姫巫女
「お話があります。姫巫女様」
ひとしきり泣いたシエルは何事もなかったかのように、すぐに姫巫女の生家に向かった。
姫巫女の生家はシエルの実家である屋敷の裏手にある。
右側に位置する村長の家の前を通る細い道。すぐに屋敷の裏手に出られる。
そこには同じ木造の平屋があった。違うのは手入れされた庭木と、大きめの石が囲うように置かれていることだ。
不思議そうに見ていたエストレジャに、シエルは石が結界の役割をしていると教えた。
部屋は一つしかない。
玄関を入ると、まるで道場のような広い空間が二人の目の前にあった。
外からの明かりが入り込み、中の様子が見える。
姫巫女が着ていたと思われる巫女装束が、部屋の中央に飾られていた。
シエルの着ているそれとは違い、青い袴だった。
《待っていました》
響くような透き通る声に、部屋に入ろうとしていたエストレジャの足が止まる。
反対にシエルはわかっていたらしく、一礼して中に入っていった。
中には誰もいないはず。
だが、信じられないことに広い部屋の中央が青白く光っていた。巫女装束がよく見える。
シエルはその前に正座した。
「エストレジャ、早く」
「あ、ああ」
慌てて部屋に入り、少し離れた場所にエストレジャは座った。
よく見れば、巫女装束の前に台座があり、そこに置かれた本が光っている。
その本を見て、エストレジャはピンときた。あれが『姫巫女の日記』であると。
《こうして話すのは何度目でしょう。シエル》
「……十回は」
《様々なことを話しましたね。まだ話したいことがありました。でも、あなたは村を出るのですね》
「……はい、姫巫女様」
青白く光る本から聞こえてくるのは、姫巫女の声である。
シエルの話していることを聞いて、理解するも納得までは出来ないエストレジャ。うまく状況がのみ込めない。
エストレジャは話を聞くことに専念することにした。
《案ずることはありません。この日記の中に私の心を宿しました。肉体は滅んでも、私は村を守る結界として生きています。シュピナート村が消されることはないでしょう》
シエルがシュピナート村に来た目的は、中央都市プルプのように破壊されることを危惧してのこと。
それをすでに知っている姫巫女は、シエルを安心させるために話した。
《私がいる限りは無事です。日記が持ち出されたこともありません。結界が壊れていないことが何よりの証拠です。安心なさい》
「でも、いずれ狙われるかもしれません」
《大丈夫です。私を信じてください》
強い口調だった。
その言葉にシエルは納得するしかなかった。
姫巫女の言葉は、シエルにとっては絶対なのだ。
しんと静まり返った部屋。
動物や虫の声も聞こえない。その存在すらも怪しいシュピナート村。
時間の感覚もわからなくなっていた。
《よく考えなさい。あなたの求めるものは、世界を脅かす存在です》
声色が変わった。少し低くなったそれに緊張したのか、シエルの肩が揺れた。
青白い光が明滅を繰り返し、シエルを探るようにページが捲られていく。
《運命を受け入れるのです、シエル》
それは厳しい言葉だった。
エストレジャはすでに知っていた。シエルが村を追放されたこと。姫巫女に会ったら、二度と村に戻れないこと。
戻るべき居場所を失い、たった一人で立ち続けなければならないシエルには、姫巫女の言葉は辛いはずだ。
《全て知っています。あなたが魔力を失ったこと、力を求めて龍を捜していること》
シエルは押し黙った。
姫巫女に嘘は通じない。シエルのことも、エストレジャのことも、何もかも知っている。
《龍は魔王の下僕です。あなたに扱える存在ではありません》
「魔王……魔王の下僕……っ」
彼女は知っている。
なぜなら、その目で魔王を見た。龍を見た。
伝説になっている戦いの中心にいた人物。彼女は真実しか語らない。
声しかない『姫巫女の日記』という形だとしても、中身は紛れもない姫巫女なのだ。
《かつて私が経験した魔王との戦い。龍はとても強く、賢い。そして下僕という立場にあっても、魔王を見下すほど自尊心を持った存在でした》
姫巫女は思い出していたのか、少し間が空いた。
《魔王でさえ扱いに苦戦するほどのもの。あなたに扱える訳がありません》
