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聖域  作者: かのこ
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聖域

マルクス・アントニウスの息子、ユルスとヌミディア王の息子、ユバの話。

推理物っぽくしたかったような気がします。

 近頃のローマは、いたるところ工事中だ。フォルムを通り過ぎる間に、あちこちで神殿やら議事堂やらを建設するための石材等が見える。人や物資の出入りでやたら慌しいけど、こうやって新しいものが完成してゆくのを見るのは気持ちがいい。

 これらの建造物の出資者はアウグストゥス。元老院から贈られた「尊厳なる者」という意味の名だ。……ローマは日々変化して、何か得体の知れないものになっていく。だがこのまま記憶の隅に追いやって、覆ってしまいたいこともある。

 平和ってこういう日々のことなのか。最近、やっとそういう風に感じるようになった。これまでは思い出したくもないと言いながらも取り出してきては眺め、それを元の位置に戻す。そんな日々だったのに、今では忘れようと思えば忘れられそうな気がする。


 この間完成したばかりの、アポロ神殿付属図書館の前に立っていた男が、俺に気づいて近寄ってきた。

「やあユルス。元気そうだね」

 故ヌミディア王の遺子、ユバ王子だ。何でそういう男がローマにいるのかと言うと、三歳の時に父のユバ王がローマに敗れて自殺したため、神君カエサルに捕虜として連行されてきたからだ。以後ローマ貴族の子弟なみの英才教育を受けている。二十二か三だ。

 ユバは遠くからでも見分けがつく。ほっそりしていて背高はそこそこだが、背筋が伸びていて腰骨の位置が高くて脚がやけに細長いから、ローマ人の中ではトガを着用していても浮くのだ。

 ユバはアフリカの出身らしい黒く縮れた巻き毛、褐色の肌をしている。だが口から出るのは流暢なラテン語、そしてギリシア語。発音も物事の考え方も、植民地出身の田舎者よりもよっぽどローマ人らしい。時々こいつがヌミディア出身であることも、王家の出であることも忘れる。

 ユバは穏やかな口調で話す。滅多に声を荒げたりはしない男だ。

「そういえば、この春には成人式だね」

 もう少し暖かくなれば、俺は成人式をして大人用のトガをまとうようになる。それから見習いとして、マルスの原に軍事訓練に行くのだろう。名門子弟の特有の習慣なんだが、アウグストゥスはそういう研修をすっとばして、俺ら(自慢の甥のマルケルスとか、愛妻の連れ子のティベリウスとか)を早々に、実務の中に放り込む計算をしているらしい。別にヒイキとか言わないから、俺は勘弁して欲しいと思ってるんだけど。

「うん」

「早いものだね」

「っていうか。俺、よく成人式するまで生きてられたよな」

 ――あの頃、俺が十五まで生きてるなんて思えただろうか。俺が言うと、ユバは苦笑はしたが答えなかった。

「何かいいことでもあったのか」

 ユバはすぐに顔に出る。嬉しいことがあると素直に嬉しそうな顔をするし、本人は隠しているつもりらしいが、傷ついた時には心底辛そうな顔をするのだ。そして何か難しいことを考えている時には表情が固まる。そういう時は放っておく。質問して返事があると長くて面倒だからだ。

「あるローマ市民の遺言で、遺産がアウグストゥスに譲られるのだが、その中に多量の書物があって、実物を見に行くのだよ。最近ウァロ先生の体調がすぐれないので、私が代理で行くことになったんだ」

 博物学の御大、ウァロはアウグストゥスの命令で書籍を選び、管理分類し、自らも執筆活動をしている。ウァロが書籍を収集している段階からローマ初の公共図書館に通いつめているユバは、ウァロの弟子みたいなものだった。


 ユバに会ったら言わなきゃならんと思っていたことがあったのを思い出した。

「お前、人んちの名前出して、本屋でツケにすんなよ。ユリウス家の会計係が出所のわからん請求書が来て頭抱えてたぞ」

 アウグストゥスはユバに甘い。言いなりで払ってやるんだろう。

「アウグストゥスの図書館にあるべきだと思ったんだよ」

 ユバは、俺が物の価値がわからんのを諭すかのような口ぶりで言う。

「『ペルシア史』なんだ。ディノンの『ペルシア史』じゃなくて、クマイのヘラクレイデスの方なんだけど。で、この書物に『林檎団』っていう王の護衛隊のことが書いてあるんだけど、本当に槍の石突に金の林檎を刺してるんだって。林檎団てヘロドトスにも記載があって――」

 そんなん知るか。

「額にも限度ってもんがあんだろ。お前それで将来、国を与えられてやってけるのか? 国庫が破綻するぞ」

「失礼な。私は高名な先生について勉強してるのだよ」

 こいつは数学は出来ても経済が出来ないタイプじゃなかろーか。

 だいたいその貴重な書物とやらだって、読みたいというよりは所有していたいからだろと思う時がある。博学というよりもオタクの域で、俺にはさっぱり理解できない。

 書物の今のところの主流はパピルスを数枚つなぎ合わせ、芯になる棒に巻きつけて一巻にしたものだ。図書館や書店ではタイトルを記した皮の小片が軸についている。保存のしやすい羊皮紙の書物も多少出回っているが、これはまだ高価だ。パピルスでも十分貴重だし、それがまとまったコレクションであればひと財産といえる。国が制圧されれば図書館は略奪されるし、犯罪者が財産として没収されることもある。持ち主の死後、競売に出回ることもある。

 ユバみたいな学者バカが目の色を変えるのは、やはりギリシア語の典籍だ。ウァロはそうでもないらしくラテン語の文学に力を入れてるそうだが。でも自国の文化に誇りを持つのはいい傾向だと思う。なんで支配者たるローマ人が、非征服者の言葉ギリシア語の勉強をしなきゃなんないんだ。(と、ローマの子供ならテスト前に、一度は思ったことがあるはずだ)

「お前、喪中の家に行くんだろ? 嬉しそうな顔はするなよ、人さまが死んでるのに」

 ユバには心外だったようだ。

「嬉しくはない。私も会ったことがある人だから」

 そうじゃないだろ。遺産だの遺言だのって場面には、必ず人の死があるってこと、わかってんのかね。

「それに、故人はわざわざ私に『どの本でも良いから、お好きなものを一巻差し上げる』と遺言して下さってるのだそうだ」

「……なんで?」

 宴会で会ったことがある程度の人間に、わざわざ遺言するのかね。ユバ本人も、その貴族との面識は乏しいので不思議がっているのだと言う。

「さあ。だからこれから、その家に行くのだけど」

 ヌミディア王の御子ユバと言えば、ローマで教育された王家や族長の係累の筆頭に上げられるくらい模範的で有名だし、知識人としても知られてる。だが故人から何かを譲り与えられるほどの関係ではなかったという。

