変貌と花火
時はシエルがアキを見つけるよりも前。まだ彼女が特設ステージで仕事をしていた頃――。
小さなバーに人が集まっていた。
美しい旋律。
長い指が流れるように鍵盤に触れる度に現れる感情。柔らかい音の中にある強さと、時折現れる悲しみ。
胸に響くそれに酔いしれる。
ロフロールがいるのは小さなバーであった。名前はエレギー。ピアノの生演奏とカクテルが楽しめると人気の店だ。
常に混んでいるのだが、フェスティバルの時は他に客を取られて待たずに入れるのが魅力である。
ロフロールはそれを知っていたので、フェスティバルの時には必ず来ていたのだった。
ステージだけに明るい照明があてられ、客のいるスペースは薄暗い。左右にあるバーカウンターにだけ、控えめに柔らかいライトがあるくらいだ。
客は小さなテーブルを囲んで、音の一つ一つに酔いしれる。そのテーブルにはグラスに入れたキャンドルがあり、お洒落でシックな雰囲気だ。
フェスティバルだと言って騒ぎ立てる人も、派手なメイクやコスプレをした人もいない。そういった大人の雰囲気がロフロールは好きだ。
だが、隣にはジュビアがいてカクテルを飲んでいる。これだけの美しい音を前に酒を飲むなどロフロールには考えられなかった。
「そう睨まないでくれないか?」
「あなたは音楽を舐めているのですか?」
「飲みながらでも、美しさはわかるさ」
ため息をつきながらも、時間が勿体ないと思いピアノを弾く彼に注目する。
なぜなら、彼が弾くのは一曲だけだ。しかも三分足らずの短い曲。他に気を取られるなど勿体ない。
バーで働いている男性かと思えば、そうではないと聞く。わざわざ、人の少ないフェスティバルの時期にだけ現れる彼。
そのピアノが聴きたいと言う客はロフロールだけではない。
彼の素顔は明るい照明があるにも関わらずよく見えなかった。
近くで見られたら表情がわかるというのに、ロフロールは前列の席に座れたことがない。今日のように空いている日でもだ。
それは彼の人気の高さを物語っていた。
肩くらいはある髪を無造作に縛ったスーツ姿の青年。足の長さなどから身長は高い方。辛うじてわかるのはそのくらいのものだ。
「彼、名前は?」
曲が終盤に差し掛かろうとしたところでジュビアが尋ねた。
「知りません。彼、名乗ったことがないんです」
「へえ。それは珍しいね」
ジュビアが驚くのも無理はない。
音楽関係者は名を売って、客に覚えてもらい、ステージに呼ばれるように努力するのが普通だ。
しかし、彼は名乗らずにステージに立つ。
それもフェスティバルのあるたった五日間だけ、しかも三分ほどの演奏。それだけで人を魅了する。
旅をしながら街で演奏する吟遊詩人もいる。しかし、彼はそれも当てはまらない。
吟遊詩人であるならば、フェスティバル中は人の多い公園や広場に現れるはずだ。
それはロフロールも感じていて、だからこそ毎年聴きたいと思うようになったのかもしれなかった。
そうこうしているうちに、彼の演奏は終わって観客からは拍手喝采。さすがだとステージで頭を下げる彼に魅入る。
一瞬、目が合ったような気がしてロフロールは俯いてしまう。
「妬けるな」
そんなロフロールの姿を見たジュビアが不貞腐れたように呟いた。
「ロフロールがどこに行くのかと、興味本位で後を追ったのが間違いだったな」
「別についてこなくても――」
「私がいなかったら、入れなかっただろう」
ロフロールは一瞬押し黙るが、
「ワタシは頼んでいませんっ」
そう言って横を向いた。
飲酒が出来る店では、当然だが年齢制限がある。つまり大人でなければ入れない。
ロフロールのお気に入りであるこのエレギーも例外ではない。
ただ、ロフロールはその容姿から子供に思われ、店員に止められてしまった。
身分証を見せてほしいと言われ、文句を言っていたところにジュビアが現れたのだ。
『私のツレだ。一緒に入れますか?』
こうしてジュビアに助けられて、中に入ることが出来た。
午前中から昼過ぎまで、医療関係の仕事をしていた二人。同じ場所で仕事をして、二時間ほどジュビアと街中を歩いた。
それもフェスティバルを楽しむわけではなく人探し。特に何の収穫もなく無駄に歩いただけだった。
しかし、彼女はバーで彼のピアノを聴こうと決めていたため腹を立てることはなく、逆にわくわくしていた。
