冷たい瞳に見下され。
地下の測定室から階上へ向かう途中、シエルは持っていた学校指定のコートを羽織る。淡い青色のそれは好きではなかったが、左腕の怪我を隠すには最適だ。
ゆっくりと階段を上がり、訓練場に足を踏み入れる。
破壊された壁のせいで外がよく見える。いつの間にか雨が降り始めていたようだ。
盗賊騒ぎで学校どころではないと思っていたが、生徒たちは学校に集まりつつある。
何人かの後輩とすれ違う。その度に声をかけられた。
「シエルさん!」
「祈りの儀式、お疲れ様です」
「卒業おめでとうございます」
彼らにとってはまだ、優秀な魔法使いシエル。首席で卒業した先輩だ。
「ありがとう」
落ち込んでいると知られないように、精一杯の笑顔で返事をする。涙が零れそうになるのを必死で堪える。
――大丈夫。まだ、大丈夫……。
誰もがシエルのことを知っている。今、グリューン魔法学校で一番の有名人で人気者。誰よりも優秀で目標とする人物であるからだ。
魔法がなければ、彼らはシエルのことを知りもしなかっただろう。いや、逆の意味で、例えばマールのように有名になっていたかもしれない。
「わたしはもう……」
誰にも慕われない何も出来ない人間だと、自嘲気味に口角を上げながら魔法訓練施設から出る。
「遅かったじゃない」
一歩足を踏み出したところで、雨の中で佇むアイレと目が合った。
「あ、そうか」
そしてシエルは気づく。決闘を申し込まれていたことを。
アイレを中心に何人かの生徒たち。学年担任の女教師。見物に来たたくさんの生徒たち。雨の中を傘もささずに待っていたようだ。
先程まで調査していた魔法騎士団や自警団たちはいない。
雨が降ってきたからなのか、決闘のために場所を空けたのかはわからない。
「まさか、あなた。忘れてたの?」
「うん、忘れてた」
シエルは悪びれることなく、アイレに正直に伝える。
いつものシエルらしい言いようにギャラリーは笑い、アイレは怒りを露にした。
「早く始めるわよ!」
アイレに促されて、仕方なくシエルはその舞台に立つ。
――もしかしたら、アイレなら殺してくれるかもしれない。
そんなことを目の前にいるライバルに望む。
魔法訓練施設前。正午を三十分以上過ぎ、やっと主役の二人が揃ったことで決闘が始まろうとしていた。
審判役であるアイレの担任が前に進み出る。厳しい表情をした若い女教師だ。
「アイレ、シエル。正々堂々と戦いなさい。勝負は魔法のみ。参ったと言うか、戦闘不能になった場合に勝負は決します。いいですね?」
何度も聞いた決まり文句だ。それをシエルは今までずっと聞き流していた。
しかし今日は違う。女教師の言う"魔法のみ"という言葉に、すでに勝負は決まっていると知ることになる。
シエルには何も出来ないのだから。
「観戦は自由です。ただし、これ以上近づかないように!」
ギャラリーに向けて言い放つ。中央に立つ二人をギャラリーたちは片側の壁沿いで観戦する。
それはシエルの魔法を警戒しての行動だ。近づけば巻き込まれる可能性が高い。
「始め!!」
広場に女教師の声が響く。
いよいよ始まった一方的な決闘をどう切り抜けるかシエルは考える。気合いの入ったアイレは、その手を天に向ける。
「血肉を求める連続狂風剣の乱舞!」
無数の風剣がシエルに向かってくる。魔法を唱えようとして、先程の魔力ゼロの結果を思い出して手を下げる。
直前で転がるように避けるが、アイレは更に追い討ちをかける。
「体躯を抉る狂気の竜巻!!」
シエルの進行方向を塞ぐように地面から突き上げるような竜巻。逃げる方向を変えようと咄嗟に地面に手を着く。
「う……っ」
激痛に動作が鈍り、その身体は風圧によって持ち上げられる。背中から壁に打ちつけられ、そのまま崩れるように座り込む。
左腕を使えば激痛に動けなくなる。しかし庇いながらでは難しい。
どちらにしても、避けることはかなわないと気づく。
「シエルさんに魔法が当たった」
「シエル、防御しなかったの?」
風がおさまると驚きや心配、そして期待していた魔法が見られなかったことへの不満の声が囁かれる。
