安全圏への逃走
カルマが倒れたその日に、シエルとアルボルは荷物を持ってクヴァレ町を離れた。
誰にも言わず、見つからないように町を出たのは夜。急ぎであっても夜に下山するのは危険。
夜明けを待って山を降り始めた二人は、緑の深い場所を選んで西に進んでいた。もう半日以上歩き、日暮れは近い。
昼頃に降り出した雨は止む気配がない。それでも二人は雨宿りさえしなかった。
「詳しく教えて、アル」
「わかった」
クヴァレは二つの連なった山の間に作られた町だ。
ズユー国の東西を隔てる双子鉱山はそれほど標高はない。かつて珍しい鉱石を発掘するために、削り取られてしまったという。鉱石は山に残っているが、現在、掘り起こすことは禁じられている。
今では山賊たちが残った双子鉱山を守るように町を作ったという話だ。
ここにいる誰もが知っているズユー国だが、シエルにとってはよく知らない場所だ。
「双子鉱山を抜けたら湖がある。今は雨季に入りかけているから、水量は多い。だから湖を越えるのは時間がかかるかもな」
真っ直ぐに渡る船はないので、湖沿いを徒歩で回っていくしかない。
「湖の先には鉱石発掘の影響で砂漠化した砂地が続いてる。その先が目的地」
「なるほど。一筋縄じゃいかないか」
半日以上歩いて、まだ双子鉱山を抜けられない。湖はもうすぐだとアルボルは話す。
「砂地まで行けば列車があるけど」
シエルは首を横に振った。
「無理よ。すぐに見つかる」
「だけど、砂漠を行く準備は何も出来てない」
アルボルの言う通りだ。必要なものは何も持っていない。列車を使わない旅は危険すぎる。
「じゃあ、外側。海から行けないかな。船を持つのは海賊でしょ?」
「確かに。だけど今、都合良く船があるかどうか……」
「状況がわからないし、とにかく湖まで行こう」
シエルは言い切って、歩くスピードを上げた。
二人が目指しているのはズユー国の西側。安全圏と言われているそこには、オプファー魔法学校とズユー大法廷がある。
アルボルの言っていた砂漠化した砂地を越えると、また違った風景が見えてくる。
二体の神の像が迎えるそこをシュトライヒ国家と呼ぶ。海賊や山賊とは同じ法の元にありながら、一線を引いた場所。だからこそ国家を名乗っている。
気に入らないと言う者もいるが、その存在こそがズユー国の要だ。
博愛の神を崇拝している司祭は、事情があって逃げてきた者を快く受け入れてくれる。海賊も山賊も、もちろん他国の者も決して手が出せない場所だ。
他国で罪を犯した者は必ずシュトライヒ国家にて許しを請う。そして数年はそこで過ごし、その後は好きなようにズユー国のために働く。多くは山賊として生きる道を選んでいた。
とにかくシュトライヒ国家は今、シエルたちにとって唯一の逃げ場であった。
「なあ、シエル。本当に信じていいのか?」
「今は信じるしかないでしょ」
全ての始まりはカルマの言葉だ。
シエルが伝えることを全て言い終えると、彼は出口を指さした。倒れる直前だった。
『すぐに逃げなさい。でなければ、大変なことになる。アルボルくんを連れて、早く! 捕まってはならないよ!』
最初は何のことかわからず、倒れたカルマが回復するまで待ちたいと思った。
しかし、それが鬼気迫るような表情であったこと、彼が嘘を言うような人物ではないことから廊下で一人悩んでいた。
自分の命が危ういというのに、シエルのことを想って逃げろと言ったカルマ。そんなカルマの想いを無駄にしてはいけないような気がした。
そして、アルボルに会って動くことを決意する。アルボルを安全な場所へ連れていくことが、今のシエルに出来ることだと思い直した。
「行き先、ボニート町じゃ駄目だったのか?」
「よくわからないけど、追われている状況で海賊の町に行ったら迷惑がかかる」
雨で緩くなった土に足を取られながら、急ぎ足で進む。すでに夕方。休みなく歩いてきた二人は限界であった。
「本当に追われてるのか?」
「多分――」