 ローマ市民がアウグストゥスに遺産を残すこと自体は珍しくはない。だけどユバに残すというのは、妙な話だ。


 その貴族の名前を聞いて、俺もついて行こうと決めた。ユバは俺を追い払いたいような顔をして「君が来たってきっとつまんないよ」と言う。

「それに先方だって困惑するかも知れない。君はアウグストゥスの甥っ子なんだから」

 あー、それ、結構微妙なんだけどね。人によっては執政官の甥だけど、別の連中にしたら逆賊の息子だし。まあそれ言うとユバも面倒な立場だからお互い様なんで言わないけど。

「俺も少し知ってるウチだから」

 個人の名前を聞いた時に、ピンときた。ユバも俺についてこられるのは嫌なのだが、やはり相手方には興味がある。どういう知り合いなのかと尋ねてきた。

「俺の学校の時の友達の姻戚」

「なんだ。会ったことはないのか」

「その友達の妹がすげー美人でさ。よく皆で見に行ってたんだけど、嫁行っちまったんだよ。その、遺言でユバに書物を譲ってくれるっていう人の長男に」

 ユバは「だったら、若い男が嫁さんの知り合いってのは、迷惑なんじゃないのか?」と言った。顔に「やめてくれ」と書いてある。

「久しぶりに会いたいから会わせろ」

「えー」

 顔が不審そうだ。こいつもお年頃だし、女を知らんわけでも興味がないわけでもないと思うんだが、一人で清廉潔白ぶりやがる。

「あんまり失礼なことしないでくれよ」

 と念を押される。俺はどっちかと言うと、お前の常識の方が怪しいと思うんだけど。


 その貴族の家名は、仮にAとしておく。過去には何人も執政官を出した名門と言っていい家柄だが、続いた内乱で嫡子は亡くなっていたり、政略結婚を解除したりしていて、輝かしい家門にも多少翳りが伺えるのは否めない。

 Aの屋敷(ドムス)はクィリヌス丘にあった。建物自体は古く、調度品の質も家柄の良さが出ている。飾られてる絵画も彫刻も立派なもので、案内に出てきた奴隷もきちんと教育をされている。友達の妹はいいとこに嫁に行ったもんだ。今度会ったら伝えてやろう。

「ユバ王子。お待ちしておりました」

 案内された広間にいた女主人は、夫を亡くして見るからに気力をなくしている。長男にすがるようにして立っていたが、挨拶もそこそこのうちに無礼を詫びながら座ってしまった。

 俺の友達の妹の夫である、現在の家長は二十半ばの若者で、カボチャみたいな顔に、変わった癖毛の男だった。体格はいいし人相も悪いけど、気は弱そうだ。

 そして俺に気づくと顔を引きつらせた。ほらごらん、とユバが責めるように俺を見た。一般人が俺を見たら動揺するに決まってると言いたいのだ。

 ユバはまずお悔やみを言い、故人の亡くなった時の様子を尋ねた。故人は六十の少し手前。三月前のある日、体調が優れないと言って休み、以来寝込んでいたそうだ。医者は悪い風邪をこじらせたのだろうという。

「ご主人が何故、私に遺言されたのか、ご存知ありませんか」

 もてなす気満々で使用人たちが待機している。彼らはユバを食堂に連れて行こうとしていたのだが、酔っ払うと理性に自信がなくなるユバは、勧められたぶどう酒を断った。これから大切な書物を扱うのだから、なおさら素面でいなければならない。

「それが一応、父には『いくつか意味はない贈与をするが、気にしないでくれ』とは言われておりましたが、何も教えられていないのです」

 困ったように息子は言った。死んだおっさんも無茶をぬかすもんだ。「気にするな」と言われても。

 ユバも長男も、それから未亡人もお互いに探り合う様子が見ててイライラする。

「……ユバ王子が書庫を見れば、何か思い出すということはないですか?」

 いや、本当に酒の席で少し話したことがあるだけなんですよ、とユバは言った。酔っていようが記憶力には自信があるから、理性がぶっとんでやらかしたことまで、鮮明に覚えている(不幸なやつだ)。だから何を話したかまできちんと覚えていて、「何もなかった」と言い張れるのだ。

「何を話したのですか?」

 招待された館の主人に紹介されて、「憶えてますよ」と言われたこと。「ユリウス・カエサルの凱旋式の時に、お姿を見ましたよ」

 凱旋将軍の偉業を知らしめるための演出で、ユバがゾウと一緒にローマ市民の前を歩かされた時のことだ。四歳やそこらで本人はわかってなかったに違いないが。

 それからこれから出来る図書館の話をしたこと。そして

「この間、長男が結婚しました。いい嫁です。あんたもさっさと結婚しなさい」と言われたこと。

 長男はユバと年はそんなに変わらない。ユバは「あーはいはい」と返事したそうだ。半年ほど前。実際長男が結婚したのは二年も前なのだが、いつまでも自慢していたらしい。

「それだけ?」

「ええ。あとは結婚はいいものだと説教されたくらいです」

 迷惑なんですよね、と口には出しては言わないが、ユバはうんざりした様子で言った。

 つーことはおっさんは、自分の結婚には満足してたんだろな。青ざめている奥方は気づいてないみたいだけど。でも六十近いおっさんの妻にしては若い。四十いったかいかないかだろう。後で確認するとおっさんは再婚したそうだ。初婚では子供はなく離婚し、今の奥方との間に生まれたのが、この少々頼りなさげな息子ということだ。

 しきりに長男が俺を気にする。俺はまだ子供のトガを着てお守りをしてるような、無位無官のガキだってのに、見る人から見ればアウグストゥスのお気に入りだし、手先にも見えるんだろう。


 俺が来ていると聞いた長男の嫁が、侍女たちを引き連れて出てきて、嬉しそうに言った。

「こんにちはユルスさま!」

「……見違えた。もう立派なご婦人だなあ」

 ちぇっ。臨月でやんの。

「ああ確かに孫が生まれると仰ってましたね」

 おせーよ。俺が傷つく前に言え。

 友達の妹が幸せそうに腹をさすっている。清楚だった少女がこれでもかと化粧をし、年齢にそぐわない宝石を身につけている。ああ。俺たちが花の女神フロラと呼んでた、青春の結末なんてこんなもんかい。学校帰りに皆で見に行った、あんなに可憐だった娘が、もう子供を産むのかよ。しかもこんな図体がでかいだけで、頭が悪そうな奴の子供とは。世の中間違ってる。うちの妹たちと、そんなに年も変わんないのだ。信じられない。