何とか誤魔化してジュビアから離れたはずだったが、逆に不審に思われてしまった。お陰でバーに入ることは出来たのだが。
「今まではどうやって入っていたんだい?」
「身分証を見せて……そ、そんなことはどうでもいいんです!」
ジュビアの力を借りてバーに入ったこともそうだが、自分が好きなものを知られてしまったことがもっと嫌だった。
それがジュビアであるというのが、更に許せない。
――なぜ許せないのか、わからない。
見つめてくるジュビアに、何もかもを見透かされているようで気に入らない。
「帰ります」
だから、素っ気ない態度になってしまうのだった。
「もう帰るのかい?」
そんなロフロールを知ってか知らずか、楽しそうに微笑むジュビア。苛々を抑え、彼を無視して立ち上がった。
バーを出ると涼しい風が肌を撫でていった。
もうすぐ八時になる。
じきに花火が始まることを知っていたロフロールは空を見上げた。まだ静かだ。
しかし、騒然となる人々の声にロフロールは前の大通りを見た。
「待って!!」
今度は大きな声。バタバタと走る音。何事かと足を止める人々。
往来する人に阻まれて、ロフロールからは何があったのか、誰なのかはわからなかった。
「シエルじゃないか」
「シエルさん?」
後ろから来たジュビアが言った。その顔には疑問が浮かぶ。ロフロールも同じであった。
「シエルさんは仕事の最中ですよね?」
「確かに――」
シエルが走っていく先に目線を動かしたジュビア。直後、目を見開いたまま動かなくなる。
「……アキ?」
「え?」
ジュビアはそのまま通りに飛び出したが、逆方向から来た人物に押し倒される形でぶつかった。
「わ、うわ!!」
押し倒した人物は即座に立ち、ジュビアを軽々と起き上がらせた。
「すまない……って、ジュビアか!」
「なんだ、エスか」
何やらエストレジャは身振り手振りで説明をしようとしたが、慌てているせいか理解出来ない。
すぐに伝えるのを諦めて、
「すまん、後で説明する!」
そう叫ぶように言ってまた走り出した。
「なにがあったんでしょう」
その慌てようにロフロールは首を傾げ、ジュビアは目を細めて通りを睨んだ。
「私も追う。ロフロールは――」
「行ってください。ワタシが一緒では足でまといになります」
「しかし……」
迷うジュビアを見て、気遣ってくれていると感じたロフロールは嬉しくなって微笑んだ。
「大丈夫です。今からガラさんの所へ行きますから」
シエルとエストレジャのことだ。ガラに説明せずに出てきてしまった可能性が高い。
何があったかはわからないが、責任者であるガラに伝えるべきだとロフロールは思った。
しっかりした口調で真剣な目を向けられたジュビアは、諦めたように頭に手を置いた。
「わかった。だが、くれぐれも気をつけてくれ。多分、シエルが追っていたのはアキだ。あとの二人も近くにいるかもしれない!」
「わかりました。ジュビアさんも……気をつけて」
そんなやり取りをしてから、ジュビアは手をあげてから走っていった。
通りはいつの間にか動き出していた。足を止めていた人々は、ミュッケ・フェスティバルの楽しさに笑い声が溢れかえる。
美味しそうな匂いの漂う大通り。
その日、ラストを締めくくる花火を見るために公園に移動している者がほとんどだ。
ロフロールもガラがいる公園に行こうと歩き出す。
「待って」
しかし、いきなり後ろから腕を引かれて転びそうになった。
身体を反転させて、その人物を見上げた。
「聞きたいことがあって……よろしいですか?」
「あ、あの……あな、あなた……っ。もももももしかして、そのっ」
間近で見たことはない。
ただ、何となく似ている気がした。それだけで驚いて、ロフロールはうまく喋れなくなってしまった。
スーツに、無造作に縛った黒髪、高い身長、長い指。特徴が全てエレギーのピアニストと同じであった。
「ほ、ほ、本人……ですか!?」
そんな様子のロフロールに、彼は吹き出した。
「すみません、笑ってしまって。おれのことを知ってるのですか?」
「そ、その。さっき、ピアノ……っ」
「ああ。聴いてくれていたんですね。嬉しいです」
