私になっていますからね。
ほとんど個人事業主といっても差し支えないでしょう。
◇◇◇◇
明治39年4月、私は順当に学習院初等科4年生になっていました。
そうして、今いるところは富士野宮家の私の寝室なのですが、何故か私の目の前には同級生の女の子が笑顔で座っているのです。
彼女の名前は島津由紀子、明治30年(1897年)12月26日生まれの数えで10歳は私と一緒です。
父君は元薩摩藩の12代藩主であった島津忠芳公爵です。
由紀子嬢は忠芳公のお妾さんの子で庶子ではあるものの故忠芳公爵の最後の子であり、父君が亡くなった当日に生まれたことから、島津家では忠芳公の生まれ代わりとして随分と大事に育てられているようです。
で、彼女は中々の才女であり、幼いながらもゆくゆくは美人となるであろう顔立ちの美少女でもあります。
どうして彼女が我が家に来ているかというと、4月初旬4年生になってのクラス替えで同じクラスになった上に、私の隣の座席に彼女が来たのです。
この席順は、少なくともここ1年間は変わらない筈です。
これまでは別クラスでしたから彼女の顔は見知っていても特段話もしたことはないのです。
そうしてこの由紀子嬢が、何故か私を随分と気に入ってしまいまして、始業式の後、殆どごり押しで私の家へと押しかけて来たのです。
まぁ、彼女の住まいが四ツ谷にあるためご近所さんではあるのですが・・・。
旧薩摩藩邸は花鳥宮邸のあった三田にありますが、島津家では学習院に子供を通わせるためにわざわざ四ツ谷に寮代わりの一軒家を借り上げて、十女である昌子が先鞭をつけ、忠芳公爵の四男から八男がその後に続き、更に十一女である由紀子がその後を継いだ形なのです。
因みに十女昌子は由紀子嬢よりも12歳も年上であり、既に徳河公爵家に嫁いでいます。
また、四男忠茂は由紀子嬢より11歳年上ながら若くして島津家当主となっているのです。
四男が当主となっている理由は、長男から三男までは幼くして夭逝しているからです。
勿論四谷の島津寮に由紀子嬢が一人で住んでいるわけではなく、少なくない執事や女中に傅かれている状況にあるのは言うまでもないでしょう。
何れにしろ、『男女七歳にして席を同じゅうせず』との論語は、どうも西洋かぶれの彼女には通用しない様です。
宮家嫡男である私に対してきっちりとレディ・ファーストを強要する当たり、かなりの女傑と言えるのではないでしょうか。
私も平成生まれで男女同権の日本で生活していましたから、別に彼女が同じ部屋に居てもどうこうすることもないのですが、周囲の明治人の気質は必ずしもそうではないはずなのでこの状況は少々気がかりではあります。
とにもかくにも我が家に押しかけて来てしまった彼女なので、止むを得ず、母常子に挨拶をさせ、そのまま居間で話をしようと思っていたのですが、別に来客予定があったりして、母からあなたのお部屋に案内してお話しなさいと言われてしまったのです。
そんな事情で、今現在は私の寝室のベッドに由紀子嬢が笑顔で腰を降ろしています。
私の部屋には応接セットのようなものはありません。
寝台と勉強用の机と椅子、それにいくつかのタンスと書棚があるだけなのです。
実のところあの手この手で、我が家訪問について彼女の翻意を促したのですが全て失敗して、今に至っているのです。
どうも私は女の子のゴリ押しに弱い様です。
前々世の日本では正直なところ余り女の子に縁が無く、異世界に転移するまで所謂彼女は居ませんでした。
前世の異世界では、一夫多妻制度もあって正妻3名と側室6名がいました。
何せ長命でしたから、転移して150年程は矍鑠として男としても現役でしたから、正妻三人と側室六名を私が順次看取ったぐらいなのです。
最後の側室は転移後140年程経ってから迎えた女人です。
彼女が側室になったのは、彼女が19歳の時でしたが、私よりも早くに鬼籍に旅立ってしまいました。
実のところ、彼女は私の一人目の本妻との間にできた第一子の玄孫と同じ年齢の側室でした。