 ……ああでも。これはいいことなんだとも思う。この家族は今、悲しんでるけど、これから嬉しいことが待っているのだから。

「では一応、書斎を見せていただけますか」

 ユバは首を振りながら言った。もういいや、書棚から欲しい書物をもらって、それ以外はアウグストゥスへ贈ることにしよう、と思ったのだ。


 中庭を通って案内された書斎は、巻き物が格子状の棚に入れてあった。古いパピルスの匂い。個人の所有として多すぎることはないが、保存の仕方がよろしくない。ざっと見てユバは「中身が不明なものが、いくつかあるみたいですね」と言った。

 一応、蔵書録があったのでユバは目を通したが、本当に一致してるのかもわからないから無意味だった。

「これは私が整理する中で選んだ方がいいのかも知れないですね」と言った。

「ユバ王子がですか?」

「もちろんギリシア人の奴隷たちを使います。中身を確かめて、題名をつけたものをアウグストゥスへ渡しますが――」

 ユバはウァロについていて書誌学やら文献学やらの徒でもあり、書物を崇拝している輩だ。「書物は正しい保存管理、そして的確な分類があってこそ、価値があるのです」とぶつぶつ言った。不機嫌だ。自分が貰う側であるくせに、書庫が乱れているのが気に入らないのだ。

「後日、人をよこします。アポロ神殿に収めてから、そうですね。さほど希少本もないようですから、どこかの公共施設に寄付するかも知れませんね」

 ひでえ言いようだ。お前やアウグストゥスの図書館の蔵書に比べたら、一般人の蔵書なんてありきたりに決まってるだろ。

 長男と未亡人は、不安そうな顔をしている。結局なんにも解決しないからだ。

「よろしければ、遺言書を見せていただけますか?」

 遺言の開封は証人立会いのもとで行われる。それなりの名家なので、高位政務官が開封を行い、公開した後のものだった。故人の家族は巻物を渡し、やがて心細そうに書斎を出て行った。何かを俺たちに見つけて欲しいのか――あるいは、見つけて欲しくないのか。


「何でユバを指名したか、だよな」

「単純に、アウグストゥスのアポロ神殿付属図書館に通ってたから、私を連想したのじゃないかな」

 ユバは書見台に広げ、遺言状を調べながら言った。別におかしな内容はなく、書籍以外は通常の法廷相続に準じているし、きちんと嫡男が相続人に指定されている。

「本の整理をよろしくってことで、一巻はお駄賃なのかも」

「なんだかなあ」

「何かわかりそう?」

 フロラが小声で言った。

「お義母さまたちがピリピリしてるのよ」

「私たちが来る前に、彼らが相当中身を調べたのだろう。ひどいもんだ」

 視線は遺言状のまま、ユバが尋ねた。

「だって心配でしょ。お義父さまが、どういう意味でアウグストゥスに書物を贈られるのか。何か貴重な本があるのかも知れないし」

「ないと思う」

 ユバよ。お前にはしょせん、素人さんの蔵書だが、少しは遠慮しろよ。

「もしくは、何か書き込んであるとか、はさんであるとか」

「どうせ全部開いて見たのなら、題名をつけるとか、蔵書録とつき合わせておいてくれれば良かったのに」

 まだ不機嫌だ。書庫が乱雑なためと、蔵書録にたいしたものがなかったせいだ。

「彼らは何かを知りたいのか、知られて困ることがあるのか。どっちだと思う?」

 フロラはきょとんとした。家族の不安を具体的に理解してない。

「ユバみたいなアウグストゥスの友人が来るだけでもビビるのに、俺なんかがやって来たから、なおさらこっちに何か意図があると思って焦ってるんじゃないかってこと」

「ホントに、珍しいくらい人のいい舅なのよ。何か国家にあだなすような、細かいことをやれるとは思えないの」

 あごのあたりが太ったフロラは、呑気に言った。ああ、あの儚げな横顔が好きだったのに。

「実は息子が悪事に手を染めていて、それをオヤジが告発するために、遺言してユバにガサ入れさせたとか」

「ないない。うちの人小心者だもの」

 幸せそーじゃねーかよ。

「実は誰かに殺される予感があって、国家に介入して欲しかったとかさー」

「そんな物騒なことないわよー」

 フロラがあっさり否定した。「主治医の先生教えましょうか? 不審な点はないって断言してくれるはずよ」

 ちぇっ。つまんねーの。


「私以外にも、書物を譲られてる人がいるね」

 遺言の巻き物を覗きこむと、確かにその旨が書いてある。

「ええ。でも書名は指定してあるんです。ユバ王子に言わせたら珍しくもない、詩集とか古典とかで、知人に形見分けって感じですよね。それから世話になった医者とか弁護人とか、解放奴隷とか、剣闘士の組合とか神殿とか。それからやっぱり国家に対してってことで、アウグストゥスへ」

「家族は納得してるわけ? 高い金出して買い取ってくれる奴もいるだろうに」

 ユバ的には、既読のありふれた書物だらけだとしてもだ。

「お義父さまのすることですから。お義母さまもわかっていらして」

 うへー。何だか信じらんねーくらい幸せ家族。一皮剥いたら実はドロドロってことを期待してしまうんだが。

「ただねえ。最後にお義父さまの意図がわからないのが、お義母さまは残念なんですよ」

 ユバは遺言状を裏返して透かして見たり、何か暗号でもないかと探っていたが、諦めて首を振った。「これをお借りしてもいいかな? ウァロ先生に見ていただこうかと思うのだけど」

 よっこらしょ、と立ち上がったフロラは、意外にすたすたと移動して、家族がじりじりとしている居間へ行き、戻ってきた。

「あのー、ユバ王子」

「はい」

「何か、私たちに不都合なことがわかったら、どうしますか?」

 そう聞け、と言われたのだろう。フロラは何気に俺のことも監視している。この家の娘のような顔をして、俺たちを見た。

「場合によります」

 ユバは答えた。「ご家庭のことでしたら内密にしますよ」

「悪いようにはしないと、約束していただけますか?」

「何を疑ってるの? 私にも見当はつかないし、君の舅や旦那さんが何か悪いことしてたらそれを黙っていろというのなら、これ以上は調べないよ」

「いえ、調べて欲しいんです」

 わけわかんねーよ。善良な市民であるA家は、「後ろ暗いことはないから、調べられるもんなら調べてくれ」と開き直ったようだが、それでも小市民なので何か出てきたら嫌だなーという所存であるらしい。