「シエル。やる気あるの!?」
「……気持ちだけは、ね」
「真面目にやりなさいよ!」
再びアイレが手を振り上げる。シエルは壁を支えに立ち上がり、目の前の最強魔法使いを見る。
「本当に努力家よね、アイレは」
自分にだけ聞こえる呟き。今は素直にアイレを評価出来る。
しかし、そんな風に思う弱い自分も嫌いだとシエルは笑う。
「やる気出さなきゃ、死ぬわよ!」
馬鹿にされたと思ったのか、アイレの表情が変わる。
――死ぬ、か。
それでもいいとシエルは思う。むしろそうしてほしかったのだ。生きている意味などなかったのだから。
――アイレがそうしたいのなら、殺せばいい。わたしはそれだけのことをしてきた。
シエルはアイレの攻撃を待つ。冷たい雨の一つ一つが見えるような感覚に陥る。
本来ならば避けられる魔法。それをただ待って迎えるということは、負けを認めるのと同等だ。
恐怖よりも苦しみが強い。
「猛り狂う憤怒の鎌鼬!!」
雨がやんだのかと思うほどに強い風だ。
巨大な竜巻がシエルの目の前。風の音に耳が痛くなる。
鋭く尖った風がシエルに迫る。
突風に煽られ、滑るように地面に倒れたシエルは目を見開いた。
――わざと逸らした。
鎌鼬が当たる直前、それはいきなり方向を変えたのだ。
「いい加減にして!」
顔を上げると、苛々するアイレの姿が目に入る。いつの間にか目の前で仁王立ちをしていた。
「シエル! あなた、あたしを馬鹿にし――」
「してないわ!」
シエルは立ち上がらなかった。
水たまりの中にいても、泥にまみれていても気にすることなく、ただじっと攻撃を待つ。
「なら、どうして攻撃しないのよ!」
「したく、ないから」
「したくない?」
「わたしは、どうせ……」
殺してくれないのであれば、いっそのこと自分を傷つけ壊れてしまえばいいとシエルは思う。
「あなたにかなわないから。勝てないから」
もう認めるしかなかったのだ。
今、アイレは誰よりも強いのだということ。誰よりも弱いのが自分自身だということを。
――わたしは弱い。魔法をなくした魔法使い……。
プライドも、優越感も、首席の自分も、自分の命も。何もかも捨てるしかないと、シエルは薄く笑う。
「アイレ。あなたは強いわ」
笑顔で見上げると、アイレの周りの空気が変わる。攻撃的な鋭さが消える。
「なら、早く負けを認めなさいよ!」
屈辱だ。
あれほど馬鹿にしてきた人物に負ける日が来るなど考えたこともない。
大勢の前で醜態をさらすなど、こんな屈辱味わったことはない。
『すごい魔法使いが二人も町にいるんだ。最強コンビになれるよ、あんたたち』
『シエル。その性格、いつか後悔することになるぞ』
間違っていたことに気づけなかった自分を責める。いつも、どんな時でも、誰かが言ってくれていた。
"お前は間違っている。考えを正しなさい。"
それをシエルは馬鹿にして切り捨ててきた。そして本当に後悔する日が今、やってきた。
――優しいシエルだったら、あなたは同情してくれたかな。まさか、ね。
寂しく笑うシエルに苛々したアイレが、更に一歩近づく。
「さっさと言いなさいよ!!」
女教師はその様子を見て手を上げる。そこには緑色の宝玉が握られていた。
「参り……ました……」
その瞬間、女教師は呪文を唱え手にあった宝玉を壊す。途端に緑色の閃光が上空に打ち上がる。
「シエルさんが、負けた」
「あの、シエルさんが?」
「冗談だろ?」
しばらくして、学校にあった校旗は全て緑色に変わる。
それは、アイレがナンバーワンになった証拠。そして、シエルが負けたことを知らせる。
「そんなもんか。あーあ、つまんない!」
アイレはそう言い残して去っていく。かつて、シエルがアイレを傷つけた言葉を彼女は覚えていた。
吐き捨てるように言い放ったアイレの目はとても冷たい。そういう彼女にしたのが自分だと気づき寂しくなる。
「負けた……わたしが?」
雨の中、シエルは壁に寄りかかったまま呟く。
何かが壊れた音がシエルの中で、いつまでも響いていた。