シエルはもつれそうになる足を必死に動かす。
「血肉を求める連続狂風剣の乱舞!」
雨の音を断ち切るように聞こえた呪文に、シエルはアルボルを押し倒すようにして伏せた。
そばにあった草木が傷ついて飛び散る。倒れたままでシエルは後ろを振り返った。
「……あれは」
今、カルマの言葉は当たっていたことを知る。
クヴァレ町の猛者たちが、シエルたちを狙っていた。
「なんで、山賊が?」
アルボルの疑問に答える余裕はなく、理由などシエルにわかるはずもなかった。
「体躯を抉る狂気の巨岩嵐!!」
連続の魔法攻撃を避けると、今度は道を塞がれた。
シエルは鉱山道を諦めて、道のない山に入っていく。木々に隠れながら、アルボルの手を掴んで走る。
「シエル! 道、わかってんのか?」
「わかるわけないでしょ!」
「適当かよ!!」
アルボルが叫んだ直後、
「体躯を抉る狂気の火焔嵐!」
熱風が二人を掠めた。
木が燃えて、明るくなるそこに二人の姿が映し出される。
「いたぞ!」
「逃がすな!!」
魔法が使えない二人には不利な状況だ。しかし、捕まればどうなるかを考えると逃げるしかなかった。いいことがあるとは思えない。
「一体、どうなってんだよ!」
「知らないわよ。とにかく走って!」
泥まみれになり、傷を作り、足の感覚などなくなってしまったかのように冷たい。それでも走って逃げなくてはならなかった。
二人の荒い呼吸、緩い土を踏み駆ける音。そして追ってくる足音。その全てがシエルを焦らせて、うまく走れない。それでも行くしかなかった。
「嘘だろ」
しかし、二人は立ち止まる。全ての道を塞ぐように駆けてくる山賊は数十名。木々がなくなったと思ったそこは崖の上であった。
「はぁ……はぁ……っ」
「行き止まり……」
二人は行き場を失った。激しい雨が打ちつける中、屈強な男たちが対峙する。
ある者は刀を持ち、ある者は手のひらを向ける。魔法が使えないシエルとアルボルには絶体絶命の状況だった。
「殺すつもりはない。クヴァレに戻って欲しいだけだ」
数十メートル下に見えるのが、先程アルボルが言っていた湖だ。雨が激しく打つ様子が見える。
「わたしたちを追う理由を聞かせて」
「それは今、話すべきことではない」
彼らの仕事はシエルたちをクヴァレに連れていくこと。しかし、それはカルマの命令ではないはずだ。彼は今、指示できる状況ではない。それに逃げろと言ったのはカルマ自身。
別の誰かの命令。カルマが動けない時に代わりをする誰かだ。シエルは彼らを睨む。
「お前たちは、なぜ逃げ出した? こうなるとわかっていたのだろう」
「……なんとなく、かな」
まさかカルマに言われたと話すわけにはいかず、適当に誤魔化したシエル。
「ほう、なかなか鋭い」
シエルはアルボルの手を取る。驚いたアルボルがじっと見つめるのをウィンクでかわした。
「さて、そろそろクヴァレへと来てもらおう」
「本当に、わたしを捕まえてどうするのよ」
「それは今――」
「言わないってのはわかってるわよ。でも、強引なやり方をしたって何も解決しないわ!」
強い口調で言うと、リーダーらしき男がムッとしたように目を細めた。
「ならば、その言葉。海賊頭領ベティスカに言ってやるといい」
思いもよらない名前が出てきて、二人は戸惑った。
「原因はベティスカにある」
「どういうこと?」
「今は話せない」
埒が明かない。どんなに探りを入れても喋らないつもりだ。
そう思ったシエルはアルボルの手を引いた。
「利用されるわけにはいかない。絶対に逃げ切るわ」
「……シエル!」
アルボルの身体を引っ張るようにしながら、シエルは後ろを向く。そこには何もないが、シエルは走り出す。
「シエル!」
「跳ぶわよ!!」
「嘘だろ!?」
言いながらも、アルボルはしっかりシエルについていく。全速力で走り、飛び出した二人の身体。
山賊たちは止めることも、攻撃も出来ず、声すら出す暇もなかった。
あっという間に二人は消え、水に飛び込む音が響き渡った。