「お義母さまが、気にしていらして……」

 ユバは天井を見上げた。

「……えーと。どんな内容でも、知りたいと思う? つまんないことでも、私の想像に過ぎないかも知れないとしても」

「ええ、ユバ王子が出した答えなら、たぶん正しいと思います」

「誰かが傷ついても?」

 フロラはそこで考え込んだ。「悲しむ人がいるなら、知りたくないです」

 それは多分に、義母のことをさしているのだと感じた。女のカンとやらで、何か思うことがあってのことだろう。



「ちょっと気になることがあるので、また伺ってよろしいでしょうか」

 ユバが確認すると、二人は微妙に安堵したような表情になった。嫁が元気に手を振って送り出してくれた。

 屋敷を出ると、ユバが全く納得していない様子で言った。

「こうなったら徹底的に調べてやる。気になって仕方ない」

「あ、俺も俺も。最近刺激がなくてつまんないんだもん」

 だってさ。成人式過ぎたら、俺はもうこんな風に遊び歩いたりは――……するか。するよなー今以上に。

「目立って仕方ないんだよ、君が来ると――」

 ちょっと待て。目立つ度合いで言えば、絶対にお前の方が上だろ。ギリシア語の死語からラテン語のオヤジギャグまで言えるヌミディア人なんて、ローマにお前一人だからな。……つーかどっち喋るにしろオヤジか。

「君がアウグストゥスの甥っ子だから、彼らは落ち着かなかったのかも知れない。彼らは私たちが、アウグストゥスの命令で何かを調べに来たと思ったんだ。だけどそれは、彼らの手には入っていないし、それが何なのかもわかってない」

 そんな大げさに言うまでもなく、俺にはただの善良な市民にしか見えなかった。そして俺はそんな人たちにも警戒されてしまうのか。

「……俺がアウグストゥスの甥だから、何だってんだろ」

 俺がアウグストゥスの「実の」甥、マルケルスと同じだとでも? まさか。

 俺はまだ半人前の子供だし、世間様は俺をアウグストゥスのお気に入りだと思ってるみたいだけど、実際の立場なんて嘘くさい。何かあったらすぐに疑われる覚悟はしてなきゃいけないのだ。

「ローマ市民は美化しやがる。アウグストゥスはなんて偉大なのだろうと褒める一方で、俺のことを哀れむんだろ。親のかたきに養われてるなんて不憫だ。あそこまで落ちたくはないもんだって」

 俺がそう言うとユバは言った。


「私はねえ、ユルス」

 心底、俺を心配そうに言うのだ。

「確かにアウグストゥスは、君を信用しているふりをしている。いつか裏切られるかも知れないと、覚悟していると思う。でもねえ、あんなに無邪気に私たちを信頼しているふりをしているのは、私たちの心の中だけは縛るつもりはないってことじゃないかって、思うのだよ」

 そうなのだ。たぶん俺は疑われてる。俺はマルクス・アントニウスの息子だからだ。だけど周囲に嫌な顔されても、アウグストゥスは一貫して俺を信頼しているという態度をとってきた。オクタウィア様の嘆願でもあると思うし、政治的にそれが有益だからだろう。

「私たち? 俺とお前じゃ違うよ」

「私だって、親に自殺された子供だよ。全くローマに対して、恨みがないわけでもない」

 何を今さら。すっかりローマに順応して父王のことなんか覚えてもいないし、肯定的な感情を持っているわけでもない。ローマ式の考え方を叩き込まれているし、歴史家としても評価はしていないのだ。

「ローマでの生活が、楽しくて仕方ないくせに」

 ヌミディア王家はもともと未開の遊牧民だ。現在、文明的で学問に浸りきった生活を送ってるユバにしてみたら、内心ではその血筋が忌まわしいに違いない。だいたいヌミディア人と言えば黒人奴隷を連想するし、ユバの先祖だって代々へんてこな髪型やヒゲをしていたのだ。

「私には後ろ盾はあるが、家族はないんだよ」

 ユバは淡々と言った。

「私が今死んだら、一人だ。知人も恩人もいるが、親族はいない」

「それで?」

「アウグストゥスは、そういう気持ちを知っていて、それに気づかないふりをしてくださっているのだと思う」

 だから何だ。当たり前じゃないか。俺たちが親の恨みをきれいさっぱり忘れてると思うほど、アウグストゥスも脳天気ではないに決まってる。だけど仕方ない。俺には腹違いの妹たちもいるし、その他にもまだ生きてる親族だっている。俺が嫌な顔も出来ないし、不審な行動をするわけにはいかない。

「ユルスがアウグストゥスの立場だったら、私を信じる?」

「うん。お前はいい子だから」

 反逆するための地盤も、そもそも覇気もねーしな。

「ではユルス、君は自分自身みたいな子供を信用する?」

「しない」

 絶対。殺した方が楽だ。今でも完全にオヤジの人脈とは絶ってはいないし、父祖の代からアントニウス家に仕える庇護人もいる。成人して官職をもらって、いずれ元老院議員になれば面倒な存在にならないという保証はない。

「私もそう思う。たぶん生かしても、いい感情は持てないと思うよ」

 やだなあ、おい。ユバみたいな奴って変な嫌がらせしそうだ。俺を隠喩で馬鹿にした詩を作って人前で朗読するとか、便所の隅にマニアックな書物から引用したギリシア語の悪口を書くとか、俺にも周囲にもわかんないっていう類の嫌がらせだろうけど。

「だからアウグストゥスは立派だと思うんだ。君の無理をしている姿を知っている。恨まれてるのをわかってるし、それを隠している努力も知っている。相手の憎悪を知らないふりをするのって、結構辛いと思わない?」

 ……辛い。

 つーか、かったるいだろう。でも彼は、俺自身が「笑っているけど何考えてるんだよ」と言いたくなるような俺を、あんなにも無防備に近寄らせるのだ。

 俺だってどうせアウグストゥスには信用されてないんだろと思う反面で、信じて欲しいと思ってる。アントニウスの息子なんだから、見るだけでムカついて当然だし、殺さないだけありがたく思えと言われても文句も言えない。

 だけどアウグストゥスはローマ市民の前で、政治的な意味も含めながらも、俺を優遇する。なんて偉大なのだ、慈悲深いのだと言われるためだと思うけど、本当のこと言うと殺すまでしなくても、追放した方が面倒がなくていい。俺がいつか裏切った時に「ほらごらん」と笑われるリスクに比べたら。


 疑いは絶対にゼロにはならない。

 だけど。アウグストゥスが俺を気に入ってくれてるのは、もしかしたら嘘じゃないんじゃないかと思う時がある。

 時々、俺は大声でアウグストゥスに感謝していると言いたいことがある。それをやってしまったらとんでもなく嘘っぽいし、言った瞬間に嘘になってしまうかも知れないけど。

「君は素直にお世辞を言わないとこがよろしい」

「お世辞って、下心があるからお世辞であって、素直に言うもんじゃねーだろ」

 お前、ホントに頭いいのか?