だから女性の扱いには結構慣れているつもりでしたが、どうも由紀子嬢は少々勝手が違うようです。
彼女曰く、私は『玉の輿の対象』なのだそうです。
「あたくしは、賢い人であって、あたくし自身が本当に尊敬のできる殿方でなければ嫁に行きません。
少なくとも貴方様は、学習院の生徒の中では最も好ましい殿方のように思えます。
正直なところ宮家嫡男というのが厄介ではありますが、その弱点を差し引いても貴方様が一番好ましいあたくしの夫候補なのです。
ですから、あたくしは貴方様から妃候補と認められるためにありとあらゆる手段を尽くすつもりでおります。
どうぞお覚悟なさいませ。」
斯様に皇族であることが欠点らしいのですが、私自身の容姿と中身を随分と気に入っているようなのです。
そのために事前に学習院のみならず色々なところで情報収集をしたようで、普通の10歳児では知り得ないような私の個人情報を調べ上げているようなのです。
詳細は不明なのですが島津邸にいる書生の一人に随分と目先の効く者がいるようで、その書生に探索させた結果をわざわざ披露してくれました。
無論私が転生者であることは知る由もないのですが、水洗トイレの特許は無論のこと、飛鳥精機の発起人の一人であり、実質的なトップであることや、陸海軍と何らかの取引があることまで承知していました。
富士野宮家から情報が漏れたとは考えにくいので陸軍若しくは海軍から漏れているのは間違いないでしょう。
私の能力で内々に調べたところ、彼女の異母姉で四女の常子が山科宮喜久麿王に嫁いでおり、山科宮は内局詰めの海軍軍人であるために、どうもそこから聞き出した情報のようです。
詳細な内容が知られているわけではないものの、軍が機密事項としている割には脇が甘いと言うしかありません。
このように島津家は皇族に結構縁があります。
そのために宮家という格式であっても、この由紀子嬢には何の遠慮も無い様です。
周囲の者悉くが、私に対しては遠慮するような風潮の中で、この由紀子嬢のような存在は極めて稀であり、また、このように勝気な性格の幼女は必ずしも嫌いではありません。
まぁ、嫁にしたいかと聞かれれば、今のところは白紙であることに間違いないでしょう。
彼女に色気がつき出したなら、まぁ検討してみようかと言う程度なのです。
『今のところは幼馴染の女友達』というところかと考えつつも、結局のところ、彼女との付き合いはこの後かなり長くなるのですが、この折には知る由もありませんでした。
いずれにせよ10歳児(満年齢でいえば未だ誕生日が来ていないので8歳)らしからぬ少々大人びた会話をしばらく続けた後で執事の伊藤とともに馬車で彼女を島津寮まで送り届けました。
夕食に誘っても良かったのですが、今日は家人に断りもなしに我が家に来ていることから心配させてもいけないということで早めにお帰りいただいたわけです。
ああ、そうそう言い忘れておりました。
学習院は当初男女共学の学校でしたが、明治18年に華族女学校が設立され、女子は一旦分離したのです。
その後どんな情勢の変化があったのかわかりませんが、明治39年に学習院と統合されました。
しかしながら、確かその際には組織のみ統合されただけで、第二次大戦が終わるまで別校舎のはずだったのです。
さりながら、この世界では、校舎も再編されて完全に男女共学となってしまったのです。
正直なところ、この変化が与える影響については何とも予測しがたいものです。
初等部においては男子よりも女子の方が心身ともに生育が早いのです。
所謂かかあ天下が初等部においてはまかり通る可能性もあるので、男子に与える影響は少なからず大きいのではないかと思うのです。
何せ230有余年の経験を有する私ですら手玉にとられるぐらい押しの強い女の子もいるのですから・・・・。
後に学習院長となった乃木希典大将が唱えたという「質実剛健」というキャッチフレーズは、強い女子が傍にいる男子では余り様にならないかもしれないなと思うのです。