シエルはにわかには信じがたい話を聞かされて落ち込んでいった。いや、信じているからこそ塞ぎ込んでしまうのだ。
手を出してはならない禁忌。それが龍という存在だ。
魔法が使えないからと、欲するべきものではない。
――わたしは次期姫巫女として魔法は絶対に必要だった。でも、村を追放されたら……そんなもの、必要ないのよね。
何もかもを失い、目的もわからなくなった今、召喚幻獣を捜す意味はあるのだろうか。
シエルはわからなくなって、声が出なかった。
それを見て、エストレジャが後ろからシエルの肩にそっと手を置いた。
《エストレジャと言いましたね。一緒に旅をするなら、あなたも聞きなさい。シエルが手に入れようとしている力は、世界を破滅させます。それでも求めますか?》
シエルは目を閉じた。
とてもすぐに返事が出来るような問いではなかった。
世界を破滅させる。それは姫巫女が残した言い伝えの一文にもあった。
《よく考えることです》
言った後、姫巫女はシエルの答えを待つかのように沈黙した。
世界を破滅させるつもりはない。
ただ、自分が知らずに足を踏み入れた場所が禁忌となる所だとしたら。知らなかったでは済まない。
ゆっくりと目を開け、『姫巫女の日記』を見つめた。
「姫巫女様、教えてください。今も龍は存在していますか?」
《もちろんです。あなたはすでに知っているのでしょう。龍は属性の数だけ存在する、と》
旅に出る前にマールから聞いたことだった。
《魔法は自然エネルギーが元になっています。その自然を司る者こそが、龍なのです》
「魔法が龍?」
《そういうことになります》
シエルははっとして腰を上げた。
「では、火の龍になにか……なにかがあって。わたしの魔法が――」
《それは考えにくいですね》
「え?」
《仮にそうだとしたら、火魔法を使う全ての人に影響が出るでしょう》
もっともな意見だ。シエルは脱力し、また座り直した。
静かな部屋に何処からともなく風が舞い込んできた。
《答えを聞きましょう、シエル》
姫巫女の言い伝えが本当のことなら、召喚幻獣は復活させてはならないもの。それは魔王の下僕であったという事実からも、容易に破滅の文字が浮かぶ。
彼らの力を手に入れるなどと考えてはならない。
「わたしは召喚幻獣、龍に会いたいと考えています」
それでもシエルには、僅かな可能性に賭けるしかなかった。
「わたしの魔力喪失の謎を知りたいのです」
力を探すのではなく、その原因を探りたくなった。原因さえわかれば、魔力が戻る可能性もある。
魔法のことなら、その大元である龍に聞くのが一番だ。
《しかし、私が知っているのは魔王の下僕であった黒龍。他の存在はわかりません》
それは『勇者の日記』の道を辿り、召喚幻獣を捜そうとしているシエルの旅を知っていたからこその言葉だ。
シエルは久しぶりに笑顔を見せて頷いた。
「わかっています。わたしには龍がどこにいるのか捜す手段がありません」
《だから、まずは書に記されている黒龍を捜すのですね?》
姫巫女はわかったとばかりに強い光を放った。
《あなたの意思を受け取りました。行きなさい。あなたはもう、村にとどまるべきではない》
厳しくも優しくもある声がシエルの耳に届くと同時に、眩しい光に包まれて目が開けられない。それはエストレジャも同じだった。
《幸運を、シエル。私はあなたを見守りましょう。あなたの決断を祝福します――》
「姫巫女様っ!」
《私はまた姿を消します。あなたは旅を続けなさい。急ぎ、オステ国へ》
最後の言葉に疑問を持った二人が、口を開く前に世界が一転した。
光は闇に変わり、足元にあった畳は雪に変わった。シュピナート村があった洞窟は消え去っていた。
頭上にあるのはサクラではなく、見慣れた広葉樹。葉がない今、とても寂しく見えた。
そんな木の隙間からひらひらと舞うものがあった。
「サクラ……」
シエルの頬を撫でる前に、その花弁は柔らかい風によって上空へ運ばれていった。
――わたしの選択は間違っていなかった? 本当に進んでもいいの?
迷いを断ち切るように、朝日が二人に降り注ぐ。
立ち上がると、なぜか一筋の涙がこぼれ落ちた。
「行こう、エストレジャ」
「ああ……」
この日、シエルは巫女としての資格を失い、隠された村シュピナートはその姿を消した――。
 