「大げさなゴマすりが出来ないし、本当に思った時に、感謝したり讃えたりするだけだから、アウグストゥスはそういうところを信用するんだと思う」

「……」

 少し違う。お追従ばっか言うほど、自分を貶めたくないからだ。俺はアントニウスの嫡男だし、世が世ならと思わないでもない。

 だけど卑屈にならず、言うべき時に言うべきことは言う。それが俺の誇りだ。

 俺が家族と、地に落ちたとはいえ家門の尊厳までも失わないですんだことは、やっぱり感謝している。今の身分である限り、腹の中では強がれる。いつか見てろと思える。だけど、内心ではそんな日が来なければいいと思ってる。

 今の俺は支離滅裂だけど、案外アウグストゥスだってそうなんじゃないかと思う。理屈の上では憎いけど、顔を合わせていれば情もわく。家族同然に接していれば信じてもいいと思う。

「ホントに、ご立派だよなあ」

 ……俺なんて、見透かされてる。俺がたまに失言して、周囲の顔がひきつってようが、アウグストゥスは笑顔で俺の頭を撫でられる。俺の方が背が高いのにさ。今、俺があんたのその細い首を肘で絞めたら終わりだよと思いながら、俺は笑ってるわけだ。あんたうわてだわ。やっぱ俺のオヤジが負けるだけあるわ。かなわねーや。

「……で?」

「あんまり、君にはヤケになって欲しくない。友人として」

「はいはい。ま、俺には家族がいることですし? おとなしくしますよ」

「ユルス」

 何でそんな、うっとーしい顔するかねえ。そんな疑われるんなら、そのうち期待に応えたくなるじゃないか。

 アウグストゥスは四歳で父親を亡くしている。ティベリウスは九歳で父親の葬儀の追悼演説をしている。「世が世」であったところで、愛もへったくれもない結婚をして子供をなし、自分の姉妹や娘を、腹の中では絞め殺したいと思っている男に嫁がせる覚悟はあるのか。できない限りは、政治家として至れる程度は知れている。

 ――そういうことだ。過去の遺恨にこだわり続けたのなら、俺はアウグストゥスに警戒すらされないだろう。世の中を渡れないその程度の男では、ローマでは使いものにはならないからだ。


「どうすんの? これから」

「一度ウァロ先生の所に報告に行く」

「それ済んだらうちに飯食いに来ないか」

 オクタウィア様も博識の誉れ高いユバがお気に入りだし、異母妹たちもユバを話好きでやさしい親戚くらいに思ってる。

 ユバは一瞬考え込んだ。以前だったら無条件に承諾したはずだが。

「……いいよ、また今度」

「何で」

「ちょっと調べ物があるので」

 ふーんそうですか。お前最近つきあい悪いよな。理由はあんまり聞いて欲しくないみたいだけど。


   ☆何でユバが招待に応じないのか、という理由は、「真昼の月」をご覧下さい。☆



 うちに帰るとオクタウィア様に呼ばれた。今住んでるカリナエは、ローマでも屈指の高級住宅街で、フォルム・ロマヌムにも近いしオッピウス丘からの眺めも良くて、人気がある地区だ。建物だけ見ても、アウグストゥスの姉君が住むには申し分のない屋敷であると思う。

 何故かというとアウグストゥスの住んでるパラティウムの屋敷は、立地条件はいいとしても、ローマの最高権力者にしては質素と言うかなんというかで、それに関してだけは「勝ったな」と思ってしまうのだ。

 オクタウィア様の部屋に行くと、侍女たちに囲まれて部屋中に布を広げているところだった。

「ちょうど良かったわ。あなたのトガ用の布なの。少しあててごらんなさい」

 成人の儀式が近いこと、その準備の進み具合。父親亡き後、俺を育ててきてこの日を迎えることが出来ることが、感慨深いこと。そんな話だ。

 継子の俺は、マルケルスと分け隔てなく扱われている。お優しいとばかり思われがちだけど、俺を怒る時もあるし、その際には実子と同様にくどい御説教がつくのだから、その完璧さには恐れ入る。

 一応こっちは思春期で、難しいお年頃なんだけど、母親にとっては息子が息子であることには変わらない。言い返せば怒るし返事をしなきゃまた怒る。こっちの言い分も聞かずに問答無用で「子供が親の言うことを聞くのは当たり前です!」 と幼い異母妹たちを叱る時と全く同じ口調で説教されることもある。

「あれは愛情なんかじゃないわよ。私たちのことを嫌いなんだわ」と妹たちが納得いかなそうに愚痴るのを聞きながら、わかるなあと思ったりする。そういうとこまで、オクタウィア様は完璧に俺の母親であるのだ。なるほど、母親ってのはこういうものかと愛情だけでなくしんどさまで実感させていただいている.。

 俺の実母に比べたら、というか比べるのも失礼な話なんだけど、女神のような方だ。

 もっとマシな男と結婚すれば、今頃幸せだっただろうに。

「やっと俺から手を離せるのが嬉しいんでしょう」

 よく俺、成人式やるまで生きてられたよな。

 オヤジの仲間からもアウグストゥスの周辺からも、俺は殺されるはずだし殺すべきだと見なされていた。

 この方がいなかったら、俺は今、生きてはいない。

「ユルス。あなたはもう子供ではなくなるのですから、自分の行動に責任をお持ちなさい」

 ずっと疑問に思っている。

 オクタウィア様は、俺が亡き夫、マルクス・アントニウスの息子だから無条件に愛してくれるのだろうか。それともアウグストゥスのように、俺が立場をわきまえているところを評価してくれているのだろうか。

 今は避けているけどオクタウィア様と、いつかオヤジの話が出来るようになるだろうか。

 その時、オクタウィア様はどんな表情をするのだろう。



 数日後に、またユバから使いが来てフォルム(広場)に呼び出された。何だよ、今までならお前の方がうちに歩いて来るのに、と思っているのだが、ちょっと今、ユバはうちの家庭と微妙なことがあって、それに関してはふれないようにしている。いくら友人でも踏み入っていいことと悪いことがあって、ユバが「今は、少しそちらと距離を置かせて下さい」という態度とっているんなら、落ち着くまで待つしかない。