スーツ姿の彼だが、仕事が終わった直後なのだろう。シャツのボタンは外して胸元まで開き、上着は腕に抱えていた。よく見れば耳にはピアスが光っている。
こうして憧れの人が目の前にいるという事実が信じられない。ロフロールはひたすら見つめるしかなかった。
「なにか急ぎですか?」
「あ、そ……そうでした!」
ロフロールはガラの所へ行こうとしていたことを思い出した。
「でも、その前に。少しだけ付き合ってくれませんか?」
「え?」
「聞きたいことがあります」
「道案内でしたら、もっと詳しい方が――」
フェスティバルの案内所が近くにあったはずだと、辺りを見回し始めたロフロール。
だが、彼はロフロールの頬を手で包み込んで正面を向かせた。
「あ……のっ」
「違いますよ、ロフロール」
「…………!」
彼の優しい微笑みが、急に冷笑に変わった。
「……魔法研究所、と言えばわかりますか?」
「あなた……誰ですか?」
憧れの人物が変貌したと同時に、ロフロールの熱も冷めていった。
心臓が跳ね上がり、震えで動けなくなる。
目は見開かれたまま、彼を恐怖の対象として見ていた。
「申し遅れました。おれの名はアグラード。遊びに来たつもりでしたが、とんだ収穫物がありましたね」
いつの間にかロフロールの腕を握って離さない。
「……あなた、一体……」
「ずいぶん変わりましたね。黒い髪をまとめて、眼鏡をかけていたのに。ねえ、武器開発部長ロフロール」
「……なにが目的ですか?」
するとアグラードはニヤリと笑った。
「少しお付き合いいただけませんか?」
腕にかけていた上着。そこから覗く光るものは魔法銃だった。
「ご自分で開発したものに狙われる気分はどうですか?」
「拒否権はないってことですね。でも、協力はしません。ワタシは魔法研究所を捨てました」
「逃げた、の間違いでしょう?」
ロフロールは彼を睨んだ。アグラードは動じることなく、ただ冷たく笑っていた。
「こんなところで魔法銃を使えば、すぐに捕まりますよ」
「そうかもしれませんね。ただ、魔法銃の良いところは詠唱を必要としないところ。そして、出力を最大にすると……死にますよね? さすが頭のキレるロフロール。素晴らしいものを開発しましたね」
「失敗作です」
「とにかく。捕まるにしても、あなたは確実に死ぬ」
ピピッと電子音がロフロールの耳に届く。
魔法銃の出力を変更した音に、それでも冷静を装ってアグラードを睨んだ。
「死など怖くない。いっそ、殺してくれた方がいい……」
「あなたの大切な人からの伝言。聞きたくないのですか?」
「大切な人?」
逃れようとすれば、少しの隙をついて絡み付いてくる。
アグラードと言葉を交わすたびに動けなくなる自分がいた。言うことを聞かなければならない。
そんな感情に支配されて、抵抗する力を失っていく。
蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだ。
「さあ、行きましょう」
顎で行き先を示したアグラード。ロフロールがそこへ体を向けると、魔法銃が背中に押し当てられた。
二人は大通りから離れていく。
花火を待つ人々とは逆方向に歩く二人を誰も不思議には思わない。多くの人がいても、彼らは他人に無関心だ。
アグラードはミュッケ大都市に詳しいのか、人気のない通りばかりを選んで歩く。気がつけば人の姿は見当たらない。
速くなる鼓動を感じながら、ロフロールは歩き続けた。
遠ざかる人々や音楽。静かな通りに響く二人の息遣いと足音。
――あなたに本当のことを伝えるべきでしたね、ジュビアさん……。
無表情のままで助けを求めていた。
ロフロールの靴音が響くたびに、どうしてか孤独を感じて苦しくなる。息苦しくなる緊張の中、それでもロフロールは下を向かなかった。
――ごめんなさい、ジュビアさん。
気に入らない、腹が立つと思っていたジュビアに心の中で謝るロフロール。
「あなたのピアノは好きでした」
「ありがとうございます」
「でも! 今、捕まるわけにはいきません!」
人気のない路地裏。彼女は振り返りながら、右手を突き出した。
突然の行動に慌てることなく、アグラードは狂気の笑みを浮かべた。
「遅い!!」
アグラードの手にあった上着がスルリと落ち、魔法銃があらわになる。
同時に、その日ラストを彩る花火が打ち上がった。
 