「何だよ」

 ユバの用件はもちろんA家のことであって、最近我が家へはご無沙汰している理由の件とは無関係だ。

 こういう時に、何か言っても仕方ないんだけどさ。

 俺、ちょっとショックなんだけどな。

 お前なら大喜びしてくれると思ってたのに。

 言いたいのを我慢する。今そんなこと言っても、何も解決しない。悪い方向に行っちまう可能性だってある。

「ついてきて欲しい場所があるんだ」

「ふーん」

 お前も結局、俺のこと頼りにしてんじゃないのと思ったが、後でわかるが、実質的に荷物持ちだった。

「何か見当はつけてるのか?」

「……書物一巻、は本当にお駄賃なんだよ」

「は?」

「終わってから言うよ」

 ユバは曖昧に返事をした。アタマのいいヤツはそういうところが鼻につく。

「何が? それからそうやってもったいぶるの、やめてくんない?」

「遺言の順番に、書物を贈与される人に会いに行く。今言うわけにはいかないのは、君に先に話してしまったら、帰ってしまうからだよ」


 そういうわけで、俺らはまずA邸に向かい、遺言の通りに故人が指定した書物を持ってから、指定された人物へローマ市内を歩いて配った。そんなの誰かにやらせればいいのにと思ったが、これも偵察の一環なのかも知れない。

 書物を入れる容器があり、先に使いを出してから俺らが訪問する。

 故人と関わりのあった人たちは、不思議そうにしながらもこれは形見分けだろうと、礼を言ったり感慨深そうにしていた。まあそれなりに価値はあるのだし、嬉しくないことはないだろう。だがヌミディアの王子ユバ(と何故かユルス・アントニウス)が配りに来たのには、一様に驚いていた。

 ユバが「贈与を指定されたことに、心当たりはありますか?」

 と尋ねると「はい、なんとなくは」と返事が返ってくる。だけどユバ同様にピンと来ないらしくて、首をかしげている。そんなことが何度か繰り返された。でもユバは「そうですか」とだけ答えて、深くは追求しなかった。

 いったい何なんだろ。



「ユルス、何をしているんだ」

 帰宅すると、待ち構えていたマルケルスに尋ねられた。俺が不審な行動をしているからだ。

「俺もわかんない」

 何だよそれ、と逆ギレされる。だから俺だってユバに教えてもらってないんだよ。

「アウグストゥスの耳にも入ってるぞ」

 いいよもう。貴族の遺言を執行したからって、怒られることじゃないはずだろ。しかし何でユバがおかしいのはあっさりスルーされて、俺だと心配されるんだ。

「母上を心配させるようなことをするなよ」

 うわ。

「お前が変なことしてると、アントニアたちも落ち着かないし、それに――」

「ああわかったから!」

 俺が内心で、どんなにヘラクレスの末裔として誇り高く威張っていたとしてもだ。俺には謀反なんて、できるわけない。

 オクタウィア様が悲しまれるのだと思うと、それだけで萎える。オクタウィア様の泣き顔は知らない。俺たちの前では絶対に泣かなかったからだ。だけど俺は知ってる気がする。泣き声も聞いたような気がする。それは俺の記憶の違いなのだが、見てることになってるのだ。

 あのクソオヤジ、殺してやる、と本気で思った。

 オクタウィア様を悲しませている男が、自分のオヤジだと思うと、心底自分が嫌になった。

 実際のところ俺もわかってなかったから、これも記憶違いなんだと思う。だって三年くらい前の十一か二の俺が、自分が明日どうなるかわからないという気がおかしくなりそうなほど不安な時に、そんな物騒なことを今のような生々しい怒りの感情で考えていたとは思えない。後で人に聞いて、再構成した記憶なんだと思う。

「何だよ」

 マルケルスは不審そうに俺を見ている。

「お前、A家の嫁に手出したのか?」

「はあ?」

 ……何なんだよそれはーっ!!



 さんざんだ。昔遊びに行った家の妹で、単なる幼馴染じゃねーか。何でそんな噂たてられなきゃなんないんだ。

「それは日ごろの行いだと思うけど」

 ユバは同情してくれない。おいちょっと待て。お前が全力で否定しないと、俺の無実は誰が証明するんだよ。

「わかったから。一応、あの嫁の腹の子の父親は君ではないと皆には言うから」

「もっときっぱりはっきり、否定せんかい!」

「だって別の人の奥さんのとこには通ってるだろ?」

「……」

 くそー。なんだ汚らわしげなものを見るその目つきは。お前は乙女か。

 本を配り歩いて三日目。本日も一巻(というか全何巻かの書物を一セット)、持っている。アウグストゥスとユバを別にすると、これが最後だ。行き先はとある神殿だ。

「忘れてたけど、ウァロの指示はどうだったんだよ」

「遺言書に指で線を引かれた」

「線?」

「境界線。で、私とアウグストゥスと、これから行く神殿には共通点がある」

「何だよ」

「故人とはあんまり面識がないってこと」

「で?」

「ここが故人の目的なんだよ。ここの用はすぐに済む。図書館に戻ってから話をしよう」


 で、実際に用は早く済んだ。

 神殿はウェスタ神殿で、男はあまり長居すべき場所ではないからだ。ただユバはその辺にいた奴隷に頼むのではなく、実際に巫女たちに使えている女を神殿の玄関に呼びつけた。何でか俺の名前を仰々しく伝えてから。アウグストゥスの甥っ子ってのは、そういうとこで便利なんだろうかと思ったが、大げさにしたかっただけらしい。

「A殿からの遺言なのです」

 とユバは巻き物を押し付けながら、故人の名前を強調した。が、言われても神殿の方も心あたりはない。

「献上される相手がどなたかの、お名前はないのですか?」

「うかがってはおりませんね」

 ……聖女様のおつきのお嬢さん方。

 困った顔で「この人、大丈夫なんですか」とでも言いたげに俺を見るのはやめてくれ。

 俺だって時々、こいつが果たして人が言うほど頭がいいのか、ふと疑問に思うことがあるんだ。



 アポロ神殿はパラティウムの敷地内にある。昔、雷が落ちたため、卜鳥官から「雷神の特別お気に召した土地」というお墨付きをいただいた場所に建てられたもので、アウグストゥスの住まいと直結している。

 図書館をギリシア語ではビブリオテケーという。ビブリオは書物。テケーは函だ。図書館は、神殿に付属していることが多い。アレクサンドリアはムーサイやセラピスの神殿に付属しているし、ペルガモンは知識の女神アテナに捧げられている。ローマの公共図書館は、アポロの名を戴いている。アポロは、アウグストゥスがたとえられた神でもある。

 ギリシア世界では当たり前の施設なのだが、実はこれまでローマには個人の図書館は存在しても、公共図書館はなかった。その点ではやっぱりローマは遅れていると言わざるを得ない。ウァロ御大はギリシア語上位の風潮に一石を投じ、ラテン語による文学の評価の向上を志している。その思想の表れとして、アポロ図書館は二棟あって入口はそれぞれ分かれている。一つがギリシア語のもの、もう一つがラテン語のものだ。

 アポロ神殿のラテン語の方の筆写室では、ウァロが膨大な書物に囲まれている。愛国心が強いというか、かなーり偏見の激しい老人だ。

 ウァロは元はポンペイウス派の政治家だったが、いろいろあって今は六百冊の書物を著したというローマ最大の学者だ。まあなんだ、俺のオヤジにちょっと嫌がらせを受けて、収集した書籍を略奪されたという過去があって、あんまり顔を合わせたくはないし、どっちかと言うと向こうが嫌だろと思うんだが。……オヤジ、ホントに恨むぞ。

 しかしウァロは俺が誰かには気づかんらしく、執筆活動を一時休み、ユバを座らせると話を促した。見てると会話ではなく手振りや表情でわかりあっている雰囲気だ。なんだか俺にはわからん、あうんの呼吸がここにはある。

「終わりました」

 ユバが言うと老人は「そうか」と満足そうに答えた。

「これで故人も安心であろう。それにしてもまだ若いのに、不憫なことじゃったの」

 八十四の老人から見たら、誰の死も不憫だろうけどな。

 爺さんの横顔を見てると、苦労したんだろうなという面影が嫌でも目に付く。その原因の一つは俺の父親で、大切にしていた書籍を巻き上げられるという、学者には気が狂うような目にあってるのだ。以来、政界に嫌気がさして執筆活動に専念してしまった。アウグストゥスが爺さんにこの仕事を任せたのは正しいと思うけど、ローマの男ならまず政治家であり続けるべきだった。文学によって名を残すのは二流なのだ。

「悪いけどバカな俺にも、わかるように話してくんない?」

 これにてこの師弟の会話が終了しちまいそうだったので割り込んだ。


「ああ、つまりウェスタの聖女が、故人の目的だったんだよ」

 ユバは遺言状を広げながら言った。

「だから、弁護士も医師も解放奴隷も、全部どうでも良かったわけ」

「……は?」

 ウェスタ女神はかまどの神だ。終生の純潔を義務付けられた、六人の貴族の娘が巫女として仕えている。ついでにこの神殿では重要文書や遺言書も保管する。これが相当な権威がある。

「何でどうでもいい奴らに、遺言で書物を配ったわけ? つーか、ウェスタの巫女と死んだおっさんて、何か関係あるわけ? まさか恋仲だったとか? 冗談じゃない。六歳とかせいぜい十歳かそこらで巫女になるもんだろ」

 ユバはさあ、と呟いた。

「……ただ、故人とウェスタのある巫女様が――まあ、恋愛であるとは思えないけど。年齢差もあるしね。ただ、一時期、家族同様に親しくしていたらしい。もともとは婚約をしていたけど政情で破棄されて、巫女様は神殿に入ることになり、その家族も内乱で失脚して断絶している」

 ウェスタの聖女の任期は三十年だ。病気になっても家族の元には帰らず婦人の屋敷で療養する。純潔を汚すことがあれば棺架に縛り付けられ、葬列とともにコッリナ門の傍の「罪の野」の地下室に入れられて、土で覆われ生き埋めにされる。相手の男も「近親相姦」という恥ずべき罪状をつけられ、鞭打ちで死刑だ。共同体の女に手を出すということは、姉妹と関係することに準ずるのだ。それくらい厳しい。

「巫女様に、最後に自分がずっと覚えていたことを、伝えたかったんだと思う」

「……」

 俺には理解できん。

「何か不満?」

「えーと。だったら手紙でも書くとか、遺言で堂々と何か渡すとかないのか?」

「他人はどう思うだろう」

「……?」

「故人は奥方が邪推することを考慮したのだと思う。ウェスタの巫女だよ。恋愛感情はなかったとしても、万が一仲を疑われたら反逆罪だよ」

「奥さんに素直に言っといて、笑いをとった方が楽じゃないのかね? 隠すから疑われるんだし」

 ユバは甘い、という顔をした。

「心の中ではとっくに奥方を裏切ってたから、後ろめたかったんじゃないのかな」

「そっちのがまだわかる」

 けどまだ十歳にも満たない幼子だろ? おかしくないかね? 

 俺はフロラの十歳の頃を知ってるけど、ホント可愛かったし。腹の丸くなった姿を見なければ、いい思い出のままだったかも知れない。ただやっぱそれは俺が同年代だったからで、いい年して結婚してるオヤジが、そんなこと思い続けてたら、やっぱ奥さんには言えねーな。相手は当時、六歳だの八歳だの、どんないってても十歳の子供なのだ。

「故人と婚約話があったのは、初婚の相手と離婚して、今の奥方と再婚する前だから、二十五年ほど前。つまり故人が三十半ばの頃なんだけど。相手は今、三十代になってるんだよ。見かけることもあっただろうしね」

 五年もすればお役目を終えて出てくるだろう女性だ。びみょーな感情で見守ってたのだから、確かに堂々とはしにくいのかも知れない。



「確かに恋愛とは違うのかも知れない。家族や親族、保護すべきものヘの思いやりに似ているのかも知れないし、自分でもばかばかしい。でもそういう心の中の存在って、他人には説明しにくいんじゃないの?」

 何でか、俺にはオクタウィア様が浮かんだ。

 あの人のことは母親だと思ってる。そして理想の女性だ。男が描くとんでもなく高い理想像の実物が目の前にいるわけだ。しかしながらやっぱりガンガン説教してくるちょっとカンベンして欲しい時もある母親であって、恋愛とか性欲の対象というのとも違うんだけど……でもよく考えたら俺、血はつながってない。そこまで考えて、ああ俺はそこまで落ちたか、と自己嫌悪することがある。俺は命の恩人に対して相当な無礼者なのか、単純にマザコンなのか。ホントの母親だったらそんなことに落ち込まないで済むのに。

 俺がこの先、妹たちを無事に嫁に出しても、絶世の美人と結婚して申し分ない円満な家庭を築いても、オヤジ並のローマを敵に回すような大恋愛をしても、俺には「泣くオクタウィア様に何もしてやれなかった」という「偽りの事実」を埋め合わせることはできない。憧憬とか性愛とかそういうんでなく、欠損であり続けるのだ。

 オクタウィア様がちょっとでもいいからオヤジに対する恨み言を口にしたり、継子の俺をイジメたりしてくれれば良かった。俺の前で泣いてくれてれば、俺は彼女に傷つけられたはずなのに。

 あの人への感情を、どう表すべきなのか俺にはわからない。母親でいいと思う。でも母親がわが子を守るのが当たり前なのとは、明らかに違う行為に対して、感謝とか家族愛とかそういうことではなく。どう言ったなら伝えられるのだろう。



「お前にしては、随分と繊細っぽいこと言うな」

「まあ私はローマ貴族じゃないから想像だけど」

 でも、なんかひっかかるような。

「そこまでして、相手に自分の思いを伝えたいと思うのかな」

「死期を悟って、ウェスタ神殿と私のことを書き足したようだね」

 ユバは言った。

「私は混乱させるためのコマだと思う。家族も何故ユバにと不思議がる。アウグストゥスや神殿ならまだ理解できる。何故ユバなんかに。これが狙いなんだと思う」

「……」

 なんだよそりゃ。

「それでお前は『ヌミディア王の息子、ユバでーす、A殿の遺言で本を届けに来ましたー』っつーサービスを、三日間かけてやってさしあげたわけかよ」

 しかも俺まで変人扱いされてんのに。

「うん。私への書物はその駄賃の意味もあるんだろう」

 な、納得いかねー。

「お前それ、いつわかったんだよ」

「一日目に、ウァロ先生に遺言を持ち帰って見て頂いたら『ここから違う』と線を引かれたんだ」

 ……お前ら。それで通じるのかよ。デルフォイの神託かよ。気持ち悪いんだよ、わけわかんねー。

「『何故自分が贈与に預かるのか、ご存知ですか?』って尋ねたけど、本当にわかってた人はいなかったと思う。どうせたいした本じゃないし、故人もどうしても与えたかったわけじゃないから。奥さんのところに『何なんですか、あれは』って言いに来るけど、誰もが本当の意味はわからない。巫女様だけは、ユバが来てこう伝えたと言われても『わかりません』と答えるだろうけど、わかるんだろうね。幼い時とは言え、一度は婚約していた男なんだから、名前くらいは覚えているはずだよ」

 たいした本じゃねーって。お前らにかかれば、普通の貴族が所有している書物なんざ、ありきたりじゃねーか。それだって十分に高くて貴重なんだから、あの奥さんや息子だって全く納得してるわけではないと思うぞ。

「……で、それ、あの家族に言うの?」

「奥方は傷つくと思う?」

「俺は男だからなー。女心はわかりませんことよ。今は良くても死ぬ間際に『やっぱクヤシー、キーッ』だったら申し訳ないだろ」

 そこで爺さんが言った。

「マルクスの息子よ」

 うへー。

 気づいてるんじゃん。俺ってやっぱ親父に似てるのかな。

「年をとると、たいていのことは許せるようになるのだよ」

「……」

 おみそれしました。

「けどさあ。ホントの目的ってこの遺言状の線がもうひとつ手前だったりして、実はお目当ての剣闘士とかいたりしてな。秘めたる思いで、奥さんにも絶対に言えないとかってのが実情だったら笑える」

 ユバの表情が固まった。言って欲しくなかった、という顔をしている。困ったようにウァロを見て「どうしましょう」と言った。そっちだったら困る。

「女は認めまいよ」

 師はあっさりと答えた。


 ユバはA家の故人の書庫から書物を選んだ。

 これがいい、というわけではない。消去法で「仕方ないなー」というように選んだその書物は、ユバに言わせると「正真正銘の偽書! しかも稚拙で出来が悪すぎる」「この時代こんな言い回しはしないし、考証以前に当たり前の教養がない」「面白いから宴会に持っていこう」

 知識人たちの間でネタにして、笑い飛ばすらしい。

 恐ろしい……。俺にはわからん世界だ。

 フロラには一応、ユバの見解を俺から伝えておいた。どう判断するかはやっばり未亡人次第だと思う。……まあいいや。


 カリナエの屋敷で昼寝から起きて部屋を出ると、通りかかったマルケルスが俺に言った。

「さきほど遣いが来て、A殿のうちに、赤ん坊が生まれたそうだよ」

「……へええ、すげーな。あの娘が母親かよ」

 フロラも主人を亡くした家族を思って、一人だけ元気にふるまってたけど、やっぱり出産そのものを心細そうにしていた。無事に生まれるかはわかんないし、女には自分が死ぬかもわかんないおおごとだからな。友達のうちに遊びに行くか。最近会ってなかったことだし。

 あー、でもまだ実感わかないや。この間までままごとしてたような女の子だったのに。

「……」

 なんだよその目。

 つーか部屋の影からこっちを見てる異母妹たちよ、どういう意味だ。

「だから違うってんだろ、俺じゃねーよ!」

 そういうことばっか疑われるんなら、そのうち期待に応えてやるぞ、いいのか?




 もう少し暖かくなると、成人式が待っている。

 成人すると、長年首にさげていたお守りを外し、子供用の緋色の縁取りのあるトガから、無地の大人のトガをまとうようになる。市民の前でおひろめをして、ローマ市民として文書館に名が登録される。

 するともう、子供だからという理由では守られなくなる。

 俺の実兄はアウグストゥスに殺された。オヤジのいるエジプトのアレクサンドリアにいたのだが、当時既に成人していたので、生かしてはおけなかったのだ。

 子供だからと許されていたことが、もう通用しなくなる。

 もう、俺は殺されても仕方がない身分になるわけだ。


 今、俺は子供の領域にいる。力を持たず、何の権限も持たない代わりに、純潔であり、神聖であるために、保護されるべき立場にある。

 だが俺は成人し、その安全な領域を出ることになる。

 政治に参加し、戦争をし、結婚もするだろう。ローマ人の義務だからだ。自分の身に責任を負い、自分の為したことで死がふりかかるかも知れない。

 素晴らしいことだ。

 あのクソオヤジに連座して、殺されることに比べたら。

 

 オヤジのやらかしたことに呆れはしているけど、ああいう人物の息子であること自体には、文句はない。我ながら呆れるけど、今でも嫌いではないし、そういう生き方もありだったと思う。

 だけどあんなやつのせいで、死ぬのだけは嫌だ。絶対に嫌だ。

 この先順当に役職を得て、政治にかかわっていく中で何かやらかして失脚することがあったとしても、それは俺の力量でそうなるのであって、今更父親の罪状で刑罰を受けることはない。そのこと自体は悪くはない。

「私は君が心配なんだ」

 とユバは言う。奴は俺を生涯案じるだろう。どうか堪えてくれ、やり過ごしてくれと、願い続けるのだろう。

 だけど仕方がないじゃないか。お前の方が歴史にずっと詳しいはずだ。ローマ人は、ローマに王を認めない。

 俺はアウグストゥスに、この憎悪なのか敬意なのかよくわからない思いを、伝えることはないだろう。一人のローマ人として、感謝も尊敬もしている。だけど服従するわけにはいかない。

 ローマ人は、一人の王に屈するわけにはいかないからだ。




ウァロはこの翌年に亡くなっています。

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